(『CUT』2003 年 10 月)
山形浩生
スティーブン・ピンカー『心の仕組み』邦訳がやっと出た。6 年前にアメリカでベストセラーとなり、知能や知覚や各種の感情についての高度かつ手際のよいまとめとして、たぶん欧米知識人には一つの常識、ではないにせよ、基礎教養くらいにはなっている本だ。
本書については、まず言いたいこと。注はどうした! 参考文献を勝手に削るな! ピンカーも序文に書いている通り、本書は膨大な領域をカバーしていて、もちろんピンカー一人ですべて研究しているわけじゃない。多くは他の人の成果の引用だ。それが明記されていない邦訳では、何か疑問があったときにどんな原典にあたればいいのかさっぱりわからないのだ。せめてウェブページを作ってそこに載せるとか、その程度の対応はほしかったところ。この手抜きで、本書の価値は大幅に下がってしまった。
が、本書の主張自体は、まあきちんとわかる。本書においては、知覚や意識はすべて、モジュール化した小さな部品の組み合わせとして成立していると主張されている。それらのモジュールは計算プロセスによって機能している。そして最小のコストで最大の機能を発揮するよう進化によってチューンされており、さらにその発展プロセスが生得的に決まっていることで、人間の現在の知覚は成立している。そして各種の感情――友情、同情、哀れみ、愛、ユーモアなど――はすべて、進化論的な必然によって成立し、存在しているのだ、ということだ。中巻のランダムドット・ステレオグラムの解説などに典型的なように、ピンカーはよくあるものを例に、その背後にあるメカニズムをわかりやすい形で説明する天才だ。それは前著『言語を生み出す本能』でも遺憾なく発揮されていたけれど、本書でもそれは健在だ。モジュール化されているとか、計算プロセスとか、ことばで言うのは簡単だけれど、それを具体的にイメージするのはとても難しい。ピンカーはそれを見事にやりとげている。
ただし時々ピンカーの説明は不明確になる。たとえば長子と第二子の性格のちがいに関する分析がある。これは遺伝的なものじゃなくて、社会的なポジションにより後天的に決まるものだ。ときどき本書では、こうした後天的な要因と先天的な要因が必ずしも明確にわかれておらず、主張があいまいになっている。
そして本書はいろんなことを進化で説明する中で、いくつか非常にむずかしい問題をちょっとごまかしているのだ。それは、社会的規範と進化的に決まってきた人間の特性との関係だ。たとえば男女平等はどこまで正しいのか? 人種については、この欄でもかつて紹介した Taboo の邦訳であるエンタイン「黒人アスリートはなぜ強いのか」でも議論されていた。そして本書では、性差についてかなり詳しい分析が行われている。性差は必ずあり、そして男女の役割分担は世界的に見てどの社会でもほぼ普遍的に近い。それはある種の進化的必然性からくるのだ、とピンカーは論じる。ただし、それは男女差別を認めるものではない、とかれは言い逃れる。
だけれど、もし遺伝的な差が(全社会に共通するほど)あるなら、それにさからった社会規範を構築することは、かなり不合理なのではないか? 走るのが相対的に遅い日本人に、黒人並みにはやく走れ、というのは無理ではないかと思われるし、またそれを実現するような社会的政策(補助金や優遇策)は、結局資源の無駄遣いにつながるだけではないのか? そしていろんな職業に就いている頭数の差をもとに男女平等を目指したりするのも不合理で社会として効率の悪いことではないか?
最近出た『バロー教授の経済学でここまでできる!』では、ロバート・バローが美の経済学を述べている。そりゃあ確かに、多くの仕事には顔は関係ない。だから就職採用のときに、顔で人を選ぶのはよくないことだ、という議論はもっともらしい。でもほとんどの仕事では、顔をどこかにおいてくるわけにもいかないのも事実だ。同じ仕事ができるなら、見て好感の持てる顔のほうがいいだろう。だったら、それは就職のときに顔が判断材料になることを認める、ということだ。そしてそれを否定するような変な規制はやめなきゃいけない。男女差にも同じことが言えまいか? 女の給料が低いとか国会議員が少ないとかは、文句をつけるべきことではないという議論もできるはずだ。
本書で何度かこの問題に対する言及はある。でも毎回、ピンカーはこれをごまかしている。が、今後もしピンカーのまとめたような考え方の正しさがますます示されるようになれば(そしてたぶんなるだろう)、最終的にはどこかでこの問いに答えなくてはならないだろう。われわれはある理想を実現するために社会的に無駄なコストを支払う用意があるのだろうか? あるいはどこかで、社会的な無駄を排除していまの進化状態にマッチした社会構造の検討――そこにはおそらく、いまのぼくたちが差別と見なすものが確実に入っているだろう――を行うことになるんだろうか?
もちろん本書の多様な議論の中で、この問題は必ずしも中心的なものじゃない。またもう一つ、ピンカーの議論には含まれていないものがある。それは人間の遺伝的な性質を補う機械の役割だ。機械は――そして機械に限らず人工的な補助物、たとえば化粧品や整形外科やめがねは――多くの遺伝的な差を、無意味にはしないまでも、かなり縮める役にたつ。いまの遺伝子による各種特性は、数万年前の狩猟採集に適応したもので、現在の農耕都市社会におけるよしあしには適応していない、というのがピンカーの議論なのだけれど、おそらく機械やその他の補助手段を入れたときの最適解というのはまたちがってくるだろう。だとしたら、いま合理的となる社会的なシステムとは何なのか――ピンカー流の分析の果てにはそうした考察がくることになると思うのだけれど、ピンカーの本はまだそこまではきていないのだ。
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