Valid XHTML 1.1! Sock Monkeys 連載第?回

人間くさく有機的な廃墟の本。

(『CUT』2003 年 3 月)

山形浩生



 廃墟の持つ魅力をどう説明したらいいのかはよくわからない。あらゆる建物は、何らかの目的を果たすべく建てられ、その役目が終われば(あるいは本来の目的が果たせなければ)、次の最善最高の利用に道を譲るはずなんだけれど、廃墟はそれが実現していない。通常の失業であれば、これは単なる空き家や空きビルなんかに相当するわけで、次に入る人を待てばいいのだけれど、廃墟はそういう失業ですらない。もはやそこは使うことさえできない、使うためには投資が必要な存在となっていて、すでにそこにはマイナスの価値しか存在していない。経済合理的な価値観からいえばそういうことは起きないはずなんだけれど、でも起きる。それが起きる理由は、人間個人としての不合理性から、市場の不完全性から様々なんだけれど、それが具体的に目の前に存在しているという驚き、とでも言おうか。あるいは単に、そもそもどう考えても成功するわけがないものを、思いこみで作ってしまった施主のバカぶりや無謀さに呆れつつ驚嘆する、そういう感覚かもしれない。

 もちろん、廃墟がらみの本はいろいろあるんだけれど、ぼくはこの中田・関根・中筋『廃墟探訪』(二見書房)が気に入っていて、それはこれが類書の多くにくらべて、とびぬけて下世話だからだ。これはかつて『GON!』に連載されていたシリーズの単行本化だ。『GON!』といって知らない人のほうが圧倒的に多いだろう。(いい意味で)三流お笑いサブカルエロ雑誌、とでも言おうか。変な雑誌だった。廃墟写真集の多くは、妙に気取っている。無機質っぽい。鉄骨だけ、壁だけ。有機物はすでに腐食し、かろうじて木の柱や壁の一部くらいが残っている感じで、無常観であるとか、アーティスティックな廃墟観みたいなものが明確に出されている場合が多い。そして明らかにその廃墟を美しく、崇高に撮ろうという処理が行われている。宮本隆司の『九龍城砦』なんかはそんな感じだし、小林伸一郎の本もそういう傾向が強い。かつて磯崎新は自分の設計したつくばセンターが廃墟化した絵のようなものを嬉しそうに描いたりした。その多くでは、すでにそこには誰もいない。公式の資料は残っているかもしれない。でも、具体的な人の生活臭みたいなものは極力廃されている。撮られる廃墟の多くは、ある種の工業考古学の対象となりそうな、廃工場や倉庫、駅、巨大インフラ。その本来の目的の大きさと、現在の姿とのギャップで何かを訴えると同時に、空間全体がもともとある種の無機性というか、人間のスケールをちょっと超えた規模を持っていたことで、廃墟になった後でも人間くささが感じられない、そういう仕掛けになっている。

 ところがこの『廃墟探法』はそうじゃない。このシリーズでも、そういうでかい施設はある。工場跡、金鉱跡。でも、物件そのものがここではまず下世話だ。ソープランドの廃墟。パチンコ屋の廃墟。そこらの一軒家や、旅館の廃墟。ボーリング場の廃墟。このシリーズの廃墟は、そんなのが山ほどある。さらに、そうした廃墟も、無人の無機的な空間になっているものはかえって少ない。カップラーメンからざぶとん、ストーブ、浮浪者が入り込んでしばらく暮らしていたとおぼしき生活臭、ウンコや古新聞が一面に漂っている。未だに「利用」されているとおぼしきラブホの廃墟。廃墟化はしているけれど、まだ人が住んでいるという変な「廃墟」まである。それがかえって、廃墟としての怖さを出している。「人のいる廃墟ほど怖いモノはない」と著者たちも書いているほど。廃墟は、実はまだ人とのつながりを残している。それは所有者だったり、地域の関係者だったり、ただの管理人だったり。

 そしてそこにこの連載シリーズの大きなおもしろさがあった。単に廃墟を見て芸術的な感傷に浸るだけでなく、極力そういう人々をつかまえて、話を多少なりとも聞いているのだ。その住人、管理人。一人の男が、ノミ一本でひたすら岩山を掘り抜いて作りかけた岩窟ホテルの話。金山で金を掘っていた金鉱師(特にこの金鉱師の話はおもしろい)。「あそこには幽霊がいてたたりがある」と語る近所の人たち。沖縄の廃墟ホテルにすみつき、そこに遊びに来る基地の米兵たちと壮絶な投石バトルを繰り広げたという浮浪者の話。多くの廃墟は、もはや忘れ去られた、この世とは隔絶した存在として描かれていることが多いけれど、この連載の廃墟たちは、いまもこの世とのつながりを必ずしも失っていない。本来の目的とは別の形で、何らかの機能を果たしている(場合もある)。かつての沖縄海洋博の舞台となったアクアポリスの廃墟を尋ねた話は、世代的には結構感動的だったのだ。そうか。かつてのあの晴れ舞台が、ボロボロの廃墟と化し、そして屑鉄として売られていったのか。大阪万博はいま、「クレヨンしんちゃん」のネタになったり本も出たりしているけれど、沖縄海洋博なんて多くの人はあったことすら忘れているだろう。そのなれの果てについて書いてくれるのは、唯一この本だけだろう。まだどこかにつくば博の廃墟なんてのはあるのかな。

 本書の廃墟たちは、そういう身近な感覚を呼び覚ます。そういえば大井町の駅周辺は、再開発に失敗した地域となっていて、こういう廃墟まみれだった。いつか、ここらへんの写真を撮ろって記録しておこうと思っているうちに、10年がすぎ、そしてここ2年ほどで、やっとまともな開発が起こりつつある。新しい建物が建ち、その廃墟たちも消えつつある。類書の妙にしっかりした廃墟に比べ、本書の廃墟はもっとはかなそうだ(でも意外にしぶとく残ったりするんだけれど)。でも、それが多くの廃墟の本来の姿、という気がするのだ。

 そういえばこのシリーズが連載されていた『GON!』も、いまはあるというべきかないというべきか。ただの三流以下のエロ雑誌になってしまっている。これもまた廃墟の一つのあり方、というべきかもしれないか。

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