Valid XHTML 1.1! 日本のアニメ 連載第?回

一般論にこじつけるだけでは。

(『CUT』2003 年 1 月)

山形浩生



 ぼくはこの本を読んで失望したんだけれど、それは別にこの本が特にダメとかつまらないとかいうことじゃない。たぶんこの手の、アニメ論だとか漫画論だとかすべてに共通する失望で、その中で本書は比較的ましなほうだとすら言えるかもしれない。が、それでも失望は失望だ。

 この本は、日本アニメについての評論だ。一つ割り引くべき要因として、これが日本の読者を対象にしたものじゃない、ということが挙げられる。あんまりアニメを見たことのない、特に英語圏の読者が対象だ。でもそれを割り引いても、本書は結局、何もまともに説明できていない。それが失望の最大の元凶だ。非常に決まり切ったお話に落ち着いて事足れりとしているだけ。アニメは、終末モード、祝祭モード、叙情モードがある、というのが著者の分析の主軸なんだけど……それはあらゆるエンターテイメントに共通するものだろうに。そしてこの人にとって、アニメは要するに現実逃避の一手段だから人気があるのだ(あるいは価値があるのだ)ということになる。「アニメが提示するファンタジースケープは(中略)汚れにまみれた現実の表層を超越し、われわれが自分だけの自由な想像に酔いしれる世界に入り込むことを可能にするのである」(p.418)

 そういう面もあるだろう。でも、なぜそれがアニメなのか? 現実逃避手段なんかいろいろあるのに? アニメがそうした逃避ツールとして特に有効なのはなぜか? そしてなぜそれが日本でのみ発達したのか? 本書はまったくそうした点に触れないのだ。

 この人の手口は、いくつかのアニメを見て、そこに共通する要素をひろってきて、そしてそれを日本の社会環境にこじつける、というものだ。たとえばキューティーハニーや「うる星やつら」のラムちゃんが強いのは「解放された女性のアイデンティティの形」で、「女性たちの自立が進んだことによる全体的な動揺を表象する」そうな。ホントかね。ラムちゃん人気は、勝手になついていろいろやってくれる都合のいい女の子がいたらいいなあ、というアニオタのだらしない欲望を反映しているだけかもしれない(というかこっちのほうが実態に近いだろう)。でも、著者は必ず、何かどっかできいたようなお題目に話を落としたがる。女性の自立とか。日本がグローバル化に伴って疎外感を感じているから日本アニメにはエレジーを基調にした部分がでてくる、とか。アニメで描かれる世界の終末というテーマは現代日本人の心の空虚の反映だとか。

 でもその記述は実に一貫性がない。「うる星やつら」が女性自立の表象だと書く一方で、著者は日本のある種のかかあ天下的類型を下敷きにしていることを指摘している。あるいは終末論にしても、日本はキリスト教的黙示録の伝統がないから終末描写は特異だ、と述べた直後に、でも実は仏教末法思想がある、と言い出す。あれもある、これもある、と挙げてきて、最終的にはもとの枠組みが成立しているかどうかも怪しいものばかり。

 さらにこれらの説明の多くがぼく自身の感覚とかなりずれていて、ピンとこないという点はおいておこう。ぼくが特殊なのかもしれないから。でも、これらの説明がきわめてアドホックだということは否定しようがない。たとえばグランジロックやミュージックビデオに対しても、終末モード、祝祭モード、叙情モードはすぐに指摘できる。彼女が指摘する各種のテーマは、日本に限った話じゃないのだ。それがアメリカでは(たとえば)オルタナティブ系ロックとして現れ、日本ではアニメとして表現されるのはなぜか? 彼女の説明は、日本アニメだけを見ていると、なるほどもっとらしい部分もある。でも、一歩ひくと――アニメとそれ以外の部分、日本と日本以外の部分をまとめて視野におさめると――実は説明に必ずしもなっていない。

 そしてそれに関連して、もう一つ本書の欠点は、ネイピアは自国のサブカル文化の状況について無知だということだ。たとえば本書は、ハリウッド映画は安心感を基調にしているけれど、アニメはそうではない、と指摘する。でもそうかね。アメリカのヒット映画はホントにそんな予定調和の安心感を描いているか? 『マトリックス』は? 『13日の金曜日』シリーズは? そして映画以外では?

 またネイピアは、アメリカにおけるアニメファンダムの活動が特殊だと主張したがる。それはスタートレックやスターウォーズのような特定の作品ではなくジャンルのまわりに形成されている点が特殊だ、と。でもこの人はたとえば、SFというジャンルのまわりに成立しているSFファンダムの存在を知らないのか? こうした知識の不足は、本書の依って立つ基盤をとても脆弱なものにしているのだ。

 ネイピアは、日本アニメの特殊性と普遍性を証明したかったという。でも、どっちもできていない。本当にやればよかったことは、アメリカにおいて、日本アニメの受容層がほかのどんな文化産物の受容層と重なっているかを調べることだった。調べるまでもないけど。オルタナティブ系のロックファン。コンピュータおたくにゲームマニア。そういう連中の嗜好を分析することで、アニメが働きかけている本当のツボを引き出すことができただろう。それがアニメの普遍性をえぐるための手段だ。また、アニメの特殊性を考えるには、その生産プロセスの特殊性を考えるべきだったんだろう。たとえばローレンス・レッシグは日本マンガの独特な発展の原因の一つとして、この分野の知的財産に対する規制の実質的な弱さを挙げている。それだけですべては説明できないにしても、非常に興味深いポイントだ。アニメにも適用できるかもしれない(ちなみにマンガとの関係を一切無視しているのも、本書のダメなところではある)。彼女には、アニメの外のサブカルチャー文化の広がりが見えていない。そしてそれは、この種のサブカルをネタにした学術的な「研究」と称するものすべてに共通する欠点なのだが……それについてはまたいずれ。

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