Valid XHTML 1.1! エクスタシー 連載第?回

データマイニング知識体系のつまらなさと時代錯誤。

(『CUT』2002 年 10 月)

山形浩生



 この本を読み始めてすぐに面食らうのが、高山宏以外の人の書いた文がいきなりはさみこんであることだ。高山宏を誉めるファックスとか私信とか、高山宏を讃える書評とかがたくさん。こんなものをわざわざ他人に見せびらかすかなあ。だが本書を読むうちにだんだんわかってくるのが、高山自身の自画自賛ぶりは、他人の社交辞令なんか問題にならないくらいすさまじいということだった。

 高山宏は、まあ肩書き的には英文学屋さんということになるのかな。でもぼくを含む多くの人たちは、かれが翻訳紹介してくれたいろんな論者を経由してかれのことを知っている。高山宏といえば、ニコルソンとか、ロッシとかウィルフォードとかを紹介してくれた人だ。いろんな文化現象の中で、みんなが見逃していたような隠れたモチーフを抽出し、そうしたモチーフが実は重要な意味を担っていて、そしてそれがあちこちの作品に登場することで一つの系譜を作っている――それをいろんな題材で見せてくれたこれらの論者はとてもおもしろかったし、それを紹介してくれた高山には大いに感謝している。

 ただしかれの紹介するいろんな論者の議論はとてもおもしろいと思う一方で、高山自身の議論がおもしろいと思ったことはほとんどない。なぜかといえば、高山宏自身の文は往々にして「あっちでもやってる、こっちでもやってる」の羅列に終始して、「それがどーした」と言うしかないものになり果てている場合があまりに多いからだ。そしてその欠点は、本書を読むと目を覆わんばかりにあらわになる。あとがきを読んでみるといい。単語レベルでたまたま文化現象が似ているとか、時代がたまたま一致したとか、似たような内容がたまたま扱われているとか、そんなものを引っ張ってきてはあれもこれも、と言って大騒ぎするだけ。そこに本当に関連があるのか? その類似性を深読みすることは正当なのか? そういう考察はまったくなし。かれのやっていることは、実はかなりたちの悪いデータマイニングでしかない。

 こうやってまとめて読むことで、高山の欠点はほかにも次々にあらわになる。たとえば高山はいっしょうけんめい、コンピュータがどうしたとかデジタルが云々といったことを言いたがる。チューリングがどうしたとか言って。でも、実際にはよくわかっていないな。ライプニッツが01のバイナリ表現に到達、なんて話をしきりにして、それがコンピュータ言語の基礎だとか言うんだが、単なるデジタル表現と処理系としてのコンピュータの話がごっちゃだし、単にデジタル表現がお好きなら、文字というものが出現した時点でそれはすでに始まっているのだもの。

 そして、それをまた高山の好きな視覚文化論みたいな話とつなげようとして、ミッチェル先生の『リコンフィギュアド・アイ』を持ち出すんだけれど、ここでもミッチェルの不十分さはをきちんと理解できていない。それはかれがCGの話で終わっていることなのね。その先の本当にすごい可能性にまで考えが及んでいないのだ。視覚的なデータだと思われているものは、コンピュータにとってはただの数字だ。9828954797900001233973897。こうなったとき、光学的な意味での「視覚」という概念にどこまで意味が残るのか? マシンにとって、それは「ただの」データになる。それを押し進めると、視覚文化そのものの意味合いが変わってくる――でも高山は、似たようなものをつないでこと足れりとするだけで、自分できちんと考えをつめたりできない。だからかれもまたCG止まりで安心しきっている。

 そして、いま述べた高山の、似たようなものをつないで大騒ぎするだけ、というやり方は、今後ますます無意味になってくる。本書の中で、高山は一瞬だけスタニスワフ・レムに言及しているけれど、レムが高山からいかに遠い世界を見ていることか。もはや、似ているだけ、共通点があるだけ、ということが何の意味も持たない世界をレムは描いているよ。人口が増え、人々のインタラクションが増えるにつれて、あらゆることはいずれ、何らかの形で起きる。似ている? それがどうした。同じような指摘をいろんな人がしている? それがどうした。  そしてもう一つが、ウィリアム・バロウズのカットアップ。それと同じ発想のサンプリングやリミックス。もはや同じものがあっちとこっちに同時に存在することには、何の意味もない。それは単なるカットアップかもしれない。そのとき、もはや高山のようなやり口は何の意味もない。そしてこれからの世界は、ますますレム的、バロウズ的になりつつある。

 すでにそうした兆候は本書にも記述されている。高山はリュック・ベッソンのおばか映画『フィフス・エレメント』を第五元素論に端を発する薔薇十字映画だと論じてバカにされたそうな。あんなのただの切り貼り映画なのに。ただのカットアップを、あるモチーフがあるというだけで同じ系譜にこじつけて深読みすることの滑稽さがここに出ている。ちなみにこれに限らず、高山はポピュラー文化となるとえらく弱い。巻末近くに嬉しそうに収録されているカヒミ・カリィ賛の駄文ぶりは、読んでいて赤面するほど。

 本書を、高山は何か集大成のようなつもりでまとめたらしい。でもこうして読んでやると、ぼくにはむしろそれがほとんど墓碑のように思える。そりゃあ本書を読んでいて、「これはおもしろそうだからあとでチェックしよう」と思った文献はいくつかある。でも、どれも決定的な重要性をぼくにとって(そして他のだれにとっても)持つとは思えない。本書で高山は、しゃべり続けるうちにもっとだいじな核心から自分が漂い離れているのに気がつかない。自分の方法論自体が間もなく終わりを迎えようとしているのに気がついていない。ぼくにはそう思える。それとも気がついているんだろうか? それで不安だから、必死で自画自賛を続けるしかないんだろうか。いずれにしても本書には続編ができるそうだけれど、ぼくはたぶんそれを読まないだろう。

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