Valid XHTML 1.1! 魔術的芸術 連載第?回

アンドレ・ブルトンのインチキと悲しさ。

(『CUT』2002 年 8 月)

山形浩生



 アンドレ・ブルトンと言えば、泣く子も黙るシュルレアリズムの親玉だ。いろいろ伝説もある人だけれど、ぼくが好きなのは荒俣宏がカイヨワ『妖精物語からSFへ』の解説で紹介していた、ブルトンとロジェ・カイヨワとけんか別れしたときのエピソードだ。メキシコやアメリカで売っている、ジャンピングビーンズというのがある。容器を手の中で暖めると、中の豆が飛び跳ねるやつだ。それをもらったブルトンは、ぴょんぴょん跳ねる豆を見て、「植物が飛び跳ねる神秘こそが詩的夢想をしげきする」と大喜びしたのだけれど、そこでカイヨワがすかさず豆を割って「これは中のムシが飛び跳ねるから豆も跳ねるのだ」と説明してみせた。で、ブルトンは「この鼻持ちならない合理主義者め!」とカイヨワを罵って、両者は袂を分かった、という。

 これが本当かどうかは知らないのだけれど、これは実によくできた話で、アンドレ・ブルトンのダメなところを上手に浮き彫りにしている。そしてこれはこの『魔術的芸術』で全開になっているダメさ加減でもある。それは、合理性と神秘とか、科学と魔法とか、物質と精神とか、そういうものが対立して相容れないと思っている、ということだ。

 この『魔術的芸術』がなんで今頃再刊されたのかはよくわからない。1997年に、28000円というすさまじい値段で出たものの本文部分だけを取り出した普及版だ。ちなみにそれが奥付ページまできちんと説明されていないために、アンケート(この版では割愛されている)がどうしたこうした、という記述に読者は大いにまごつかされることになるんだが、それはまあいい。

 で、この本の趣旨というのは、芸術の大きな部分がこのかつての魔術や呪術に起源を持ち、その価値がそれらの(魔術に通じる)反合理性、反物質性、精神性にあり、そしてそれは人間の内的必然性として連綿と続いているのだ、という話だ。

 なるほどね、という気はしなくもない。そしてそれを論証すべく、ブルトンはラスコーの洞窟壁画から土偶から、ダヴィンチからゴーギャンからボッシュからモローからピカソまで、あれも魔術、これも魔術と指摘してまわる。図版はきれいだし、ブルトンの指摘がなかなかおもしろいときだってある。

 が、よく考えると、この話はまるで成り立たないのだ。そもそもブルトンがちっとも見ていないことがある。それは、その古代人たちにとって、神様にお供えするのも、土偶を作って拝むのも、呪い人形に釘をたたきこむのも、魔術や呪術であると同時に科学でもあるんだ、ということだ。むかしの人は非科学的でバカだったからそういうことをしていたんじゃない。あるいはブルトンみたいな盲目的反合理主義を標榜して呪術をしてたわけじゃない。かれらはかれらなりに、自然現象を見ていた。そしてかれらなりに、そこにあるパターンと因果関係をこじつけた結果が各種の魔術や宗教体系の発端だ、ということだ。つまり土偶や祭器を、非合理性や精神性の発露として見るのはそもそもまちがっている、ということだ。魔術を非科学性と同一視するのはまちがっている、ということだ。

 それを考えたとき、「魔術性」なものの系譜を古代の祭器や偶像や図像から現代のキュビズムまでたどろうとする本書の試みは、ほとんどナンセンスとなる。昔の人たちが(ある意味で実用品として)作っていた土偶は、本当にピカソの絵と同じ心性を共有しているんだろうか。それらをひとくくりに「魔術的芸術」と呼ぶことに意味はあるんだろうか? 無理だろう。だから、なのかもしれないけれど、本書の記述は実はかなり恣意的だ。いったい何が魔術的で何がそうでないか――ブルトンはいっしょうけんめいフロイトや考古学や民族学の成果なんかを引っ張ってきて理屈付けしようとするんだけれど、ほとんど成功していない。それは多くの部分でただの饒舌に終わっていて、「結局それがどうしたのさ」というところがやたらに多い。結局、本書はタイトルから一歩も先へ進むことなく終わっている。

 そしてブルトンは、こうした魔術的心性が続いている証拠として、科学と合理性がますます拡大しているのに、オカルトへの興味が高まっている、ということを指摘する。これについてぼくは前に、エリアーデの本を種にこの欄で書いたことがある。人は星や宇宙との結びつきを回復したいと思っているんだ、と。だから必死で星占いや血液型占いや動物占いや寿司占いにしがみつくんだ、と。ブルトンのこの『魔術的芸術』は、ある意味で人々が星占いにすがるのと同じなのかもしれない。ブルトン自身は、もちろん自分がある種の明晰さに基づいて行動しているつもりでいる。でもこれもまた、自分のやっていることが孤立した無意味なことだと感じている現代人が、必死で自分のルーツをある種の歴史性に求めようとする悲しい試みなのかもしれない。

 ただ、そう考えたとき、ブルトンの本書での指摘は、かれが考えるのとはちがった意味ではあっても、狙いはよかったのかもしれない。マグリットの絵は悲しいだろう。キリコもダリもエルンストも。その悲しさは、ひょっとしたらその自分のルーツや世界の中の位置づけを見つけたいというところからくるのかもしれない。それは魔術的、ではないかもしれないけれど、魔術的でありたい、という願望ではあるのかもしれない。その意味で、本書も無価値ではないのかもしれない。そしてまた、多くの人にとってブルトンが(少なくとも理論家としては)実は大したもんじゃなかった、ということを認識するのは、結構安心できることかもしれない。

 そしてもう一つ本書を読んで思ったのが、荒俣宏『理科系の文学誌』は、実はすごい本だったんだなあ、ということだ。荒俣は本書でのブルトンのインチキな区分を軽々と乗り越えて、もっと大きな美の体系に迫ろうとしつつあった。それが続かなかったのは……まあこれを言うのはグチか。が、いまからでも遅くないから続きをやってくれないものか。

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