Valid XHTML 1.1! 食糧棚 連載第?回

あなたの食べ方を変えるかもしれない。

(『CUT』2002 年 8 月)

山形浩生



 ここマラウイの主食は、シマという代物だ。厳密には頭にンの音が入る「ンシマ」なんだけれど、これをきちんと発音するのは日本人にとってLとRの使い分け以上にむずかしい。これはトウモロコシの粉を練って、蒸して、柔らかい餅状にしたものだ。食事になると、まず洗面器にお湯が入って出てくるので、これで手を洗う。そしてシマをちぎって、右手の手のひらでグチャグチャグチャとこねまわす。適当な粘度になったところで少し平たくしたりして、ほかのおかず(ニワトリとか魚とかのカレーまがい)をつまむようにしていっしょに食べる。人によっては、この手でぐちゃぐちゃとこねるのがなじまなくて、ナイフとフォークで食べたりするけれど、ぼくは何かこれが好きだ。なにかこうやってぐちゃぐちゃとこねていると、懐かしいような、悲しいような、何かそんな不思議な気分にひたれる。

 食べ物自体は世界三大ナントカなんていうすごいものじゃない。口にいれた瞬間に「これは珍味!」とか叫ぶようなものでもない。ごく平板な味の、でんぷんのかたまりなんだけれど、それを口に運ぶまでのこねる動作に、何か脳の芯に伝わるような、そんな感じがある。この先、ぼくのマラウイの思い出はすべて、この手のひらの感触と結びつくようになるだろう。昔から、食べ物で遊んではいけません、と言われてきた。きれいにささっと口に運ぶのがいいとしつけを受けてきた。でも、ここではこうやって、思いっきりこねることが正しいこととされる。自分の中に、そういうこれまでの習慣との違和感を訴える部分と、そしてその違和感をおもしろがっている部分が共存している。シマをこねながら、自分の中のそういう感覚をなぞる快感のようなものもある。結果として、ぼくはマラウイで必要以上に飯に時間をかけているかもしれない。

 そしてひょっとして今回マラウイに来たときに、前回にもましてそういうことが意識されるようになったのは、たぶんこのジム・クレイス『食糧棚』を読んでいるせいもあるんだろうと思う。

 シマだけじゃない。食べ物というのは、人の妙に奥深い感覚と結びついている。プルースト『失われた時を求めて』のプチマドレーヌ体験でもそうだ。マドレーヌを紅茶といっしょに食べた瞬間に、その香りとともに蘇ってくる記憶。それは、おいしいとかまずいとか、そういうレベルの話じゃない。それを食べたときのシチュエーション。その時の全体的な雰囲気。味覚は、そんなものととっても親和性が高い。なぜだろうか。人によっては、食べるという行為が人間の動物的な部分といちばん密着した行為だからだ、というような説明をしたりする。食べることには、セックスや排泄に次ぐ、いや時にはそれと同じくらいの動物性が伴う。だから、人はセックスを様式化し、儀式化したのと同じくらいの熱意をこめて、食べることを様式化しようとする。前回ぼくは自炊を始めたという話をした。ときどき、自炊にはオナニーに似たところがあるような気がする。だれはばかることなく、思いっきりニンニクを餃子にぶちこんでみたり。とても人には言えないような、得体の知れない組み合わせを試してみたり。ご飯にジャムをつけてみて、激しく後悔したり。

 この『食糧棚』は、そういう食べ物にまつわるいろんなストーリーを集めている。全部で64編。死にまつわるもの、生にまつわるもの。食べるという行為にまつわるもの、食べないという行為にまつわるもの。恥。愛。記憶。習慣。罪。それが、ほんの数ページずつの短い物語の中に凝縮されている。その一つ一つが、何かしらあなたの中にも、似たような記憶をかきたてるはずだ。

 その昔、平安京エイリアンというテレビゲームがあったんだ。平安京にやってきたエイリアンを、検非違使たちが穴をほって埋めることでやっつける。穴をほるのが間に合わなくてエイリアンにつかまると、食べられてしまってゲームオーバー。でも、そのときに手持ちのべっこうあめをあげると、エイリアンは許してくれて、検非違使は逃げられるのだ。

 ぼくはなんだか知らないけれど、このべっこうあめというところにすごく惹かれた。なぜだろう。なんだか、それをあげるとエイリアンが許してくれるというアイデアに、妙な説得力というかインパクトというかを感じていた。エイリアンにべっこうあめをあげるのがやりたくて、このゲームを何度もやった。あれはいったいなんだったんだろう。どうしてべっこうあめが、そんなに琴線にふれたんだろう。こないだ上野で、べっこうあめの露店が出ていて、そんなことをふと思い出して買ってみた。それ自体、なんということのない味だ。でも、その味に、何かあの高校時代の記憶に通じる遠さがある。なんだろう。

 ジム・クレイスの文章も、そんな感じなのかもしれない。かれは前作『死んでいる』で、老夫婦がおいはぎにあって殺され、その死体が朽ちていくかたわらで、その死体がそこにやってきた過程を淡々と描き出して見せた。そこにあるはかなさと、そして一方でそれが持つもっと大きな流れ――それは家族だったり、人々の思いでだったり、そして自然界の物質代謝だったり――の中の位置づけを同時に感じさせるという離れ業を演じてみせた。その文章は非常に抑制されていて、こちらに飛び出してくるようなところがない。人によっては、盛り上がりに欠けるといってあまり感心しないだろう。でも、この『食糧棚』ではその文体がうまくマッチしている。食べるということ自体には、特になにも目新しさはない。生まれてこのかた、ぼくたちがずっとやってきたこと。でも、その行為、その味がもたらす過去――そして未来――との結びつきの喚起力にこそ、食べることの意味深さがある。人がそれを口に含んで、時にふと見せる遠い表情――それぞれの短編は、その瞬間をねらいすまして終わる。どこから読んでもいい。どこかに、あなたの心に触れるものがあるだろう。そしてしばらくしてふと、食事中にあなたはこの本のことを思い出すだろう。それはあなたの食べ方を少しだけ変える、かもしれない。

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