Valid XHTML 1.1! The Skeptical Environmentalist 連載第?回

真に自然の中に位置づく建築のあり方などについて。

(『CUT』2002 年 6 月)

山形浩生



 建築関係の本を読んでいると、ときに建築評論というジャンルに満ちている絶望と空疎にうんざりさせられることがある。井上章一は名著『邪推する、楽しみ』で、建築批評をやるのは建築デザインを志しつつ己の才能のなさを思い知らされた挫折組である、という話を書いていて、これはまったくその通りではある。そして、そのためかどうかは知らないけれど、建築評論、特に建築デザイン評論の多くは、ひがみと、卑屈さと、その裏返しの高圧さと、コンプレックスを悟られまいとする大仰な衒学的言い回しが横行しているのがこのジャンルだ。

 たとえばポストモダン建築(というのもいろいろと定義はあるけれど、まあバブリーな奇を衒ったコストの高い建築デザインを一通りここに入れていただければ幸甚)を野放図に正当化して、後押しを提供してしまったチャールズ・ジェンクスが、その次を狙って書いた『複雑系の建築言語』という本を最近読んだのだけれど、この人はまさに、自分で大したデザインができないがために、大仰なことばや態度でそのコンプレックスを補おうとする人の典型だ。この本の主張は、要するにこれまでの西洋合理主義に基づく近代建築はもう終わりで、これからはカオスとかフラクタルとかホーリスティックとか東洋思想とか生命とかエコロジーとかに基づいた建築がえらいのである、という話。そして、ご当人の作品としてカオス的な関数のグラフを食器棚に張り付けただけの貧相なシロモノが、カオスを表現した建築の見本と称して大まじめに掲載されている。軽薄さでは人後に落ちない黒川紀章ですら、この本に充満する卑しさと軽薄さには、本書の序文で苦言を呈しているくらいだ。

 もちろん軽薄であることは別に悪くない。軽薄な人が、自分は軽薄でないと思いこみ、自分のやっていることを何かご大層で重要なことだと思いこんでふんぞりかえるのがこっけいなだけだ。そしてこの人は、大まじめで「ジャンプする宇宙の建築」とか「宇宙参加建築」なんてことを言う。人は自然から独立しようとしてきたが、自然に帰らなくてはいけないのだ、と称して。ねえ、あなただっていい加減にいい歳してるんでしょうに。六〇年代にその手の話がいくらもあって、それがことごとく挫折したのを知らないのか。ビルバオのグッゲンハイムはかっこいいけれど、あれが自然に帰った宇宙参加建築? ジェンクスは、カオスだフラクタルだカタストロフィ理論だと並べて、それが自然だと思っている。でも、ニュートン力学が自然でないと(ジェンクスみたいに)主張するなら、カオスもフラクタルも、ニュートン力学より遙かに小さな部分を切り出しただけの、自然の一モデルでしかない。ゲーリーの建築が CAD で設計されていることを称して、それがいい加減な形を並べただけじゃなく、自然の植物のように無駄がなくて効率がよいと主張する単純さ。いまどきコンピュータを使っただけで厳密だとか思う人がいるとはねえ。あの建築を見て、その建設と維持にどれだけ不自然な手間と費用がかかるか一瞬で想像できず、単にくねくねしているから自然なのだと嬉々として唱える精神の貧困さ。時間の次元を忘れ、完成時の(あるいは竣工もしない図面や画面上の)ぴかぴかした状態でのみ建築を語りながら、それが時間的なプロセスである自然の一部云々と論じて恥じない厚顔ぶり。

 ジェンクスが、機械論的決定論的な建築の権化として悪者扱いする、近代建築の代表者たち――ル・コルビュジェやサーリネンなど――ですら、自然の中の建築という現実、つまりはどんな建築にも起こる風化という現象に対しては非常に自覚的だった。自覚してそれにどう対応したかは、そのデザイナーごとにちがっている。ル・コルビュジェは往々にしてそれに抵抗したが、その一方でそれを積極的に取り入れようとする試みをあの悪評ふんぷんのチャンディガールなどでは取り入れようとしていた(結果的には失敗したけれど)。一方、サーリネンは鋼材をむきだしにすることで、錆が建物に味わいを出すように考えて、これは大いに成功している。その意味で、かれらの建築のほうが、最近の軽薄なその場限りのポストモダン建築よりはずっと自然とともにあることが意図されている。もちろんフランク・ロイド・ライトの設計などでも。そして近代以前の建築では、それがもっと周到に行われていた。それをたんねんにたどり、建築の風化の問題――つまりはそこにあらわれる時間の問題――を美しく描き出して、内輪でのみ流通して悦に入る凡百の建築評論を遙かに越えた訴求力を持つに至ったのが、ムスタファヴィ&レザボロー『時間の中の建築』(鹿島出版会)だ。風化に対する考え方や捉え方の変化を、建築家の役割から、工法の変化、部材生産の変化と、それに伴う建築寿命の変動、さらには経済要因まで含めて縦横に論じつつ、穏やかかつ格調高い、建築業界の外の人間でも何の苦もなく理解できる文章が展開されている。ジェンクスのヒステリックで独善的な駄文の後なので、実際よりよく見えてしまう面もあるんだろうけれど。

 この本には、声高な主張はない。これまでの考え方や取り組みが淡々と示されるだけだ。でも、その中で、著者たちの思いがだんだん浮かび上がってくる様は心地よい。もっと風化を建物の一部として取り入れることを考えられないものか。そしてそれをいたずらに否定するいまの一部の建築デザイン、あるいはそれを実質的に不可能にする、大量生産ベースの建築システムというのは、少し考え直したほうがいいんじゃないか。それはごくごく慎ましやかな主張ではあるのだけれど、でもその射程も深みも、チャールズ・ジェンクスなんかをはるかに越えたものとなっているし、また同時に建築デザインのみならず、何らかの建物の中にすむわれわれ自身のありかたについても、ふとふりかえらせてくる力を持つ。そしてぼくは、すべてとは言わないけれど、それこそ真の建築評論の持つべき機能だと思うのだ。


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