Valid XHTML 1.1! How to take a Japanese Bath 連載第?回

世が世なら「浴道」が生まれたかもしれないね。

(『CUT』2001 年 8 月)

山形浩生



 テレビだとか、脳だとか、あるいは父権の喪失だとか、原因は人によっていろいろ挙げられるけれど、いずれにしても最近のガキのしつけがなってなくて、いろんなプロトコルの伝承がとぎれているというのはまあ事実ではあるようで、自由が丘のガード下のたい焼きごときを目当てに行列する根性とか、それで行列してまで手に入れたおたい焼き様なのに食い方もご存じなくていきなり頭からかぶりつくみっともねー連中がいっぱい湧いてる現状を見るにつけ、このままでは日本の将来はどうなってしまうのであろうか、と暇なときには憂慮してみるのもまあ年寄り気分が味わえて一興、かもしれないとは思うのだよ。  そういう断絶しつつあるプロトコルとして、風呂の入り方なんてのもあるわけだ。たまにでかけた旅館の大浴場ではガキがからだも流さずにいきなり湯船に飛び込んでみたりとか、うーん困ったもんだ。そういうのをきちんと伝える試みというのが必要なのではないかっ!

 ……なんてことをまじめに思ったことは実はぜんぜんなくて、だからメルボルンの建築系書店でこの本を見つけた時には思わず笑ってしまったんだけれど、それがこの How to Take a Japanese Bath だ。

 最初はロラン・バルト『表徴の帝国』みたいに、ときどき見かけるガイジンによる勘違い全開のオリエンタリズム的日本紹介本だと思ったのだけれど、中を見ると、これがとっても堅実な日本式お風呂の入り方解説書になっているのだ。だいたいの流れはこんな具合:

 まず風呂をわかそう。お湯を入れるか、日本の風呂は湯沸かし装置がついているから、それを使うのだ。欧米のスタンダードよりも熱くするのが日本式であるぞ。あんまりせっかちに風呂に入るのはジャパニーズ・バス体験を十分に味わえないから、できればゆとりを持って入れよ。湯船につかる前に体を流して、洗うところは洗っとけ。んでもって、湯船に浸かって、とりあえずぼーっとして暖まるのだ。それから出て、せっけんで全身をよく洗え。それからまた湯船につかって、お湯を楽しむがよろしい。十分に浸かったら、のぼせないうちに出る。出たら、湯船に浮いた毛とかアカとかは、すくっておけ。それと、次の人のためにお湯がさめないように、ふたをするのだ。昔は残り湯も、洗濯に使ったりとかいろいろ有効活用したもんだ。そして日本の風呂においては、ポスト風呂の時間も大事なのであって、出てからだを拭いたらしばらくは浴衣でも着てぼーっと瞑想でもするがよいのだ。

 うーん立派立派。おおむねぼくが知っている風呂のプロトコルも、だいたいこんなもんだ。

 さらにこの本、というか数十ページのパンフレットでは、このプロトコルを一ステップごとに見開きで説明しているんだけれど、見開きごとに丸尾末広が説明イラストを描いているのだ。最初この本を見て、このイラストを見たときには、この本自体が何かジョークにちがいないと思ったね。だって、天下のエログロ(いい意味で)漫画家たる丸尾末広だよ。平和な入浴場面を描いていても、ページをめくったとたんに場面が一転して、フリークと変態と血しぶきと暴力の乱舞が展開されるんじゃないか、というハラハラ感があって、結構楽しい。それが実際にあるかどうかは、実物を読んでのお楽しみだ。そして確かに、極端なデフォルメがない、あの線の細い写実的な絵は、美的であるとともにとてもわかりやすいのだ。

 丸尾末広以外の著者は何者かぼくは知らない。またどういう経緯でこんな本が出たのかも。でも、きちんとわかってる人たちではある。巻末に、日本の風呂の小史も書かれていて、これもなかなか。「そもそも日本の入浴とは、洗うよりはむしろ浄める行為なのである」という書き出しから、古代近代現代までの風呂の歴史を手際よくまとめていて勉強にもなる。

 もちろん歴史や機能的な解説なら他にもある。建築書の分野では、日本の温泉とか浴場とかを建築的にとらえた本はいくつかあって、日本における風呂の意義とか、風呂桶の機能や構造、洗い場の使い方なども説明はある。でも具体的な入り方作法の解説書となると、ぼくは見たことがない。特に最後のところの、次の人のために毛やアカはすくっておけとか、ふたをしろとか、そういうところまできちんと書いてあるのはすごい。そうだよなー。よく親にこれで叱られたもんだ。でも風呂の入り方の本をぼくが書けと言われたら、入って出るところで終わってしまうような気がする。その部分は風呂行為の一部ではなく別のプロトコルの一部としてとらえているような気がするから。でも確かにこれも風呂の作法の一部にはちがいないよな。そしてポスト風呂(すごい表現ではあるけれど)の涼む時間の精神性というのも、日々あたりまえに風呂に入っているぼくたちでは書き落とすポイントではないかな。知ってはいるけれど、意識はしていない――そういう部分に気づかせてくれるのも、外部の目なればこそ。侮れませんぞ、このガイジンたち。

 そしてそういった部分をほんの少しだけ含めた点で、この本はなかなか日本的かもな、とは思うのだ。とりあえずプロトコルの動作だけを淡々と描き、でもその中にちょっとした精神性を社会性をこめる――これはたとえば茶道のやりくちでもある。茶道は茶を飲むだけの行為を外部化して形式化し、そこに精神性をくっつけることで成立した。この本を見ると、日本の風呂もそういう可能性を持っていたかもしれない、という気がする。こんな本が室町時代にあったら、いまごろは「浴道」とかいうのができいて、手ぬぐいの畳み方から頭への載せ方まで、一大文化として開花していたかもしれない。が、そこまで考えずとも、たまにはこういう本をぱらぱらと見て、自分が当たり前に入ってる風呂というものを考え直してみるのも一興。イラストが多くて字が少ないし、英語の勉強にも最適。風呂上がりのビールとともに、是非。

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