Valid XHTML 1.1! Philosophy and Social Hope 連載第?回

「役にたつ」のがそんなにだいじか?

(『CUT』2001 年 5 月)

山形浩生



 哲学の一派にプラグマティズムというのがある。空理空論を考えたってしょうがなくて、それが現実にとってどういう意味があるか、現実にどう役にたつか、というのがちゃんと言えなきゃダメよ、という哲学だと思ってくれ。

  で、リチャード・ローティという哲学者がいて、この人はいまのプラグマティズムの親玉、みたいな人だ。一方でこの人は、相対主義者の筆頭としても有名だ。相対主義者というのは、世の中に絶対的なものなんかない、すべては人の見方次第だ、社会的な条件のもとで造り上げられたフィクションだ、という説だ。たとえば戦争は悪か? それは確かに見方次第だろう。それに何をもって「戦争」とするかは、社会的な条件で人工的に決められている。でも相対主義者の一部は、これを極端に進めてあんぽんたんな話を展開する。すべてが相対的なら、現代科学による月の説明と、月がチーズでできているという説も、どっちも同じく有効、とかね。「結核菌」はコッホが社会的に構築したんだから、古代人は結核菌に感染しなかった、とか。だから多くの人は、相対主義というのは役にたたない屁理屈哲学の最たるものだと思っている。

  役にたたなきゃというプラグマティズムと、役に立たない屁理屈相対主義。ぼくがこの Philosophy and Social Hope という本を読んだのは、この人がこの両方の立場でどうやって折り合いつけているのかな、というのに興味があったからだ。

 で、読んでみると、これはとっても楽しいし、わかりやすい本だ。ローティがあちこちに書いた、雑文集なんだけれど、こういう軽めの本のほうがその人の考え方はわかりやすい場合が多い。自伝的なエッセイ、教育、アメリカの左翼の位置づけと労働運動、愛国心……そのすべてが、プラグマティズムと相対主義から素直に導かれていて、哲学は現実の世界の改善に貢献することで、社会的な希望を造り上げるのだ、というかれの決意がとてもよくわかる。その意味で、これはとっても爽快な本ではある。がぁ。

  絶対的な真理がないという意味でかれは相対主義者だ。でも、いろんな考えがあります、というだけでは何もできない。対立する考え方があるなら、どれが民主主義と自由の実現にとって役にたつかを考えようじゃないか。そうやって少しでもいまの世界の改善を考えようじゃないか。そうやってかれは、プラグマティズムと相対主義を両立させようとしている。そして一応、この議論をもとに、かれはかなり説得力のある議論を展開する。

 でも、たぶんだれでも思うことだろうけれど……自由や民主主義がいい、という価値観は、どこから降ってくるんだ? それが人をいちばん幸せにするようだから、みたいなことは書いてあるけれど、本当だろうか。それっていちばん「相対的」で「社会構築的」な価値観じゃないの? また、かれは科学のすばらしさを認めつつも、だからといって科学が自分だけの興味でお金を使うのはダメ、という。宇宙開発や大型粒子加速器をつくるかどうかも「民主主義と自由の役にたつか」で判断しろ、というんだが……

 うーん。だけどさ、そんなのわかりっこないじゃないか。素粒子物理学は、民主主義と自由の実現に役にたつか? 知るかよぅ。研究が役にたつかなんて、だれにもわからない。今世紀初頭には、なんの実用性もないと思われていた整数論が、いまや暗号理論で大活躍して、実用性をバリバリに持つようになっている。素粒子から原爆が作れるなんて、昔の人はだれも考えていなかった。

 かれの「役にたつかどうか」オブセッションは、異様なあらわれ方をする。たとえば『偶然性・アイロニー・連帯』(岩波書店)で、かれはナボーコフについて論じている。ナボーコフは自分で「おれの小説はひたすら美しいだけで、実用性とかいう卑しいものには貢献せんのよ、おっほっほ」というようなことを語っているし、ぼくも含め、みんなもそう思っている。でもプラグマティストたるローティにとっては、すべてのものはなんらかの形で「役にたつかどうか」で判断されなきゃいけないのだ。そこでかれは、ナボーコフの小説は、読者に自分の残酷さを認識させるから役にたつ、とローティは言う。小説の中で、いろんなものを人は見落としている。でも、何度か読むと、自分の読み落としていたものに気がつく。登場人物たちの発していたメッセージに気がつく。そのとき、人はそれまでの自分の不注意や無関心ぶりに思い至るのだ、と。そしてああ、無関心というのは本当に残酷だな、と思い至り、人はよりよい人間になれる。よってナボーコフの小説は「役にたつのだ」!!!

 ローティがこの議論を組み立てるときの読み方は、実に繊細だ。細部を何度もなめるように読みながらかれは論を展開する。ナボーコフは、たぶん大喜びしただろうね。でもその一方で、かれが引き出したこの結論に、当のナボーコフは憤死するだろう。ぼくも、そんなところに話をもっていく必然性が、理解できないのだ。ねえ、なぜそんなことを考えなきゃいけないの? ひげそりは民主主義に貢献している? ガムテープは? しょう油は? 世の中には、民主主義や平和とは関係なく存在するものはいくらもある。屁理屈をこねれば、ガムテープの民主主義への貢献を論じることはできるんだろう。でも、それとは別のところで評価すればすむ話じゃないの。

  一方でかれは、なにか一つの社会的価値観に全部を押し込める必要はないんだ、という主張もしている。自分の道徳的責任と趣味や嗜好を一致させる必要はない、と。それこそが『偶然性・アイロニー・連帯』のテーマなんだ、とPhilosophy and Social Hopeの中でいちばんすてきな文「トロツキーと野生の蘭」にかれは書く。まあそれがぼくにとってはしごく当たり前に思える、ということはさておこう。それは実はたいそうなことなのかもしれない。でも……ぼくはかれがそれを実践できているようには見えない。努力はしている。でも、はずしている。

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