Valid XHTML 1.1! 恋愛の超克 連載第?回

恋愛教からの解放から資本主義否定へ。

――「恋愛の超克」の主張する新近代主義とは。

(『CUT』2001 年 5 月)

山形浩生



 この本の主張はとってもシンプルなことで、愛だの恋だのと血道をあげるのはやめようぜ、ということだ。みんながみんな、死んでもいいような怒濤の恋愛なんかしてるわけじゃないし、できるわけでもない。それなのにテレビドラマや歌謡曲、映画にロックに漫画に女性誌に中年向け新聞連載小説まで、ありとあらゆるメディアが総動員されて、そういう恋愛がだれにでも可能で、それどころかそれをしないやつは人生の敗北者で、それを体験しないやつは人生をフルに生きていなくて、愛あるセックスをするとアダルトビデオみたいなすげーセックスができるかのようなプロパガンダが流されているけれど、でもそんなのウソだし、おかげでいろんな人が劣等感に悩まされて、「本当の」愛とかを探して無駄な時間と労力を費やしていて有害ですらある。さらにセックスや結婚にまでそういう怒濤の愛が要ることになってきて、そういう才覚のない人間はひたすら孤独に生きるしかないことになる。もちろん、恋愛できる人間はどんどんしてもらって構わない。でも、できない人はそんな無理しないでもよいではないの、ということ。結婚だって、寂しいから不快でないだれかといっしょに暮らす、というくらいのことでいいではないか、という話。

 いやまったくその通り。その通りすぎて、ぼくは最初にこの本を読んで、ずいぶんあたりまえのことを書くのだなぁ、と思ったんだが、でも実はこれがぜんぜん当たり前ではなく、各種の通俗娯楽のみならず、日本のフェミニズム業界をはじめとする論壇(と言っていいのかな)を徹底的に毒していると論じ、それがかれらの議論をいかに歪め、破綻させているかを子細に検討する。

 これがこの本の前半だ。議論も明晰、歯切れもいいし、まな板にあがる論者はぼくの嫌いな人が多くて個人的にも大笑いしながら読める。注の人物解説も傑作。小谷野をとっても有名にした『もてない男』の続きや後日談みたいなものが多いけれど、別に『もてない男』を読んでいなくてもまったく問題なく読める。ぼくも読んでいないし。あと書きもどきで小谷野は、批判や質問はその人の著作を全部読んでからするのが当然の手続き、と述べているけれど、ぼくはそうは思っていない。文章はそれぞれ独立して読まれ、評価されるべきものだと思っている。でもまあそれは、ぼくが素人だからそう思うだけかもしれない。

 ふつうの人にとっておもしろいのは、たぶんこの前半だろう。でも実は議論が拡大しておもしろくなるのは、後半のほうだ。ここで小谷野はフェミニズム論をテコに議論をだんだん広げる。まずは売春論。驚いたのが、日本のフェミニズム論者が買春肯定論に傾いた二大イベントの一つとして、デラコスタ他編『セックス・ワーク』(パンドラ)が挙げられていたことだった。あの本の翻訳初稿は原著の「売春婦だって立派な職業なんだから、保護者ヅラして説教するより労働環境の整備を考えてくれ」という主張と正反対の誤訳のかたまりだったのを、ぼくがさんざん手を入れてまともな訳にした思い出深い本なのだ。その甲斐あってかどうか、そこまで大きな影響力を持ってくれたとはうれしい限り。

 ただかれは、この『セックス・ワーク』の労働環境整備論に対してかなり手厳しく、それは「『左翼・女』を収攬しようとしている」「卑劣」と断じている。そうかな。小谷野は売春婦蔑視の根本的解決には家父長制と資本主義をなんとかしないとダメだ、というんだけれど、そんなのいつになるかわかりゃしない。今できることとして労働環境整備を唱えるのは偽善でもなんでもない現実論だと思うんだけどな。ここらへんは現実の改善より学者論争を優先させる変な議論になっていると思う。

 そしてその家父長制と、環境問題からも問題ありの資本主義を否定したかれは、文化と人類の存続のために家族と道徳を守るべく、国家による資本の統制と日本再軍備と天皇制廃止を唱える「新近代主義」というのを提案するんだが……

 ぼくは資本制が環境問題をどうにかできないとは思っていない。排出権取引や天然資源の枯渇に伴う価格上昇は、資本制の枠内でかなりのことを実現させてくれる可能性はある。それ以前に、この人の言う「資本制」ってなに? ウォーラスティン式「世界システム」みたいなもの? 市場原理? でも今後の世界を考える中で、市場は絶対に否定できない。女が完全自由放任主義としてのリバータリアニズムは、まともな資本制とはちがう。市場を有効に機能させるための公的な規制じゃダメ? 「家族を解体して結局個人は『企業=資本制』に回収されるのでは何にもならない」と小谷野は言うけれど、企業=資本制じゃないし、それに会社勤めもそんな悪いもんじゃないっすよ。さらに人類の存続や育児は本当に家庭に頼る必要があるの? エスピン=アンデルセンが描く今後の福祉国家の方向性は、まさに女性と育児の企業化・商業化を目指すものだ。こっちのほうが圧倒的に現実味を持つ。さらに資本制が人類の存続を必要とするなら(絶対にする。いずれ機械が資本制を支配するようになっても)、その手段は必ず出る。それはかつて金塚貞文が論じた試験管ベビーかもしれないし、近年急に現実味を持ち始めたクローンかもしれない。

 だが議論としては粗いにしても、恋愛教はやめよう、という主張から、一気に今後の社会像までを通して議論した本書の迫力はなかなか。そんなことができるだけですごいけれど、それが骨太の論理性を一貫して維持しているのはなおすごい。軽い文体に惑わされてはいけないよ。「もてない男」ほどは話題にならなかったようだけれど、いずれ本書(そしてこの著者)はじわじわと日本の新しい保守派の一つのよりどころとなるだろう。一読しておいたほうがいい。それにあなたが賛同するかは、これまた別の話。


CUT編集部 稲田さま

遅くなってもうしわけありません。とりあえずこんなもんで。本は小谷野敦「恋愛の超克」(角川書店)です。いまはモロッコにおりますんで、連絡などは以下にお願いします。メールは使えません。

Hiroo Yamagata 
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+212-03-770-4202 fax +212-03-772-5408

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