Valid XHTML 1.1! 木曜の男 連載第?回

無秩序の戦いと秩序の戦い。

(『CUT』2001 年 3 月)

山形浩生



 ぼくは、このチェスタトンの『木曜の男』をただの推理小説だと思って読み始めたのだった。そりゃまあ、同じ作者のブラウン神父シリーズだって、ふつうの「ただの」推理小説かといえばあんまりそんなことはなくて、トリックがどうしたとかいう部分もそこそこあるけれど、かなりの部分は世の中のバランスとか、世界のありかたについてのブラウン神父(ひいてはチェスタトン)の思想をベースとしたストーリーというか謎解きになっている。でもまあ、一般的な推理小説としての謎解きもトリックもそれなりにある。だからこいつだって、一応はそこそこ推理小説してるんだろうと思っていた。推理文庫だし、それらしき解説文もついているし。「風刺と逆説と、無気味な迫力に満ちた逸品」「チェスタトンの代表的な長編推理小説」だって。

 が、ぼくの目の前にあらわれたのは、ふつうの意味での推理小説とは似ても似つかない代物だった。

 こんな本をいま読んでいるのは、ある人がこの小説をウィリアム・バロウズと似たものとして挙げていたせいだったかな。もっともその人の主張はとっても浅はかなものだったのだけれど。その人の根拠は、この『木曜の男』が陰謀をバックにしたスパイ小説だから、ということだけだった。でもそれだけなら、ファウルズの『魔術師』でも、ダレルの『アヴィニョン五重奏』でも、あるいはピンチョンでも例はたくさんある。ただ本書はこういうのとちょっとちがう。

 この本は確かにスパイの話だ。文明や秩序そのものを否定し、その破壊を目指す無政府主義がヨーロッパのインテリを中心にはびこりつつあった。主人公はスパイとして、「日曜」を名乗る男を議長とする、その無政府主義者たちの秘密結社に潜入する。「木曜」として。

 無政府主義者は危険だ、と主人公は言う。主人公ははじめ、破壊的な芸術家兼無政府主義者を気取る若者に対して、秩序を愛し、無政府主義を否定する詩人として登場する。ふつうの犯罪者は、世界を支える価値観は尊重している、とかれは言う。泥棒は、お金やものが大事だという価値観を尊重すればこそ泥棒をする。でも、無政府主義者は、その価値観そのものを否定する。それは最終的に、人類や文明そのものを破壊する結果にしかならない。だからこそ、無政府主義者は通常の犯罪者以上に危険なのだ、と主人公は語る。そしてイギリス警視庁も同じ発想から、謎の局長に率いられた無政府主義者対策専門のユニットをつくり、主人公をインテリ集団に潜入させるわけだ。

 本書でおもしろいのは、ストーリーやトリックではない。この本の解説を書いた人は、なんとかこの本をふつうの推理小説の枠に押し込めようとする。でも、これはぜんぜん推理小説なんかではない。だって……何のことやらわかるまいから書いてしまおう。最後に主人公たちが直面するのは、神さまなんだよ。

 チェスタトンが「無政府主義」というときに念頭においているのは、まあ前世紀初頭の頭でっかちな左翼運動みたいなもので、それは現在にもつながるインテリ金持ちの脳天気で観念的な各種改革運動だと思えばいいだろう。おもしろいのが、チェスタトンはそういう無政府主義者たちに対して後ろめたさというか、ひけめを感じているということだ。「無政府主義者」には(非現実的にせよ脳天気にせよ)理想がある。そしてそれに伴う行動もある。それに対して、一般の、秩序だった平穏な生活を送る人たちの無為はどう正当化されるだろうか。

 それがこの小説のテーマではあるし、いちばんおもしろいところではある。小説的にはどこまで成功してるかな。登場人物は妙に厚みがない人形めいた印象だし、かれらが出くわす奇妙なできごとも、広がりがなくきわめてか細い直線的な感じ。小説や文章的な厚みもあまりなく、骸骨みたいな構造がむき出しになったところへ晦渋な文章がひらひらぶら下がった感じ。でも、秩序をどう擁護しようかというチェスタトンの(いささか苦しい)理屈づけが、この小説のおもしろさだ。そしてその理屈づけとは、秩序も苦闘と努力のたまもので、人々は漫然と秩序に浸っているのではなく、個別に神さまの前に立って、無秩序と戦いつつ秩序を選び取っているんだ、ということだ。

 主人公は叫ぶ。「僕にはいっさいのことがわかった。なぜ、地上のものはすべて、他のものと戦わなければならなあいのか。なぜ、世界にあるどんな小さなものも、世界全体と戦わなければならないのか。なぜ一匹のはえも、一本のたんぽぽも宇宙全体を相手にして、戦わなければならないのか。それは僕があの恐ろしい七日の会議で、たったひとりだったのと同じ理由からなのだ。それは法に従うどんなものにも、無政府主義者の光栄と孤独が与えられ、法のために戦うどんな人間も、爆弾を投げる人間におとらず勇気があって善良な人間であるようになのだ」

 そして最後で、主人公は冒頭の部分でちょっとでてきた女の子のところに戻っていく。もちろんそれは、結婚とか家庭とかをそれとなく匂わせる終わり方で、だからそれはつまらないし、平凡で陳腐とすら言える終わり方なんだけれど、チェスタトンがこの小説を通じてなんとか言おうとしていたのはまさに、その平凡さ、陳腐さこそが秩序を勝ち取る戦いの結果だ、ということだ。

 で、それが成功しているか? 説得力があるか? うーん。ぼくはこの主人公の叫びを読んで感動したんだけれど、理屈としてじゅうぶん強いとは思わない。だからこそチェスタトンも、最後に神さまを持ち出してくるしかなかったんだろうけれど。でも、その一方でこれはぼくたちにとっても重い課題ではある。ぼくたちはこれにどう答えるだろう。さらに一方でこの小説はとても不思議な、いろんなものがぜんぜん片づかずに、投げ出されたままで終わるような印象を残す。それがなんなのか、ぼくはいまもちょっとよくわからない。


CUT編集部 稲田さま

 すみません、昨日は夜までずっと仕事でファックスを見るのが遅れました。チュニジアについてすぐに原稿をファックスしたつもりでしたが、なんか届いていなかったようですね。すみません。確認すべきでした。再送します。本はチェスタトン「https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488110061/hirooyamagata-22">木曜の男」(創元推理文庫)です。

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