Valid XHTML 1.1! 八月の博物館 連載第?回

もったいない、again。

(『CUT』2001 年 1 月)

山形浩生



 『八月の博物誌』は、瀬名秀明の長編第三作だ。これまでの科学ホラー的な作品とはうって変わった作風。小学生がふとまよいこんだ博物館と、そこから広がるエジプトへの情熱と世界――それだけ書かれていればすばらしい作品になれただろう。その部分についてはまったく不満はない。発売前に瀬名秀明がやったインタビューで、ぼくは本当に期待していたんだ。そしてその期待は、必ずしも裏切られたわっけじゃない。上野や九段の博物館、ニューヨークの自然史博物館やメトロポリタンに、ぼくは昔ドキドキしながら通った。この本を読みながら、そのドキドキやおもしろさがよみがえってくるのをぼくは確かに感じた。フーコーの振り子も好きだった。その前にたって、ぼくはいろんなことを想像した。その博物館が、本当にいろんな世界への出入り口になっている――いいな。すてきだな。それを純粋に展開してくれれば。かれはパリ万博の平面図まで手に入れて、パビリオンの位置関係を調べて小説をつくりこんでいったという。ぼくはそれもすごく楽しみにしていたんだ。

が。

 ぼくはこの小説についてすでに一つ書評を書いている。そいつはたぶんこれと同じ時期にでる文藝春秋に載るはずだ。そっちは、どうあっても誉めろというので、ここに書いたようなことはあまり触れていない。だからといって、あっちに書いたことがウソってわけじゃない。ぼくのなかで、この本は好きなところと大嫌いなところがかなり交互にやってくる、まだ整理のつかない本だ。

 そしてこっちの書評は、悪い評価を中心に進める。

 さてこの小説は、おもしろい着想、きわめて一般性のある設定、さらにそれを固めるはずの入念な舞台設定が行われているはずだった。そして確かに行われている。パリ万博はもっと書き込んでほしかったし、それも含めて空間的な密度がとても薄いのは残念だけれど、でも冒頭に述べた博物館まわりの話はとても魅力的なんだ。

が。

 瀬名秀明はそれを無惨にぶちこわす。自分をモデルにした作者というのが出てきて、創作上のいきづまりについてグチをたれるんだ。そして情けないことに、この作者は作中人物とおはなししちゃって、さらに自分の作者に話しかけたりする。一方で「私たち自身が物語になるんだ」と言いつつ。ねえ瀬名さん、あなたは自分の作者に話しかけたりする? 生きることの切実さ、リアルさってそういうものじゃない。それに自分たちが一つの物語を生きていると信じ、その作者と話をしようとしてきたユダヤキリスト教の伝統がどれほど困難で血塗られ報われない作業だったことか。

 そう、これは本当にすてきな小説になれたかもしれないんだ。すてきなな部分もある。ぼくは亨の持っていた夢や苦しみを知っている。かれの物語は、ぼくの物語でもある。でもこの作者の物語は、瀬名以外のだれにも切実さを持たない。その無切実な人のおかげで、ぼくの物語でもあったはずのものが、急につくりものに変えられてしまう。作者のあなたにわかるだろうか、ぼくがこの最後の数十ページで感じた憤りを。

 作者と作中人物がメッセージのやりとりをしたっていい。でもぼくの作者は「やっほー」と空から手をふってくれたりはしない。ふとした壁の落書き。ちぎれたピアスの痛みと流れる血。手にしたナイフの重み。そんなものを通じてのみ、かすかに彼女のメッセージが伝わってくる。そういうふうにしか、ぼくたちは別の世界と交流できないんだ。それははかない。そのはかなさにこそ、メッセージのリアルさがある。幽霊がはかないのもそのせいだ。アピスの復活への思いと、謎の博物館の揺らぎと、そして作者自身の迷い。それが一つのはかない媒介を通じて結びついたとき、それが物語なのに。

 それができない理由の一つは、いつもの瀬名秀明の欠点だ。最終的に失敗し、倒される側がいつも、あまりに薄いんだ。ミトコンドリアがなぜ共生関係を捨てたかったのか。人がなぜ脳の研究を通じて神を求めようとしたのか。本書では、古代エジプトの聖なる牛アピスっていうのが出てきて、それが復活しようとする。……なぜ? 亨くんや作者に負けず劣らず、ミトコンドリアも、神さまも、アピスも物語を生きている。アピスの無念、アピスの復活への思い――それを瀬名は書いてくれない。怒り狂ってアピスを殺す王さまのほうが、よっぽど存在感とインパクトと、殺しても死ななそうなすごみを持っている。

 そしてその物語。瀬名は、登場人物が生きることこそが物語だという結論を出す。でも物語ってそれだけじゃない。なにかが起こったとき、それは必然だったのか偶然だったのかだれにもわからない。異様な偶然の積み重なりで、株式市場は崩壊し、戦争が起きて宇宙と生命が誕生する。そしてそのとき、そこに人は物語を読んでしまう。偶然と必然のはざまにうまれ、その両者を結ぶのが物語だ。偶然を必然化するもの。それはある意味で、瀬名秀明が前作『ブレイン・ヴァレー』でちょっと考えていた、神さまというものと似ている。実はおなじものなのかもしれない。人は神さまを求め、神さまを実感してしまうように、物語をそこに見てしまう。何かが起こってしまったあとで。

 そしてそれは、あなた一人の物語じゃない。それを読むぼくたちが現実に生きた物語でもある。その物語はほかの物語たちとからみ、衝突してわかれゆく。適当に群れて、カラオケに行ってドラマに涙して――瀬名はそんなのが純粋に物語や感動を生きることだと思っているようだけれど、それはお手軽な消費と条件反射と、そして卑しい感情移入でしかない。物語はそんなのとはまったく無縁なんだ。

 どうしよう。最後の百ページを読みつつ、ぼくは本当に泣きたくなった。作者が出てくるたびに、ぼくは言い続ける。ちがうちがうちがうちがう。オーギュスト・マリエット、あなたはどうしてぼやぼやしているだけなんだよ。亨たちがいっしょうけんめい闘っているのに。エピローグのさらにあとで、物語が終わってからちょっとだけ救いはあるのだけれど。

 もったいない。これは直感だけれど、瀬名秀明はたぶん、苦しんでこの世を呪いながら死んでゆく存在の話を書かなきゃいけない。この世を破壊しても自分の想いをとげたい存在の話を悪役側から書かなきゃいけない。しかもそれを何も調べずに書き上げる練習をしなきゃならない。混沌の中から物語をつかみだし、世界をつくりだす意志を構築しなきゃいけない。ある人は、大きな物語の喪失こそ世界の危機の原因だと言う。ぼくは上記のような理由でこの説は信じていないけれど、でももしそうであるなら、それは物語をつかみだす意志の喪失でもある。あなたが小説家であり物語を語り続けるつもりなら、あなたはその意志をつくりあげ、その物語で世界を(少し)救わなきゃいけない。あなたの次の、あるいはその次の、あるいはそのまた次の次の次の物語が、そういうものであることをぼくは祈っているのだけれど。

CUT 2000 インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る


Valid XHTML 1.1! YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>