Valid XHTML 1.1! Virtuous Reality 連載第?回

でも……ぼくたちはそんなに悟りきってはいないのだもの。(インテグラル・ディレクターズカット完全版)

(『CUT』2000 年 10 月)

山形浩生



  いまいろんな雑文を書いている物書きの中で、宮崎哲弥は嫌いじゃない。読むに耐えるものを書く人だ。ああ、なんかずいぶんと気のない投げやりな物言いにきこえるだろうけれど、日本の物書きどものほとんどは、ぼくには読むに耐えないし嫌いなんだ。だからこれは、相対的にかなりいい評価だ。もの知りだし、特に人文社会系の学問的な背景知識はぼくよりずっとある。論理的だし、変な思い込みでよじくれないし、重箱すみつつきもなく、大きなテーマでも逃げずに正面からとり組む。文章はかなり生硬だし、ふざけたつもりでぎこちなくはずしている文も多いけれど、それはまあ大目に見よう。かれが書いてるメディアの性質もあるんだろうし。それに社会批評家が、そんなレトリックの名手である必要はない。

  だけど、この人は反動的なんだ。

 反動的って、別に国体護持だの八紘一宇だのと唱えてるわけじゃない。小林よしのりみたいに、靖国神社はすばらしいとか目を覆うようなことは言わない。この人の個別の政策論や提言はとってもよくわかるし、賛成できるものも多い。

  宮崎哲弥が反動的なのは、その基本的な考え方のところだ。

 個別方針が賛成できるのに、基本的な考え方がわからないってのも変な話だけれど、そうなんだからしかたない。この人の最初の本『正義の見方』を書評 (https://cruel.org/wired/miyazaki.html) したときにも、それは書いた。総論反対、各論賛成。その頃のこの人の反動ぶりっていうのは、いま社会が乱れておるので、家族や共同体のたてなおしを主張して、その方策として人々の移動の自由の一部制限とかをあげていたことだった。(これは正義の見方のあとがき参照。

  発想はわかる。でも、それは無理だ。みんなそれはいやだと言ってるんだもの。倫理や道徳でいくら脅したって、悪いけど家族はめんどうだ。共同体のしがらみは息苦しい。物理的に可能であれば、ソフト的にいくら制限しても、都市に人は流出しちゃうんだ。

  だから宮崎哲弥が、小林よしのりの『戦争論』批判を展開したのは意外だった。そりゃ小林の議論は粗雑だ。でも「個」ばかり重視しないで、「公」的なものとのかかわりの中で生きていることを認識 しなさい、というのは宮崎の議論と大同小異だもの。小林は、中間レベルをすっとばして国家を持ち出す。宮崎は、大家族とか地域共同体くらいを考えている。でも、方向は同じだ。それに国家ってほころびはあってもいまだに世界各地で機能しているし、日本でも実績はあるからわかりやすい。

  というわけで、『新世紀の美徳』(朝日新聞社)。宮崎があちこちに書いた時事評論の連載みたいなのをまとめた本だ。多くの部分は、オウム批判と、小林よしのり『戦争論』批判に費やされている。そして論点の多くは生と死の議論を中心に展開している。

  生と死。うん、この人もまた、「生」と「死」というものをデジタルに扱う。でも、ぼくが殺したことのあるネコもウサギも、そんなデジタルには死なない。だんだん、だんだん死んでいって、最後に力尽きて死にきる。死ぬっていうのはプロセスで、「死」なんていう名詞の実体はなくて、いまのぼくですらある程度死んでいる。「死」というのは奇妙な概念で、自分の死は把握できない、と宮崎はいうけれど、自分が死んでゆくプロセスはみんな想像がつくんだ。だからこの時点でかれの議論は変になってくる。「死」というのを、すごく実体的に扱うようになって、ぼくがいろいろ見てきた生命ナントカ論と称する頭でっかちの道徳的ラッダイト論者と同じような論調で話をすすめるようになる。でもまあそれはいい。

  宮崎の生と死についての議論はこういうことだ:生はそれ自体で価値があって、それは目下の不幸だとか苦痛だとかを超える。だから死ぬのはよくない。死を奨励するものはすべてバツ。 (でも自殺や安楽死を必ずしも否定するものじゃないんだそうな。よくわからない。)

 なるほどそうかもしれない。そしてオウムは、教義とその実践の一環としてポアしちゃったりしたし、小林や西部邁は、国家のために死ぬとか、大義のために死ぬとかを称揚するので、これはかれらに対する批判や反論になる。

 が。

 この議論を持ち出したおかげで、宮崎はとってもつらい立場に自分を追いこんじゃっている。

 まず、かれの主張の根拠はなにか。おしゃかさんがそう悟ったから。

 でも……それがなんの根拠になる。そりゃおしゃかさんは、菩提樹の下でそんなことを悟ったのかもしれない。でも、ぼくを含めほとんどの人は悟っていないどころか仏教徒ですらない。どろどろした現実の議論に、浮世離れした説法を持ち出されましても。

 そしてもう一つだいじなこと。そもそもなんでこんな話になったかといえば、みんなが生きることの価値を見失っていたからだろうに。生きるだけなら、犬畜生でもできる。ぼくがこうして、何ごともなせずに悶々とし、不幸な日々を送っている価値ってなんだろう。

 小林よしのりは、じゃあ「公」ってもんがあって、それがみんなを見ていることにしよう。そしてその視点をベースに価値ってもんを決めよう、という話をする。まあわかりやすい。

 宮崎はそれに対して、なんと悟れ、というんだ。生きることそれ自体に価値があると悟れ。死なないために生きろ。でも、大覚宮崎はいざしらず、業にとらわれ色に迷うわれら衆生にとって、これは堂々めぐりでしかない。話はふりだしに戻るだけだ。そんなら、このぼくの生の価値を見せてくれ。宮崎の議論はそれには答えられない。

 宮崎は、ある全身不随の重病患者が、生きているだけでいい、という奥さんのことばにささえられた、という話を紹介して、ほらごらん、という。うん。そう言ってもらえたらすてきだろう。 そう言ってもらえたら、どんなにかうれしいだろう。でも、一方でぼくは知っているんだ。そんなことをだれにも言われることなく、迷惑がられて重荷になって、はやく死んでくれればいいと思われつつ、そして自分でも重荷になっていることを知って、一日もはやい死を願いつつ生きている人がたくさんいることを。

 そしてそれよりずっと肝心なこと。ぼくにそんなことを言ってくれる人はいないだろう。それに値するだけのことをぼくは何一つできていないから。その人は、なにもしなくても、いるだけで他人に光を与えられるすばらしい人だったんだろう。でも、そんな人の話をされても、ぼくはますますみじめになるだけだ。ぼくが全身不随で他人に提供できるものを失ったら、ぼくは一夜のうちに見捨てられる。だれにも顧みられずに、汚物にまみれつつこの世を呪いながら死んでゆくだろう。

 ぼくの生が空疎で虚無に覆い尽くされ、生きること自体の輝きと意味を見失っているからそんなことを思うのか。ぼくがオウムと同じ根源的差別意識と優等生的惰弱の持ち主だからそう思ってしまう のか。ごめんなさい。本当にごめんなさい。ぼくが自分の生そのものをそれ自体として肯定できるようにさえなれば。

 でも生をそれ自体として肯定するってどういう意味だ。テレビをテレビ自体として肯定するってどういう意味だ。蚊取り線香に火をつけたら、それは蚊取り線香を蚊取り線香自体として肯定していることになるのか。雑誌の気に入ったところだけ切り抜いて残りを捨てたら、それは雑誌を雑誌自体として肯定していることになるのか、それとも否定したことになるのか。そしてある人の生き方をみて、こうすればもっとよくなるんじゃないかと思うのは、その人の人生をそれ自体として肯定していることになるのか、否定しているのか。ぼくは日本の援助の一環として、まさに途上国にきてそれをやっている。ぼくのやっていることは(援助そのものの是非はさておき)途上国をそれ自体として肯定していないのか。人は自分の生活をよくしようとし、勉強したり体を鍛えたり、貯金をしたりする。それはあるがままの自分の生をそれ自体として肯定しているんだろうか。

 さらにだれにも「生きているだけでいい」と言ってもらえないぼくが「ただ生きていること」の価値ってなんだろう。話は何度でもそこに戻ってくる。それがわからないから、たいがいの人は、そんなものに頼らず、別の価値観でもっとよい人生をと日々努力しつつ生きている。その価値観ってのはたとえば、DCFかもしれないし、自分の自由度を最大化することかもしれないし、遺伝子の最大生き残りかもしれないし、いちばん力を使わない生き方かもしれないし、いろいろあるだろう。でもその価値観を説法で捨てさせるのは無理だ。ふつう人が使っているこういう各種の価値観と宮崎的な価値観は、往々にして両立しない。そして人は、そんな器用に価値観を使い分けたりはできないんだもの。

 それに宮崎は死に実体的に執着するあまり、変な勘違いをしている。尊厳死に対して、「死に尊厳なんかない!」といって批判するんだけど、尊厳死というのは死じゃなくて、自分の残された人生に尊厳を与えようということだ。そして小林や西部流の、「大義のために死す」なんて話だって、死ぬまでの生を充実した気分ですごすための方便ではあるはず。「死」はすべて犬死になんだから、死に意味づけをしてなにかしようという議論は全部だめ、と宮崎は言う。オッケー、そんなら「戦争論」でも、大義のために死ぬ、というのは行き過ぎだったことにしようか。生きて(死ぬまで)大義のために貢献しよう、と言いかえようか。それでも小林・西部の議論はほとんど同じだけれど、宮崎の反論は使えない。あるいはそこに、宮崎が臓器移植の話で持ち出す自己決定の原則を加えたら。

 そしてもう一つ。不幸であっても、苦痛と恥辱にまみれて耐え難くても生きることに価値がある、という考え方は一瞬で、生きてさえいればいくら苦しんでもいいのだ、という考え方に転じる。苦しむこと、不幸であることこそがおまえの生であり、それを抜け出そうとしてはならない。そのなかで最善をつくしなさい。その生をあるがままに肯定しなさい。これはカースト制と同じだ。そしてそれにあらがう人を、宮崎カースト論は「諦念が足りない」と踏みつぶす。宮崎は、最近の通り魔事件の犯人たちを「諦念が足りない」と一蹴するのだ。おまえの人生ははずれだったんだからあきらめろ、と。

 あきらめろ。人生の一つの目標をじゃない。人生そのものをあきらめろ。さらに、あきらめやすくするために、最初から希望を持たせるな、と宮崎はいう。教育システムの中で、おまえの人生に意味なんかないと教えろ、と。(ここはちょっと書きすぎだった。教育の中で、人生に意味があるという教え方をするな、くらいの話。失礼。ここは紙版にはない部分。)

 夢も希望もすべてすてろ、と。

 ……それがあなたの「新世紀の美徳」か。これに比べれば鶴見済の『完全自殺マニュアル』はなんとやさしく救いに満ちていたことか。あれには少なくとも、出口があった。宮崎の議論には、それすらない。

 宮崎さん、あなたはどこへ行きなさる。森岡正博の議論みたいに、人に苦痛と不幸と絶望を押しつけながら「人生楽ありゃ苦もあるさ」と悦に入るへなちょこラッダイト的プチファシスト道に堕ちる気ですか。もちろんあなたは森岡のように、ナルシズムでそれを糊塗するような醜悪な真似はするまい。でももっとひどいかも。あなたの唱える共同体はどうなってしまったですか。夢も希望もなしに、その共同体はどうやって成立するのでしょうか。ぼくにはわからない。それともあのカースト制が、あなたの制限つき共同体の理想像なのですか。さらに「死ななければ苦しんでもいい」という考えは、あなたのもう一つの批判対象たるオウム真理教とも、実はそう遠くないんじゃないか。宮崎さん、ぼくはあなたの議論がとってもこわい。そしてあなたほどの人が、おしゃかさんを錦の御旗にかかげただけでこと足れりとして、安心しきって下々の衆生の迷いを顧みることもなく、ここに書いた程度のシンプルな破綻すら目に入らず、本来の争点すら見失い続けている、ぼくはそれがもっとこわい。

付記:宮崎哲弥自身がこれを読んで、bk1のコラムでコメントをつけている。実はこれ以外に、宮崎個人からながーい私信メールをいっぱい(数日でなんと十数通)もらってあれこれ言われたのだけれど、それは主義として公開はまかりならぬと言われたので、お見せできないのだ。別に罵倒やグチが書いてあったわけじゃなくて、長くてくどいのは閉口したけれど特に公開してまずい内容ではないと思ったし、理屈は一応通っていたし別にいいじゃんと思うのだけれど。webは場として低級で、物書きとしての矜持に関わるんだって。
 言い分としては、お釈迦さんが言ってるから信じろ、という議論ではなく、矛盾がないようにつきつめたら結局お釈迦さんと同じ議論になった、あるいはかれがお釈迦さんの議論を論破できなかった、ということなのだそうだ。「悟り」とかに依存してなくて純粋に論理的なアレなんだと。ふーん。さらにぼくの議論の「ふつうの人」とか「一般の人」「平均的な人」というのがいけない、ともおしかりをうけた。ふーん。
 でもぼくは前者で特に話が変わるようには思わない。だって別に生きることについて無矛盾な理屈体系をつける必要なんかないし、お釈迦さんのが唯一のものかもわからないし、「人生は無意味」って禅問答的にはさておき、一般の人の常識的な価値観と乖離しているのは事実だと思うもの。いま出てきた平均的な人や一般人というくくりはフィクションにしても便利だし特にいけないとは思わない。さらにメールには、生の無意味さや無目的性は、進化がランダムな突然変異で生じて方向性や目的がないことからも証明されている(!!)、というに等しいスゲー議論が書いてあってかなりのけぞった。これはトンデモ的におもしろいからもっと派手に展開してくれないかな。
 その他いろいろあったけれど、要はぼくは根本的に宮崎哲弥の文を読み違えている、ということになるそうだ。ぼくは当然、自分の読み方はふつうの人なら頭の隅で必ず感じる印象をそのまま文にしたものだと思っているので、読み違いだとは思わない。読み違いにしても、それは宮崎哲弥の書き方がまずいせいが大きいと思う。とりあえずは、宮崎のbk1コラムでのコメントをあわせて読んで、それぞれに判断してほしい。またこのままだと、いずれどこかで公式に叩くそうなので、ちょっと楽しみ(こわいけど)。

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