Valid XHTML 1.1! Atlas Shrugged 連載第?回

肩をすくめるアトラス。

(『CUT』2000 年 05 月)

 エイン・ランド。アイン・ランドと読む人にも会ったことがあって、どっちが正しいのかぼくは知らないのだけれど。(注:「アイン・ランド」が正しい。失礼)アメリカ人のインテリ層の 1/3 くらいは、人生のどこかでこのおばちゃんと何らかの対決を迫られる。有名どころだと、いまのアメリカの連邦準備銀行親玉のアラン・グリーンスパンは、ランド信奉者(でもないけれど非常に好意的な人)として有名だな。(注:その後調べてみると、なんか彼女のセミナーに夫婦そろって出入りしたりしていて、本人ともかなりつきあいがあったとか)そしてそのランドおばちゃんの、全身全霊をこめた大思想小説が、Atlas Shruggedというこのすさまじい小説だ。

(注:その後、このAtlas Shruggedの翻訳が決まったそうで、とりあえずはめでたい。だがその翻訳者から 2001/8/5 にメールが届いて、この書評を書き換えろという。まずはここの「おばちゃん、という部分について。

「おばちゃん」は、もうすこしフェアな表現に変えていただけませんか。「女性」とか。 「おばちゃん」という言葉のなかには「没趣味」「世間しらず」「田舎もの」「恥知らず」といったニュアンスがあり、そんな人の書いた小説は誰も読みたいと思わないと思います。

 この訳者の人は、「おばちゃん」ということばすさまじいネガティブな意味づけをしてるようだけれど、これはただの偏見。おばちゃん小説家はたくさんいるではないか。さらに、長谷川慶太郎や林真理子や田口ランディや堺屋太一をはじめ、恥知らずの書いた小説はたくさんあって、それが売り上げに影響することもない。さらにランドはこの小説刊行時に52歳。だれはばかることのないおばちゃんでしょー。よって却下。)

 すさまじい、といってもこの小説のすごさは小説としてのできにあるんじゃない。小説としての「量」にはあるかもしれない。なんせ 1,200 ページ。でも小説としては、どっちかといえば下手だ。人間描写は、まあ深みのかけらもない。シチュエーションもかなりご都合だなぁ。そしてこれはある思想を説明するための小説なので、登場人物はすぐに 10 ページ以上にわたる大演説を次から次へとぶってくれる。この小説のすごさ、おもしろさはまた別のところにある。それはもちろん、その思想だ。

 時はどうも 20 世紀半ばくらい。世界各国は次々と共産主義の人民共和国となり、自らは何一つ生産することなくひたすらアメリカの無償援助にたかって糊口をしのぎ、さらに自国でちょっとでも産業家が何か産業を興したとたん、なんでもかんでも人民のためと称して国有化し、それをつぶしてしまう。そしてアメリカでは、何かと言うと反大企業のポーズをとって国民にええかっこしぃばかりする無能な政治屋や、それと結託して新産業の規制で生き延びている斜陽産業家たち、そしてそいつらの提灯持ちに終始するメディアだの学者だの広告代理店だのが、本当に質の高い製品やサービスを提供することで付加価値を創り出している真の産業家たちをしめつけ、じゃまをして、あげくに潰し続けている。

 革新的な鉄鋼合金を発明し、一大金属産業を確立したヘンリー・リアデン、そしてアメリカ唯一のまともな全国鉄道を孤軍奮闘で維持する、ダグニー・タガート。その他数少ない本当の仕事をしている産業家たちは、政府の「独占禁止」「労働者保護」を口実にした規制や、無能な企業家たちによる意図的・意図せざるサボタージュの中で、必死に自分の産業を保とうとつとめる。しかし、インフラを維持し、雇用をつくりだし、人々の生活を支えているかれらに対し、家族も含む世間は「利潤のみを追求する強欲産業家」のレッテルを貼るばかり。

 そして一人、また一人と、真に付加価値を創り出している人々が姿を消してゆく。その背後には、この世を支えている(のに強欲独占企業の汚名を着せられてハゲタカに苦しめられている)アトラスたちを招集し、寄生虫どもに対するストライキを呼びかける、一人の人物の姿があった……

 ランドの世界観は、非常にシンプルだ。世の中には二種類の人がいる。仕事ができる(つまり金儲けのできる)やつと、できないやつと。そして仕事ができるやつは、この世で価値を創造する人間である。できないやつは他人のつくった価値をむさぼる、寄生虫どもである。

 しかしながら、いまは(というのは 1960 年代くらいだけど、今だっていい)その寄生虫どもがのさばっている。それどころか、それが増える一方で、人はどんどん無能になって、ますます責任逃れをし、能力のある人はさらに苦労を強いられる。なぜ、能力のある人たちは、その寄生虫どもに寄生されるままになっているのか?

 それは「自分勝手はいけません」「思いやりを大切に」「世のため人のため」という寄生虫どもがまき散らしている価値観のせいである。おかげで有能な人たちは、無私の心が正しく、寄生虫どもを拒否するのは恥ずかしいと思いこまされてしまう。自分のやっている、利潤活動を後ろめたく思うようになる。寄生虫はそこにつけこむのだ、というのが彼女の理論。

 ランドがこれに対して持ち出すのは、完全に自己中心的で合理的な個体が、すべて対等な取引ベースでつきあう社会だ。そこでいちばん恥ずべき行為は「あげる」という行為だ。あげるというのは、価値があるもの(無価値なものをあげてもしょうがない)を無価値なものに貶めるという、価値否定の行為に他ならないからだ。

 彼女はこの小説の中で、そういう価値観に基づくユートピアも描く。そしてそれは彼女の思惑とは裏腹に、異様な世界である。たとえば彼女はこう論じる。

 「合理的な人間の間では、利害の対立はありえない」

 もちろん、そんなバカなと思うだろう。同じお客や同じものをめぐって、合理的な人だって利害が対立するはずだ。ところがどっこい。そう思うのは真の合理主義を理解しない愚かしい物言いなのである。たとえば同じ職を二人が取り合ったとき、どっちがそれを手にするかは、合理主義の世界では競りで決まる。そして競り負けたほうは「自分の労働をあんな低い価値のところに譲らずによかった、これでもっと価値ある職につける」と言って(失業したのに)喜ぶはずだ、というのが彼女の議論。そんな「もっと価値ある職」が見つからなかったら? 見つからないわけがない、と彼女は論じる。だって、どんな企業だろうと、合理的であればいつもよりよい人材を捜しているはずだから、と。

 ……でも、これってなんか理屈になっていないような。というかこれははっきりまちがっているのだ。人材を捜すのにもコストがかかる、というのをこの理屈は考えていない。高いお金をかけて少々ましな人を探すよりも、現状に甘んじていたほうが合理的なケースは多々ある。人の入れ替えにだって、引継その他のコストがかかる。能力の高低だって、ランドは一つの尺度で測れるような書き方をするけれど、そんなことはない。自分の高い能力で仕事を処理する人もいれば、それをうまくさばいて人に分散して仕事を処理するのがうまい人もいる。どっちが「よい人材」なの? それは場合によって変わるし、その変わり方をすべて見越すことはできないでしょ。

 また彼女は論じる。

 「愛は評価である。欠点故に愛す、とかいうのは無意味な妄言で、そんな愛され方をした相手をバカにした物言いである」

 一見なるほど、という感じだ。が、この二つを組み合わせることで、この本にはすごい場面が登場する。愛し合っている男女がいて、でも女はもっと優れた男と出会う。その瞬間、彼女は男をあっさり乗り換え、そしてふられた男は、女を喜んでゆずるのだ。愛は評価で、みんな合理的で、かれらの間に利害の対立というのは存在しないからだ。「こっちのほうが効用が高いからそのほうがいい」とみんなが納得するからだ。

(注:さらにこの部分について。

あの訳(「愛は評価である」)はあんまりです。原文を読んだことがない人なら読む気がなくな ります。 To love is to value..... 「愛するということは価値をみいだすこと」ぐらいでいかがでしょうか。 ほんとうはとても希望のもてる言葉。真剣に人を愛するためには、まずは自分の確固たる価値観がなければならず、 人は、いつもうまくいくとは限らないけれど、一貫した人格を形成し、素直に、真摯に生きていくべきで、 他者への愛は、その自分の理想や人生そのものへの愛を必然的に反映するものなのだということ。 実際、人を好きになるときには、おそらく、ほとんど間違いなくこんなふうにロジカルにはいかないものですが、 だけど素敵なものを素敵だと思う、いいものを良いと肯定できる、きれいなもの、やさしい人、美しい景色を ためらいなく肯定できる、人に対してだけではない、あらゆる「よきもの」の肯定が愛なのだ、といえる そういう明るい愛のヴィジョンが、あの一文にはこめられているように、私は解釈しています。 翻訳も多く手がけていらっしゃるとのこと、もしかしたら確信犯的な訳だったのかもしれませんが。

 「愛するということは価値をみいだすこと」にするとなんかここの文章の意味が変わるか? こうするとみんな読む気がおきるかね。あと、こんなフワフワした女々しい(ええ、ここではこれを軽蔑的な意味で使ってます。文句ある?)ことを書く人物が、ランドの徹底した合理主義を理解しているとは思えないのね。「すなおに」とか「よきものの肯定」とか。ランドの極端な利己主義もぜんぜんわかってない。「人を好きになるときには、おそらく、ほとんど間違いなくこんなふうにロジカルにはいかないものですが」って、ランドはまさに、そういう甘ちゃんを否定しているのだ。ロジカルにいかなきゃいけない、と主張しているのだ。よって却下。こんな人がランドを翻訳するというのは、実に不安。もし実際に出たものがこの調子なら、どっかで容赦なく叩く。)
(なお、こう書いたところ、「じゃあ訳をチェックしろ」と言って送りつけてきたので、この大著をチェックするはめになっている。訳は思ったよりまとも。ランドの下手なところやトンデモな部分などが薄められているのではと心配したけれど、ちゃんとそういうところは訳せているので安心。)

 当然、彼女の議論はおかしい。効用が高いとか低いというのは、完全な社会全体にとっての効用とか合理性とかを考えるから初めて成り立つ考え方で、利己性だけでは出てこない。経済学をちょっと勉強した人なら、彼女の理論のおめでたさはすぐわかる。

 あるいはもちろん、確かに世の中は寄生虫のウジ虫どももいるけれど、ぼくも含めて万人は、生産している部分もあればたかっている部分もある。「寄生虫どもを切り捨てられたら」とみんな一度は思う。でもそれをはっきり白黒つけるのは不可能だ(これ自体がランドの大嫌いな「グレーな」議論ではあるのだけれど)。ぼくたちが寄生虫たちの洗脳にさらされている部分もあるんだけれど、それ以外でも、彼女の議論を否定するのは簡単だ。

 そして、彼女の議論をきらう人もたくさんいて、それもすごくわかるのね。最近では、あの「サウスパーク」のバーブレイディ巡査が、文盲の身からせっかく字が読めるようになったにも関わらず、「もう二度とオレは本なんか読まないぞ」と決意するのも、この本のおかげだったりする。

 でも一方で彼女の論点には、半分くらいの(それもかなり強力な)正しさがあるのだ。彼女がこきおろした、「現実は存在しない」「価値観はすべて相対的で平等だ」という空論をふりかざし、大衆の味方づらをしたり、フェミニズムだの第三世界との連帯だのを声高に述べるポストモダン系の一部学者の議論の醜悪さ(ぼくはたぶん来月くらいに「知の欺瞞」という本をとりあげるだろう)。価値を創り出す者こそがえらい、という考え方の健全さ。

 彼女のおもしろさというのは、ある意味で極論の快感ではあるのだ。実際の世の中は、彼女がおもっているほど白黒はっきりはしていない。そしてその世界で白黒はっきりしているかのようにふるまうことは、決して合理的な話じゃない。それだけのことなんだけれど……でもそれではたぶん不十分なんだ。それをどう切り分けるか。ぼくはまだ判断がつかないでいる。

 ……というのはちょっと書き方があいまいだな。市場原理にどこまで任せるか、ということについては確かに迷いはあるんだけれど、ランドに対する評価はまったくゆるがない。彼女はバカなカルト教祖でしかない。自分は無理解な世間に迫害された天才なのだと信じ込んでいる凡庸なガキをおだてて、きみは世界に迫害されているからこそ正しいのだ、したがって世間はまちがっているのだ、と吹き込む非常に悪質な代物。すでに日本アイン・ランド研究会なるものがあって、そこのウェブページに行くと、自分こそは明日の日本を支えると思いこんでいる人々が、ラディカルぶったまぬけな政治談義をして(副島隆彦がえらいと思っている人ですからねえ)悦に入っている。アメリカでも、ランドファンはバカのかたまりで、合理的で争いがないはずのランド信者を標榜しているのにセクト分裂と抗争をくりかえし、ランドの主張がいかに現実性がないかを証明してくれているというお笑いぶり。みなさんゆめゆめだまされませぬよう。

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