――でもそれってどういうことだろうか。
(『CUT』2000 年 03 月)
山形浩生
ぼくたちの生活は、プラスチックに囲まれている。それをいまさら言われる必要のある人はほとんどいないだろう。生活も仕事も文化も遊びも、ありとあらゆるところにプラスチックやビニールが入り込んでいる。プラスチックというのを、広い意味での成型用科学合成物質というふうにとらえると、ナイロンだって接着剤だってプラスチックの一種だ。プラスチックがなきゃ、いまの生活はあり得ない。
それはだれでも知っている。遠藤徹『プラスチックの文化史』(水声社)は、そのだれでも知っていることを詳しく見直して、プラスチックの歴史と紆余曲折、それにまつわるさまざまなエピソードや人物について語り、さらにそれが文化的に持っていた意味や、ぼくたち人間の思考に与えたいろいろな影響について読み解いてゆく。
とてもおもしろい本だった。プラスチックそのものの発展も、それなりにおもしろいし、それをとりまく人間模様もおもしろい。プラスチックにつけられた文化的な価値(それも商業的価値を持たせるための文化的意味づけ)の話も興味深いし、プラスチックと消費社会の関わり、というのもわかる。さらに、ぼくたちの欲望というのは、もう実際に生死に関わる部分が満たされて以降、本当にわけのわからない不定型なものになっていて、商品もそれにあわせて不定形に変化していくわけだけれど、その不定形ぶりとまさに対応した形でプラスチックが存在して、そのプラスチックがわれわれの欲望の比喩的な存在(メタファーじゃねーぞ)になっている、という指摘もおもしろい。力作だし、よく調べてあるし、読みやすいし、出てくるいろいろなプラスチックの製品も、なじみの深いものばかり。タニグチリウイチも指摘したようにフィギュアの話なんかちょっとフェチが入ってて必要以上につっこんでる部分もあって楽しい。人形は、決して人間に応えてくれないところに魅力があるんだ、なんていう指摘は秀逸。
というわけで、おもしろい本なんだ。読み物としてもおもしろいし、まあ考えさせられるところもある。現在の文化文明に対するそこそこの洞察もある。是非買って、読んでみるといい。ちょっとは世界を見る目が変わるだろう。
さて、厳密な意味での書評はここまで。ここから先は、例によってちょっと関係ない話となる。
この本は、確かにおもしろいんだ。でも、ぼくは不満だった。その不満というのは、この種のモノやふるまいに着目した文化史や系譜ものでは必ず感じられる。前に注目した、消失と透明化の時代だっけ、ああいう本でもそうだ。あとに行けばいくほど、だいたい言うことが見えてきてしまう。どうせ、それまで大したことなかったものが、何らかのきっかけで、大きく普及するようになるんだ。その繰り返し。
だいたいどれもこんな感じになる:
「XXはいまやいたるところに見られる。おかげでもはやぼくたちはXXの存在を意識しないくらいになっている。XXってのはそもそもこういうもので、こうやってこしらえるんだ。エジプト時代からその萌芽はあったけれど、本格的な発達は20世紀からだ。そしてXXはこうやって広がってきて、ここにもある、あそこにもある、知らなかっただろうけれどあそこにも出てくる、実はこの人もXXと関わりがあった、これもXX、あれもXX、さらにXXをもうちょっと広い意味で考えれば、コレコレいう分野もXXに支配されている。ときどきXXに対する反対論もあったけれど、いずれも挫折している。このように、世の中いたるところXXだらけだ」
このXXはなんでもいい。紙、でもいいだろう。情報でも、コンピュータでも、本でも、時計でも、セックスでも、クスリでもお金でも。音楽でもファーストフードでも。もちろん、対象の選び方によって、興味の度合いはちがってくる。いかに意表をついたネタを選ぶか。どこにでもあるものから、どうやって意外な話を引き出すか。リサーチの深さも当然おもしろさを左右する。さらにその書きっぷりにも作者の力量は反映される。だけれど、どんなにやっても飽きる。うん、確かにあれもある、これもあるだろう。わかったわかった。またそれか。
そしてだいたいこの種の本は、最後に一章か二章、まとめがついてくる。そこでまず語られるのは、なんらかの倒錯ね。これまで人は、生きるためにXXを使ってきたのだけれど、それが倒錯してきて、XXするために生きるような本末転倒の事態が生じている、というような。さらには、人間とXXの境界があいまいになって、人間そのものがXX化しつつある、とかいう話も出てくるのがふつうだ。
そして最後の落とし方は二種類。「XXがなくなる日」という章をつくって、コンピュータの発達とかヒトゲノムプロジェクトの進歩とかでいつかXXがなくなる日がくるかもしれない、といったような夢想にふける場合。もう一つは、各種のXX批判論と翼賛論を紹介しつつ、「盲目的な反対でも、無批判な翼賛でもない共存の道を考えなくてはならないだろう」というものわかりのいい無内容なポジティブ方針。モンティパイソン的に言えば、splungeというやつね。
前者のほうは、うまくやればかなりとんでもない発想が出てきておもしろい。でも多いのは後者だ。で、結局なんなんだ。この後者を読むたびに、ぼくの中でそういう声がする。世の中、XXでいっぱいだ、というところからはじまって、そして最後にやっぱり世界はこれからもXXだらけでいくしかないでしょ、という。同じところに戻ってきただけか。結局なんなんだ。ちなみにこの本はそこで、プラスチック・アレルギーの話と環境ホルモン話(というそもそも何なのかぜんぜんわかっていないもの)を出してから、DNAも巨大分子でプラスチックのポリマーも巨大分子だからDNAも(したがって人間も)プラスチック、とかなりひどい議論を展開したあげくに、だからプラスチックを毛嫌いせじに人間とプラスチックがともに暮らしていける世界を、という。これは前に言った、この人のフィギュアとかの入れ込み方とあわせて考えるとなかなか意味深だったりしておもしろい。でも、だからなんなんだ。
いや、わかってる。こんな読み方をするのはぼくがひねたいやらしい読み手だからではある。でもぼくは最近特に、この「なんなんだ」がすごく気になる。それが明確でないものはすごくもどかしい。良心的であろうとしてあいまいに濁してあるものがすごく気にさわるんだ。でも、そういう本はあまりに多い。それじゃ足りないんだ。それじゃ役にたたないんだ。それは最近出た市野川容孝『思考のフロンティア 身体/生命』(岩波書店)でもそうなんだ。あなたは結局どうしたいんだろう。ぼくは結局どうすればいいんだろう。最近なんか妙に焦っている。でも、もう後がない。この話はまたこんどしよう。
CUT編集部 稲田さま
遅くなってすみません。後半、特に最後のほうが変なモードに入っちゃってますが、時間切れってことで。取り急ぎ。
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