表紙は Brad Pitt@Fight Club 連載第?回

消失と透明化の時代

――ただしなまくらハーディンソンとは無縁の。

(『CUT』1999 年 12 月)

山形浩生 Valid HTML 4.0!



 ハーディンソン『消失と透明化の時代』(白揚社)という本を、ぼくはかなり期待して手に取った。まずはそれが扱っている対象。数学や物理から、詩や絵画を経て、最後に人間という概念自体があいまいになる、という広範な対象を、消失をキーワードにまとめるという。そしてそれをベースにこの20世紀を総括してみせるという大胆さ。ぼく以外にこういう無謀でいい加減なことをやろうとするやつがいるとは。

 だからこれを読みながら、期待がだんだん失望へと変わっていくのは、とても残念な経験だった。最初の頃は、一ページにそれなりに時間をかけつつ読む。でも、だんだんページをめくるスピードがあがる。ああ、この程度か、この手の話か。最後のほうは、もう各章の頭と最後の部分にざっと目を通すだけ。ベトナム出張で読むつもりが、乗り継ぎの香港までに2段組450ページが終わってしまった。

 ぼくががっかりした理由の一つはこれが、とても古くさいことだ。マイロン・クルーガー? 原著は 1989 年の本。もう 10 年前の本。本書が出た頃には、たとえばコンピュータでなにやら詩もどきがつくれる、というのはそれなりに驚くべきことだった。フラクタル幾何学で変な自己相似パターンや自然をまねた絵がつくれるというのも、なかなか目新しかっただろう。いまはどれも、実に見慣れた代物にすぎない。人間のふりをするコンピュータ? 人工無能がありますがな。フラクタル? そんなの 5 年前のぼくのコンピュータのデスクトップだった。それが言語や芸術の消滅なんて言われたって。

 本書の議論というのはだいたいがそんな具合だ。コンピュータでちょいと詩もどきがつくれました。物理の最先端では、単独では分離できないクォークとか、超ひもとか、わけのわからない話をいろいろしてます。うんそれは知ってる(知らない人には多少は興味深いかな。でもそれなら、もっときちんとした本をまず読んだほうがいい)。そうやって、既存の概念がいろいろ変わってきました。それは事実。だけれど、ビッグバンとインフレ宇宙論で無から有ができたかも、という仮説があるから、自然は消滅した? コンピュータにつくれるから美術や言語は消滅した?

 古さは、この本の持つ本質的な欠陥ではなけれど、その本質的な欠陥を見やすくしてくする役には立っている。その本質的な欠陥というのは結局、著者が「消失した」とか言っている判断基準がなまくらなことだ。いまも昔も、従来の考え方が通用しなくなる場面というのはいくらでもある。昔、天動説を信じていた人たちが地動説に移行したときには大きく認識が変わっただろう。印刷術と出版物は決定的に人の意識を変えただろう。でも、それで宇宙は消失しただろうか。言葉は消失しただろうか。まさか。でも本書で展開されているのはそういう議論だ。そしてここで「変わった」と言われているものも、実は変わってなんかいない。昔から、サルを 100 万匹集めてでたらめにタイプライターをたたいたら、いつかシェイクスピアを叩き出すやつが出るだろう、という議論がある。いまはコンピュータを使って、それがかなり現実的な見通しとなった。でも、そこで質的には何も変わっていない。画像でも、コンピュータの画素のあらゆる組み合わせを考えることができる。でも、それはいまも昔も可能だったことだ。何も変わっていない。何も消失していない。だから著者の議論は本質的につまらない。

 つまりそれは著者が「価値」とか「消失」とかいうことをことばの表面だけでとらえて、それを深く考えていないということだ。コンピュータがあることばのつながりを作って、それを読んで人間が感心することもある。でも、そこで不思議なのはいまも昔も、それでなぜ人間か感動するのか、ということのほうだ。文学や美術や音楽は、文芸・美術理論の中にあるんじゃない。それに感動する人の中にある。コンピュータに絵が描けたら、なぜ芸術は消滅したことになるんだ。サルにいい小説が書けたら、なぜ小説が消滅したことになるんだ。そんな話はウィリアム・バロウズが 30 年前に片づけている。「サルにカットアップ小説が書けたって、その小説がよければよいではないの」。コンピュータにそれがつくれるということは、むしろ人の感動の本質、価値観の本質への手がかりが増えたということでしかない。

 人は何に価値を感じるのか。ぼくは緒川たまきがちょいと気に入っているので、ときどき彼女が司会の新日曜美術ナントカという国営放送番組を見たりする。なぜあの子のファッションはときどき絶望的にどんくさいのか、というのはさておき、あの番組でぼくが嫌いなのは、なにかというと画家の「内面」とか「感情表現」とかを問題にしたがることだ。それは絵を作者に従属した属人的に見ようとすることだ。そういう部分もある。でも、それは本当に評価されるべき価値なのか? 美術も文学も、いやあらゆるメディアってのは、何も知らずにある絵や文や音楽にいきなり接して、それに人が感動できるという動かしがたい事実が前提になっている。作家の内面を問題にするのは、それを否定する卑しい見方でしかない。

 人の情動ってのは、その個人の経験に属する部分と、その個人が属する集団の属性に基づく部分と、そして生物としての人間の知覚構造に依存するものと、それ以上のものと、いくつかのレベルがある。いずれそれが厳密に区分されるだろう。そして作品ごとに、どのレベルで感動が存在してるのかを明らかにすること。ある作品がもたらす感動がすべてきちんと仕分けできるようになったとき、いままで主観で処理されていたものがすべて客観化される。そのとき何が起きるだろうか。わからない。でも、なにかが本質的に変わるとしたら、なにかが消えるとしたら、それはその瞬間だろう。人がどういう刺激にどう反応するかが完全にわかってしまう。そのとき、人は完全にコントロール可能な機械の一種と化す。その瞬間、文化という概念が意味を失う(文化はそういう価値を組織して人を制御する手段でしかない)。そのとき人間は本当に消滅する。消失だの文化の解読だのと言うなら、このくらいのことは考えてくれないと。

 その意味でソルソ『脳は絵をどのように理解するか』(新曜社)はおもしろかった。これはまさに、脳の働きから絵の持つ感動を解き明かそうとする一冊。いろんな時代のいろんな絵が、脳のどういう情報処理を活用することで、おもしろさと感動と美しさを生み出しているのか。布施英利がやりかけたことを、この本は本気でやって、しかも一部成功している。いま人はまさに自分の「感動」とか「価値」の核心に迫りかけている。そのとき本当に変わるのはなにか、本当に消失するのはなにか。それを考える時間があと100年くらいはあるかと思っていたんだけれど、残された時間はもうあまりなくて、実はぼくの寿命より短いんじゃないか。

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