Brain Valley IBrain Valley II連載第?回

もったいない。

(『CUT』1999 年 08 月)

山形浩生



 ところで「π」を観た。爽快な映画だった。そうだった。ぼくもこんなことを考えたことがあった。この世のあらゆるものの底に潜む規則。この世のすべては、データで表される。データはすべて数字だ。そしてその数字ををグラフ化すれば、そこにはパターンが出現する。そのパターンさえわかれば。蛇口から水が滴っている。

 パターンがあるはずだ。ある規則があるはずだ。生きていると、この世界は本当に乱雑で、驚きだらけで、首尾一貫していなくて不公平で――でもそれはある規則に基づいているはずだ。決まりがあるはずだ。腕に蚊がとまる。叩きつぶした。われわれがまだ知らない、あるいは理解できていない決まりがあるはずだ。物理学なんかはそれらしきものを少し見つけたじゃないか。ほかにも規則があるはずだ。たとえばいまぼくの机の上には蚊取り線香と半分空のかりんとうの袋と名刺とナイフとマウスと財布と百バーツ札の束とエリツィン人形とセロテープとタバコ用巻紙が積み上がっている。

 その規則を、神さまと言ってもいいだろう。瀬名秀明の新作のもう一つのポイントが、この神さまについてのいろんな議論だ。それとラジオペンチとカメラとリモコンもある。でも同時にそれは、この本の欠陥でもある。

 さっきも書いたとおり、この本はいっぱい調べものをしてあるし、おもしろい着想もたくさんある。うちゅーじんに誘拐されてちんちんやまんこをいじられる人と、臨死体験した人との共通性。それと脳内物質との結びつき。サルの死生観、人工生命。そして神さまというのが脳のつくりだす生命体の一種だというアイデア。かりんとうをはやく食べてしまおう。たしかてんかんの話がいっぱいでてきた。なんだっけ。そしてチンパンジーやラットが手話して、コンピュータにつながってたが、あと 7 つ。あれはなんだったっけ。そういうのをいろんな脳の理論とからめて、How? の部分をゴリゴリつくりあげていく。それはすごい。

 この小説が決定的に弱いのは、Why だ。なぜ? なぜ神さまを?

 「なぜ」の弱さは、瀬名の前作「パラサイト・イブ」にもあった。あの小説では、ミトコンドリア生物が核との共生から逃れようとする。なぜ? なぜミトコンドリアは、自分にだってメリットがあったはずの共生関係を捨てたいのか。なぜ、いまになって急にせっかちに動きだしたのか。そこでのミトコンドリアの切実さってなんだったんだろう。病原体には病原体の切実さがある。エイリアンにはエイリアンの切実さがある。お、リモコンが床に落ちるリモコンには、床に落ちる切実さがある。その切実ささえ感じられれば、科学的な説明なんか(小説では)どうでもいい。そしてその切実さなしには、自分の手の内をさらすような演説を得意げにしてみせたり、火ぃ吹いてまわったりして墓穴を掘っているイブちゃんは、バカにしか見えない。これが一億年にわたってすさまじい戦略を周到に練り上げてきたはずのミトコンドリアか。逆にその切実ささえ描けていれば、だれもミトコンドリアが火ぃふくことに文句は言わなかったはずなのだ。瀬名は、科学的な正確さに変にこだわって、『パラサイト・イヴ』文庫化でいろいろ訂正したりしているけれど、そういうことじゃないはずだ。

 『ブレイン・ヴァレー』にも、「なぜ」はほとんどない。山奥の脳研究施設は、実は神さまをつくる一大プロジェクトだった。ほうほう。でもなぜそんなことがしたいね? ここで本当に神さまに会いたいと思っている人は、実は北川研究所長たった一人。「あー、神さまに会って全世界の、万物の究極の答が聞きたいんですけど」。42。うん、いいんだけどさ。「人類ちょっと行き詰まってるので神さまに旗でも振ってもらわんと」。はぁ。

 でも人はそんな抽象的な理由で神さまなんか求めているだろうか。この北川所長は、「きみはドストエフスキーを読んだか、ブレイクを読んだか」という。瀬名は読んだだろうか。かれらはこんな理由で神さまを求めていたか? 実際に神さまに祈る人を見てごらん。そんな悠長なものじゃない。「なぜぼくは生まれてきたのですか」「なぜこの世はあるのですか」と人が神さまに問うとき、それは一般論をききたいんじゃなくて、いま、ここの自分のことがききたいのだ。でも、瀬名は一般論と HowTo 話に落としてしまう。脳の複雑化、脳内物質の働き。瀬名は本当に科学者だ。「空はなぜ青いの?」という問いに、科学者は「それは空気の粒子がこういう波長の光を散乱してしまうからだよ」という話をする。うん、それはとてもおもしろい。でも、それはHowだ。「なぜ?」と思うぼくたちが考えているのは、なぜ空の色はこういう感動をもってぼくたちに迫ってくるんだろう、ということでもあるのだ。瀬名はじゅうぶんにそれをわかっているはずなのに。

 北川だけじゃない。その他の所員は、そもそも神さまのことなんか考えたこともない。だれもお祈りしないのね(近くの村の人たちは祈るけど、ほんのエキストラ扱いだ)。だからかれらにとって(そして読者にとって)最後に出てくる神さまも、奇蹟という芸を見せるでっかいお化けでしかない。ちがうんだよ。もっともっともっともっともっともっともっとみんな神さまを望んでいなきゃ。切実に。もっともっと深い悩みと後悔にさいなまれていなきゃ。取り返しのつかないことで神さまに最初から問い続けていてほしいのだ。「なぜですか?」「どうしてですか?」過去数千年、人は神さまをめぐって殺し合っている。どうして宗教屋が一人も出てこない? 科学と宗教をめぐりいろんな議論がある。なぜそれに少しでも触れない? それがあって初めて最後の神さまが迫力を持つ。各人それぞれに、出てきたものを信じたい気持ちと、否定したい気持ちがせめぎあって、すごくおもしろかったろう。50 年後にも通用する深みが出ただろう。ところがこの神さまは、切実でない人たちの前に出てきて、力を見せるために「真」とか「リアル」とか、「みんなつながってる」とかでみんなを満たす。抽象的だなあ。リアルってなんだ。あんたは岡崎京子か。つながってるって、lain かよ。そして勝手に出てきて、勝手に自滅してしまう。そうじゃないだろう。

 だから科学的説明が古びた時点で、この小説も無意味になるだろう。もったいない。ほぉんとにいいところまできているのに。大きなテーマ。巨大な仕掛け。それなのに、そこにかかるのは、本当に小手先の話。スーパーコンピュータを導入して日がなテトリスをやっているような。もっとできることがあるはず。もっともっとすごい話になれたはず。いくつかすでに出た書評を見ると、みんな何かしらのもどかしさを感じている。それはそういうことなんだ。それにもちろん本書のラストの数行はでたらめだもの。奇蹟は起きない。起きたこともない。そこには規則があるはずだ。コンピュータが二台フリーズしている。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>