虚数 連載第?回

スタニスワフ・レム『虚数』序にかえて

――生物としての限界をこえた自由のこと。

(『CUT』1999 年 4 月)

山形浩生



 この本が、架空の本の序文集という変わった形式で出たことは、ある意味で不幸だった。ある意味で幸福だった。不幸というのは、この形式についての話題ばかりが先走って、その中身についてはあまり話題にならなかったこと。幸福というのは、この本の形式だけ見て喜んでいるバカでも、その形式につられて一応はこの本に目を通したこと。とはいえ、どうせ目を通してもわからないなら同じことかな。

 形式だけ見て喜んでいる典型が、本書の日本語版にしようもない序文をつけている梅草甚一。「あるだけ」外郭団体の中でも最右翼の日本挨拶学協会(でも虎ノ門七丁目のオフィスと受付ねいちゃんはゴージャスでいーぞ)の、「いるだけ」役職最右翼たる会長などという、空気以下の存在に甘んじている人物に何を期待してもアレだが、あなたたちはこれを読んで、本気で「言葉遊びの側面」などというくだらないことしか読みとれなかったのか。そりゃ訳者は苦労しただろう。その苦労の甲斐あって、翻訳の遊びも見事。ポーランド小説は、むかしからほんとうに訳者に恵まれている。でも、本書のいちばん大事な価値は、そこじゃないのだ。

 そもそもこの本は、架空の本の序文集なんかじゃない。前半は、まあ確かにそういう形式だ。でも後半の『ゴーレム XIV』は、ごくごく普通の本になっている。そして一編をのぞいてこの本すべてのテーマは、生物と機械を一本つらぬいている進化と知性の未来ということなんだ。

 進化のプロセスの中で、知性の誕生は必然的だったのか? 機械は知性を持てるか? レムはそれが必然であり、もちろん機械は知性を持てて、しかもそれは生物学的な制約を持つ人間ごときをはるかに上回る水準に達するであろうと語る。この本の後半の『ゴーレム XIV』は、その人間をはるかに上回る知性を持った機械が、下々の人間たちに行った講演録になっている。その中でこの機械は、進化の中での知性の位置づけと、その将来の発展の道筋を説いてくれるのだ。

 だからこの本をほんとうに楽しむためには、進化と生物とコンピュータについてある程度の基礎知識がないと、ちんぷんかんぷんかもしれない。不安な人はジョン・メイナード・スミス『生物学とはなにか』(紀伊国屋書店)と、ドーキンス『利己的遺伝子』(紀伊国屋書店)くらいを見ておこう。が、レムはこれをベースに、はるかにぶっとんだところにまで議論をすすめる。

 ぼくですら、ここで語られる議論を完全には理解できていない。機械が知性を獲得できる可能性は認めよう。でもそのときの知性は、人間にとって意味がある「知性」なのだろうか。本書と同じ/反対のビジョンをもった本として、アンリ・ルロワ=グーランの名著『身ぶりと言葉』(新潮社)がある。人間の道具づくりやことばといった知性のはたらきすべてが、人間の肉体や動作と結びついているのを解説し、言語や文明、知性を単細胞生物からボルボックスやマグロを経て人間に至る進化のなかに位置づけたすごい本だ。でもそこから先がまったくちがう。ルロワ=グーランは、そのまま人間が生物としての枠内にとどまるものとして議論をすすめる。レムは、知性がいつか生物学的な限界を突破する、というのだ。生物学的な知性の限界とは? さらに突破した先の知性は、ほんとうに知性といっていいんだろうか?

 レムはどこまで根拠と確信をもってものを言っているのだろう。思考とそのエネルギーという話になってきて、この本はめちゃくちゃな世界に突入する。情報もエネルギーなのだから、ある段階を越えた知性は入力を上回る情報エネルギーを生産し、文字通り燃え上がるだろう、とかれは語る。それが星なのだ!!!! 星は実は精神そのもので、そのフレアはそこで行われている純粋思考の信号なのだ! すごい。こうなってくると、いまのぼくではついていけない。しかし一つ確実なこと。レムはこれを、その場の思いつきで書いたのではない。このアイデアはすでに『宇宙創世記ロボットの旅』(ハヤカワ文庫)に出てきている。かれは 30 年も前から、これを考えていたのか。すごい。

 さて、レムは正しいのか? ほんとうに知性は星になるのか? そんなことを考えたって大した意味はない。いまここにいるぼくたちは生物学的な限界の中にしかいないんだから。ただしその生物学的な限界を認識できるようになってきた、ということは大事なんだ。そしてその限界がぼくたちにとって持つ意味が見えてきたということも。ぼくたちはいま、わずかばかりの自由を手にしている。でもこの生物学的な限界がある限り、いずれそれはなくなる運命にあるんだ。ルロワ=グーランもそれをほのめかしている。レムも『虚数』で書いている。「人間は、自由から解放されたがっている」と。そしてその「いずれ」がもう始まっていることも認識すべきだろう。その先鋒がエコロジーだ。これを本気でやるなら、いずれは人間の自由を完全に奪い、さらに優生学と間引きによる強制的な人口調整を行い、ヒトをハチやアリのような集団生物にする必要が出てくる。ほとんどの人は、気ままに鼻くそをほじくるのが自由だと勘違いしていて、その程度の自由は残るだろう。でもここで考えられているのは、もっと切実で大きな自由なんだ。そしてレムは、生物としての限界を超えた知性を考えることで、生物としての(つまりは利己的遺伝子の)制約をのがれた無限の自由を夢見ている。この本は、そういう大文字の自由について真剣に考えた、数少ない本なんだ。

 あなたはそういう自由を考えたことがあるか。ないだろう。この本をめぐる書評も、だれひとりとして「架空の本の序文」以上の話をしていない。そうやってみんな、遺伝子につかまったまま幸せにハチの群に成り下がっていいのか。日本の同世代(いやあらゆる世代)のヒョーロンカ連中はほんとうに目先のことしか考えていない。一部の科学者を除けば、いまの不況がどうしたとか、官僚が云々とか、オウムやテレクラがなんだとか、アニメがどうしたとか、自分のチンコやマンコがどうしたとか、もう1年以下のスパンでしかものを考えていない。もっと大きなことを考えられないのか。いまぼくたちが生きているこの時代が、ぼくたちに何をつきつけているのか、見えないのか。レム『虚数』は、それを見ているぞ。それがわからないか。

 もう一回本書の前半を読んでみるといい。文字を書くように人工的に進化させたウィルスというアイデアがどういう意味を持つのか。機械による文学というのがなんなのか。「レムは遊んでみたかっただけなのかもしれない」と日本語版への序で梅草某は書いているけれど、あなたは遊びを知らない。それはあなたの思ってるような、思いつきの垂れ流しじゃないのだ。レムの仕掛けた遊びにくらべれば、あんたらの「遊び」なんざぁ屁みたいなもの。だからこんな日本語版への序は破りすてて、この一文に差し替えるといい。ここに書いてあることこそが、レム『虚数』という本の真の意義だ。自由をわれらに! これをもって、レム『虚数』の序に替えさせていただく。


CUT編集部 稲田様

こむずかしくなってしまいました。が、まあこんなもので。ちなみに、日本挨拶学協会は、所在地をごらんいただければわかる通り、苦情がくるおそれはありませんのでごあんしんください。

メールでも送りましたが、ちとシステムが反抗的なので、送れていなかったらまたご連絡いだだければさいわいです。

山形拝

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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)