知性のために 連載第?回

いつものお説教を別のかたちで読み直すこと。

(『CUT』1998 年 12 月)

山形浩生

 蓮實重彦の『知性のために』(岩波書店)は、この東大総長のほうぼうでのスピーチを集めた本。東大の入学式や卒業式での式辞のたぐいがいろいろおさめられてる。

 ……式辞、だって? これが?

 だってさ、長いの、これが。ぼくが音読しても 1 ページ 1 分。あのもっさりした蓮實の口調でならその 5 割増しだろう。それが東大入学式の式辞だと 30 ページ強ってことは、つまり一時間近く!?! しかも、あの蓮實の長くてまわりくどい文章が、ほとんどそのままページにのたくっている! いや、多少はすっきりしてるかな。それにしても人間がふつうに口にすることばじゃないし、聴く側の頭のバッファはまちがいなくオーバーフローするはず。それが最初から最後までずうっっっっと続いてる。武道館で聞かされた人たち(ほとんどが高校出たての新入生!)には拷問だったんじゃない? というわけで杉岡さんに七尾さん(と急に話をふる)、まさにこの祝辞を受けた側として、きいててどのくらい理解できた? おもしろかった? まわりの反応はどうだった? いやそれ以前に、蓮実重彦はあんなに長ったらしいあいさつを本当にしたの?

杉岡「本当です!!!私は入学式に来てくれていた、うちのおばあちゃんが倒れるんじゃないかって、気が気じゃなかったです。長くなりそうだとは思っていましたが、そのうち怒りがわいてきてしまいました。信じられないくらいの長さでした。
 あまりの長さと、文章の難しさから、私は最初の 10 分と終わりの 3 行くらいしかほんとに理解できませんでした。しかも聞く気力が 10 分で無くなってしまいました。
 同じクラスの留学生のキャシーが、『わたし、にほんご全然わからないよー』といって泣きそうになって、まわりの友達皆が、『実はわたし(日本人)も全然分からなかったよー』となぐさめていました。皆、内容が難しいとか関係ないところまで飛びすぎとか、長すぎとかで、怒っていました。」

(爆)……やっぱりねえ。いやはや、蓮實先生、きいてますか? やっぱ祝辞でおばあさんを殺したり、女の子を泣かせたりしてはいけませんよ。七尾家も、それぞれの文が異様に長かった点を指摘している。

 しかしそれはまあ、しょうがないんだよね。いやしょうがないって、祝辞で人を殺すことじゃなくて、そういう文の長さが。蓮実重彦の文は昔から長くて、いつもなにか核心を避けつつ、そのまわりを探りを入れながら遠巻きにするような文章なの。かれの文を読んでいるといつも、この人はストレートにものを言ってないな、別の魂胆でもって布石を打ってそうだな、なんか含みというか裏があるんじゃないか、そんな気がする。七尾(妹)曰く:

「レトリックもすごーい。最後に何かトリックがあるんだろうな、と警戒して聞いてたんですけど、予想外の展開をみせられたので、どひょーん!すげーー」

 そしてなぜそういう文かといえば、かれは手っ取り早い結論にとびつきたがる傾向ってのが諸悪の根元の一つだと思ってるから。結論よりその思考の過程のほうがずっと大事なんだ、というのがかれの持論で、長い、長い、真綿がいつまでもとぐろを巻くような文章にすることで、人の注意はいやでも文の結論よりは文そのもの――つまりは思考のプロセス――に向けられる、というわけ。

 ちなみに、杉岡嬢が理解した最後の三行はこうだ:

「そのことを指摘しながら、この式辞は、結論もないまま唐突に終わりをつげます。それに費やされた言葉は、はたして、この式典にふわさしい何かを充分に祝福しえたでしょうか。いま式辞を述べおえようとしている者は、それに耳を傾けられた方がたのうちに、結果とは異なる過程への好奇心がすでに胚胎し始めているものと確信しております」

 上の証言からするかぎり、胚胎したのは別のものだったようだけれど、それはまあいいや。結果(結論)ではなく過程への好奇心、という主張は入っているのがわかるでしょう。ただそれは、「人間、結果より努力が大事です」という主張ではない……というか、そうであってそうではないのね。

 蓮實重彦の文は、とてもつらい立場におかれていて、かれが言おうとしていることを普通のことばで言おうとすると、どうしても「人間、結果はどうあれ努力が大事です」とか「やはり結果を出さないとだめです」とか「出会いを大切にしましょう」とか、そういう鼻くそみたいなお説教になってしまう。それはウソではなくて、一面の真実を持っているんだけれど、どっかできいたお説教だと思われた瞬間に、そのことばはもう頭の芯には届かずにバイパスされてしまう。しかもこういうのには、一面の真実のほかに実はいろいろただし書きがついている。たとえば努力は大事だけど、世の中には無駄で無意味な努力もあって、その努力を輝かせるにはある種の結果出しがどうしても必要なんだ、とか。

 だから蓮實は、「例の」お説教だと思われないように、様子をうかがうような文章をつむいでいくんだ。そして予想外の方向からせめて、なんとかみんなの頭の芯にたどりつこうとする。同時に、お説教からはばっさり切り捨てられるいろんな注意書きやただし書きも温存しようとする。

 ただこれはバッファが小さい人には通用しない。相当量の人は、とりこぼされるだろう。七尾(妹)みたいに、「警戒する」だけの見識がなければ特に。しかも紙面というキャッシュがないはなしことばの領域ではなおさらつらい。かれは序文で、これが書き言葉だ、と強調してるんだけれど、なんかそこの議論はピンとこない。かれの「である調で書くとみんなすぐ鵜呑みにしちゃう」といういらだちはわかるけれど、それは「ですます」と「だ・である」だけで語れる話じゃない。この議論も含めて、ぼくはかれのやり方とは別の手口があると思っているんだ。

 ぼくはこうやって、なんでもわかりやすくしてしまう。いい加減な結論をぼこぼこ入れて、とりあえずバッファをクリアしながら先に進もうとする。ことばが届く相手は広がるよ。でも一方で、蓮實重彦がそのわかりにくさで保存しようとしたインパクトとか、予想外の攻撃とかいう部分は、かなり消えてしまうんだろう。みんな「ああなるほどね」と納得して、安心してしまう。あるいは途中の結論のいい加減さから、冗談だと思う人も出てくる。たぶんこの文を読んで、「ああ、要するに例のお説教か」と思って『知性のために』を読むのをやめちゃう人も出るだろう。

 それはとても残念だなと思う。蓮實先生が言ってることは、あたりまえだけど大事なことなんだから。入学式のときに寝てしまったぼくの後輩たちも、自分たちが耳にしたのがなんだったのか、この本を手にとってもう一度確認してほしいと思う(もちろん後輩たち以外もね)。そしてこの世の「わーい見て見て、こんなものできちゃった!」「ねえねえ、こんなことしちゃった!」という楽しさを、もっともっと増やしてほしいと思うんだ。『知性のために』がもう一つ言ってるのは、知性ってのがまさにその楽しさなんだってことなんだけれど、でも、あなたは(ぼくも)わかったつもりで、実はこれがわかってない。

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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)