世界殺人鬼百選権力への意志 連載第?回

ありもしない理由なんかさがしてはならない。

(『CUT』 1997年8月発売号)

山形浩生



 例の事件がらみで、週刊アスキーにて猪瀬直樹曰く。「スプラッター映画を観たが十分と見ていられなかった。これは異常性を抱えた人のための世界で、日常の生活についていけない人の場だ」。バカだねー。いつからテメーが正常/異常のお代官さまになったんだっつーの。これがバンジージャンプだったらどうよ。激辛料理だったら。「バンジージャンプは怖くて飛べなかった。これは日常生活についてけない人の場だ」「こんな辛いものを喰うなんて、異常性を抱えた人の世界」ってね。酸っぱいブドウ、なんとかの遠吠えってのよ、そういうのは。猪瀬ほどヤワな神経してないだけで、異常者や日常生活落伍者扱いされちゃたまらない。ホラー映画見ながらふつうに日常生活を営んでいる人が無数にいるのがわからないかね。

 まったく先週(というのは 7 月頭)、人間ドックに入れられて、待ち時間で低級大衆週刊誌を山ほど読まされたけど、どいつもこいつもバカ丸出し。林真理子が「顔が見たいわたしは卑しいのだろうか」とか書いてるけど、当然じゃん。林なんて、梨本と同様に世間の品性下劣な部分を代弁するのが商品価値なんだから。被疑者の話も、周辺のホラービデオとかの話も、無知に飽かせた井戸端会議レベルの「コメント」ばっか。上の猪瀬もその一つ。多少なりともまともなことを言ってるのは、同誌に出てたテリー伊藤と、(仲間ぼめみたいだが)あの特殊翻訳家兼殺人鬼研究者たる柳下毅一郎くらいだった。

 柳下の「まともさ」は、「殺人しちゃうのは結局は当人の問題」と断言できる健全性にある。マッチポンプのメディアは、すぐ社会問題化して話を大きくしたがるし、猪瀬みたいなヒョーロンカもすぐそれに迎合したがる(その方がお座敷かかるしね)。柳下はちがう。かれは専門家として、人殺しは(猟奇殺人も含めて)いつの時代にもあったし、殺人鬼一人や二人で社会が揺るがないことを知っている。「社会が/教育が/時代が/環境がそうさせた」式の原因探しがいかに不毛かも知っている。かれはスタニスワフ・レムを読んでいるので、何をどうがんばっても現代のように人口が増えれば、これまでにない条件の組み合わせが起きて、これまでは確率的にあり得なかった変な事件も必然的に起きちゃうことを知っている。

 それはかれの『世界殺人鬼百選』(ぶんか社)にも明確にうかがえる。これほど楽しげに世界の殺人鬼を並べた本は他に例がない。最近は変わってきたけど、たいがいの殺人者本は眉根にしわ寄せて「なぜ?」と言いたがる。「かれをこのような残虐な犯罪に駆り立てたのは何か?!」という具合。が、柳下の本にはまず道徳的判断がない。こいつらは人を拷問して強姦して残酷に切り刻んで毒を盛って、その上死んでからも屍姦して喰っちゃったりなんかして、なんと残酷で心の歪んだ道徳的にイケナイ人たちなんでしょうとは言わない。むしろ「いやー、すごいですねー(笑)」というのを基調に、淡々と手口と結果を書くだけ。その殺人が持つ社会的意義なんてものも一切無視。

 そして、原因探しもない。社会が悪いとも、メディアの暴力がいけないとも言わない。家庭の影響という話はちょっとあるな。やっぱガキの頃から「おまえなんか生まれなきゃよかった」と言い続けて気晴らしに虐待して置き去りにすると、いろんな点で精神的に歪むのは仕方ないみたい。でも、この本はそれを本気で案じているわけではない。だってどうしようもないもの。それに、そんな人みんなが殺人するわけでもないのだ。本として特に結論もなし。多種多様な殺人者から何か教訓を引き出そうとしたり、エッセンスを抽出しようともしない。感想といえば、「いやあ、いろんな人がいるなあ」というだけ。

 だが(直接の関係者や捜査陣でもない限り)、殺人を見る唯一の正しい態度というのは、そういうものである。特にまったく物理的・感情的な動機のない、趣味としての殺人は。何らかの必要性にかられて殺人をするというケースは今でも多い。しかしながら、これまでは王侯貴族の特権だった、娯楽としての殺人がいまや徐々に大衆化しつつあるのだ。

 柳下毅一郎の記録している数々の殺人鬼も、実利的な理由など何ももってない。「なぜ?」といったって、バンジージャンプやスカイダイビングをやる理由が千差万別で、たまたまあの時にふとこんなニュースを見たとか、たまたま見上げたら空がきれいだったとかいう一回限りの偶然に支配され、結局は「ただなんとなくやってみたいと思った」という説明しかできないのと同じく、こうした趣味の殺人も「なぜ」の疑問は決して答えられることなく残る。

 だから、最初からそんなものは問わない。そうした割り切り方が、この本を非常に現代的なものとしているし、それが今回の一件でかれのコメントを唯一読むに足るものとしている。どうしても理由がほしければ、それは社会が豊かになって、価値観が多様化しているからだ、とどこぞの広告屋みたいな妄言を吐くしかない。株と同じで、多様化とは変動率の増大であり、変動率の増大はリスクの増大と同義であり、それはいい方にも悪い方にも作用してしまう。そういう時代なのだ、とでも言うしかない。

 ただ「そういう時代」というのは、実は最近の発明なんかではまったくない。すでに前世紀から継続している(少なくともヨーロッパには存在していた)流れが、やっと凡人の目にも見える形で現れてきているのだ。ニーチェ『権力への意志』(ちくま学芸文庫)は、その前世紀の末に書かれた本だけれど、そこにある問題意識は確実に今の日本においても通用する代物となっていて、一行おきくらいにズバリ「言い当てられた」と思える文がズラズラ出てきてすごいよ。これまでの(特にキリスト教的な)価値観の否定。人間の行動を抑えるすべての道徳的体系の必然的な批判と、それに伴って登場する各種の現象。弱さの発現としての宗教やカルトリーダーや、単純な刺激への反応行動。進歩史観の否定。

 必ずしも理詰めのまとまった思考が書かれているわけではなくて、断片的な文章の羅列からなるアフォリズム集だから要約はむずかしいけれど、でも逆にそれが、まとまりきれていない思考を生々しく伝えていておもしろい。断片だから、はじめから論理を追って理解しようと気張る必要がないので、読んでいても気楽だ。わかるところはわかるし、わからないところはわからないで、前後のつながりをまったく考えずに放り出せる。ニーチェも、必ずしもきちんと思考を詰め切れているわけじゃない。遺稿をまとめた未完の本で、「さっきと話がちがうような…」という部分もそこここに見られる。

 これが前世紀の末に書かれているというのは世界が進歩していないのか、それともニーチェの眼力が優れていたのか。キルケゴール『死に至る病』もアタリ・ティーネージ・ライオットの手にかかって『Sick to Death』として現代性をゴリゴリ発揮してしまっているし、おそらくは前者ではないか、という気がする。オウムも例の男の子も、このニーチェの思考に見通されてしまっている。



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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)