「脳とクオリア:なぜ脳に心が生まれるか」(茂木健一郎、日経サイエンス社)。魅力的なタイトルだ。人になぜ意識があり、心があり知能があるのかは、未だ謎である。人工知能的なアプローチは先が長そうだし、脳自体の研究の成果もまだ断片的で、認識や記憶の仕組みすらよくわからない。核心に迫るには当分かかりそうだ。そこへいきなり本丸の「心」についての理論! 「なぜ脳に心が生まれるか」! それが \3,200! 徳間じゃなくて日経サイエンス社から出てるんなら、そこそこまともな本だろうし……
が、まるっきり期待はずれなんだ、これが。「なぜ心が生まれるのか」は結局説明されないばかりか、その見通し仮説すらろくに出しやがんねぇ。JARO に言いつけるぞ!
「クオリア」というのは、人間がいつも感じている、ことばじゃ表現しきれない生々しいアナログな感覚のこと。それを「『神経細胞の活動から説明することが、心と脳の問題の核心である』とみなすべきだ」と著者は主張する。「それが心と脳の問題を結ぶ突破口だ」と。
はあ。で、なぜ?
確かにこの「クオリア」とやらを説明できたらおもしろいだろう。でもそれが核心で突破口だとは?
著者はそれをまるで説明しない。著者がそう思ってるだけ。じゃあ仮説なら、これを仮定すると何かすっきりした見通しがたつのか? そういうわけでもないんだな。で、続いて認識のニューロン原理ってのが出てきて、あらゆる認識はニューロン発火状態のパターンだけで説明できなくてはならないという。これは「その後にはペンペン草一つ生えない」くらいすごい破壊力を持つ原理だそうな。でも、これは証明もされてないし「革新的なポテンシャルがまだほとんど実現されていない」。実現されてないどころか、それで何が説明できるのかも全然まとまらず、著者がすごいすごいと繰り返すだけ。
だいたい、そこに外部の物体との対応関係も考えるなとゆーんだ。バラを見て「バラだぁ」という発火パターンが脳の中でできる。でも、それをバラのパターンだと呼ぶと、神経発火パターン以外にバラという外部の物体の存在を仮定しているから(そして両者を対応させる外部の観察者を仮定しているから)ダメなんだって(説明は単一のニューロンについてだけれど)。
しかしそれができなければ、「ある発火パターンはある発火パターンだ」としか言えない。ぼくの今の脳の状態をパターン A とし、一方でランダムなパターン B をつくる。Aは認識があって、B は認識がないと言えるか? あるいは、パターン A を少しずつ刈り込む。ニューロン 10 個や 20 個取り除いても、ほぼ同じ認識があるといえるだろう。しかし、半分にしたら? 1/4 にしたら? どこまで認識はあるのか? 茂木の議論だと、最後にニューロンが 2-3 個になっても、発火パターンがあればそこに何らかの認識があると言うしかないのでは? そしてそれを実現する生化学的プロセスも関係ないとかれは言う。するとそれをコンピュータで表現できれば、そこに認識があることになる。そうか、この人は強い AI の立場なのか……でもしばらくすると、ニューロンにしか意識はなくてニューロンは特別、と言い出す。
次の「認識のマッハ原理」も、「きわめて正しいし深遠」なんだそうだが、いまのところ何の証拠もなく、著者のお気に召さない(しかしそれなりに有効な)反応選択性説が排除できるという以外のメリットは提示されないまま。
万事この調子。何か実証されたわけでなく、理論的なフレームが明確になるわけでもない。前のほうで仮説だったものが、後半ではいつのまにか確立した原理扱いされるし。
いくつかの主張は、まあ同意できる。むかしこの欄でも書いたけれど、意味論をちゃんと考えないとダメなんだ、というのはその通り。でも本書は「考えてないから従来の理論はダメ」と繰り返すばかりで、かわりに勝手な前提と憶測に大仰なレトリックをつけて、しかも結論はすべて「まだこれから」。
唯一「相互作用同時性の原理」ってやつはいけるかも。意識における時間のありかたを、神経の情報伝達速度から考えよう、という議論はすごく興味がある。ある幅を持った「現在」が重なりつつ動く、という議論もいい。でもそれもまだ思いつきだな。
全編を覆う自己陶酔したレトリックもなんとかならないものか。終章なんかすごいよ。大英博物館でギリシャのケンタウルス像を見て「生涯で最大の衝撃と出会った」そうな。「(この)彫像を見るたびに、何か言いようのない深い感動を覚える(中略)ある深遠な真理への予感をこれらの彫像に感じるのだ」
はあはあ。で、どんな真理? それが本書とどう関わっているの?
曰く。「彫像が私の胸に語りかけてくるものは、いったい何なのだろうか? 残念ながら、私はそれをまだ言葉にすることができない」
あのなあ……「いったい何なのだろうか」って、てめーが勝手に感じといて、そんなこときかれたって知るかあっ! ものを書く人間が「言葉にできない」とか嬉しそうに言ってんじゃねえ! なんで脳と心の本で、こんな駄作文を読まされなきゃなんないんだ! 「ケンタウルスの彫像は、想像もできないような新しい知の世界へと、私を誘っているように思われて仕方がないのである」って、思ってればぁ? 根拠なく勝手な思いつきを得意げに並べるのは健在。で、「心と脳の関係を求める知的探求の旅、これほど、人間にとって意味深い、そして高貴な営みがあるだろうか?」あるんじゃねーの? 飯喰うとか子供生んで育てるとかさ。たかが脳科学がそんなえらいと思いなさんな。御説では、しょせんすべてはニューロンの発火でしょ?
まったく困った本だ。著者が「高貴」な広く大きな志を持っているのはよーくわかった。が、それを出すのなら、何か裏付けや理論体系ができてからにしてほしい。編集者はまったく何をしてたんだい。全体で無意味な部分が多すぎる。冒頭の神経伝達物質の解説なんか、何の役にもたってない。くだらないかっこつけだけの終章も不要。削ってやれよ。今の 1/3 の分量で、ペンローズの『皇帝の新しい心』解説書にして、それにちょっと茂木説を足すくらいにしときゃいいものを。または断想集にして、\800 くらいで出せばよかったのに。それをいきなり、まだ中身もかたまってないのに、おだてて大風呂敷を広げさせるから。
本書のテーマは、おもしろいし重要なんだ。それぞれの仮説は可能性がなくもなさそうだし、なるほどという部分もある。たぶん著者は、それを全部つなげた果てに浮かび上がる理論体系をすでに感じているのだろう。うん、それがモノになったらすごいだろうね。そう思うからこそ、むかつきながらも取りあげたんだけれど、でもこれじゃダメなんだ。思いつきを並べるだけなら、ぼくの書評でもできる。でも、それだけじゃ科学になんないんだ。たとえ一般向け通俗科学解説書であっても。Do your homework! 次回作には、まだ一応期待しときます。が、仏の顔もなんとやら、ですぞ。
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