Valid XHTML 1.1! リバーズエッジ 連載第?回

まだ見えない「平坦な戦場」としての日常:または、岡崎京子許すまじ。

(『CUT』1996 年 2 月)

山形浩生



 ふられて安定しない。だから読む本聞く音楽見る映画喰う食べ物飲む酒なんでも、全然起伏がないか、変に過敏に迫ってくるかなので、今はいろんな印象をかなり割り引く必要はあるけど、それにしても岡崎京子は許しがたいと思う。

 『リバーズ・エッジ』(宝島社)みたいな代物を描いてしまうやつは許せないと思う。

 なんだ、これは。この異様な構成力。さりげない物を介したショットのつなぎ。ゴダールみたいなフレーズの挿入。テーマの深み。なんだ、これは。セイタカアワダチソウの生い茂る、おれの多摩川の河原みたいな川っぷち。そこで棒で殴り殺したネコ。川崎側の対岸下流に見えた、石油化学工場のガス抜き炎と煙。流れ込むどぶ川の淀み。昔住んでた砧の団地。なんだこれは。自分の風景と共鳴するこの感じ。向こうで起こってる話を外から観ている感じじゃない。まるっきしの映画。この、目玉のまわりにページが巻き付く感じ。なんなんだ。

 今の精神状態のせいじゃない。この本は一と月前に買って、ずっと会社の机の上で事業収支だの床需要予測だのリスク評価だのに埋もれてて、正月には家に持って帰って、その間読む度にそうだった。「あたしはね、“ザマアミロ”って思った / 世の中みんな キレイぶって ステキぶって 楽しぶってるけど ざけんじゃねえよって / あたしにもないけど あんたらにも逃げ道ないぞ ザマアミロって」ってとこが好きだ。拡大コピーして、机の前に貼ってある。「かしこぶって 利口ぶって 能書き垂れてるけど ざけんじゃねえよ」。そう言われてる気がする。

そうなんだ。なんかそうなんだ。できる限りのことはしてるけど、でも、ホントに確信の持てないところでばかり仕事してんだ。頭でっかちに理屈で仕事してんだ。そうは言っても理屈こねるのが仕事なんだけど、でもなんかちがう。『リバーズ・エッジ』を読むとそういう気がする。こういう突き抜けた確信が欲しいんだ。本業に限らず。愛。すべての仕事は愛だ、と岡崎京子は言ってる。ちなみにここでの愛とは、恋愛感情とは全然別物。「仕事はすべて愛」。とてもそこまで断言できない。でも『リバーズ・エッジ』は、この点で見事なまでに迷いがない。仕事はすべて愛。そう言い切れるだけの自信が、余裕たっぷりの伏線の張り方から小道具から、すべてにみなぎっている。すげえ。

「死もセックスも愛もすべて等価な透明な『無』のなかで再生される私達の新しい『リアル』」というのが帯の惹句だけれど、これはちょっとちがう。愛だけは水準がちがうのね。透明な『無』というか日常の中で、セックスもあれば死もあるし、恋愛沙汰もある。でも、その先に到達できずに、不安と焦りと諦めの中で日々を生き流している。登場人物はだれもはっきりとは意識していないけれど「その先」に何か水準のちがう、もっと重要なものがある。「愛」としか呼べない何か(個人的には、最近上司が得意げにこのことばをふりまわすので、非常に抵抗あるんだが)。それを主人公が認識するところでこのマンガは終わる。「なんでも関係ない人」だった若草ハルナが、関係なくはないのかもしれないと悟るところで終わる。ついでながら「なんでも関係ない人」という深い重要な一言が、何の説明もなしにあっさり投げ出されて、読み手の意識に引っかかりを残しながら沈んでいく絶妙さ。

 とはいっても、たとえば大島弓子があっさり愛を描けるようには、岡崎京子は愛を描け(か)ない。登場人物のだれ一人として、愛にたどりつきはしない。ストレートに「これが愛!」と描くことで、大島弓子のマンガはいつもファンタジーっぽい非現実性を持っちゃうけれど(それでも/それゆえに彼女のマンガはすてきなのだけれど)、岡崎京子のマンガに充満するのは愛でないものばかり。ああでもない、こうでもない。あそこにもないし、ここにもない。それが彼女のマンガのリアルさだったりする。愛はふとたちのぼってくる気配でしかない。それはライターや、いっしょに歩くことや、そういうものを媒介に、かすかに、かすかに「ある」。あったかも知れない、と言うべきか。いや、あり得たかもしれない?

僕らの短い永遠。
僕らの愛。

 この世界もそういうところなのだ、といいたいところだが、わからん。ぼくにはそういう気配すら感じられないことが多い。ぼくにとっての世界って、もっとスカスカな存在だもの。でもそう描く『リバーズ・エッジ』はいちいち説得力を持って迫る。この風景、この世界、この愛(の不在/存在)。この確信。

 平坦な戦場でぼくらが生き延びるための。

 こういう、一歩まちがえば嫌みな文学趣味になりかねない、ウィリアム・ギブスンの詩の挿入なんかも、ほとんど決まりすぎだ。これは決して気取りやこけおどしでそこにあるんじゃない。平坦で、何も起きないかのような日常の中で、一人の戦死者があらわれたときにこの詩が挿入される。平坦な戦場。何も決定的なことが起きていないようなのに、いつしか死が準備されてしまっている、日常という戦場。「惨劇はとつぜん起きる訳ではない そんなことがある訳がない それは実はゆっくりと徐々に用意されている/進行している アホな日常/退屈な毎日の/さなかに」。岡崎京子自身のこんな言葉と共鳴しつつ、ギブスンの詩が戦死者を見おろしながら、それを悼むようにしてそこにたたずんでいる。

 平坦な戦場。「ごらん、窓の外を。全てのことが起こりうるのを」。おれはとてもそこまで厳しく日常を見て/生きてない。そんな透徹した認識は全然獲得できていない。日常を日常だとすら思わず、なんかそういうものだと思って日々を送っている。「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」。そんなことまるで考えずに、なんとなく生き続けているだけ。

 許しがたいなあ。これだけの完成度、これだけの深みと広がり。これだけの認識。こわいくらい。しかもまったく煮詰まった感じがない。大傑作。妬ましい。おれは 32 近くにもなって、まだ何もできてないというのに。岡崎京子と同じだけの年月を生きてきたのに、まだどこにも到達できていないというのに。こっちが全然確信を持てていないところを、岡崎京子はとっくに踏破してそこから次のレベルに進み出している。本気でやばいじゃないか。これが世に出る頃には、まず感情の整理くらいはついてるだろうか。ちくしょう。シャンプーと KMFDM とニルヴァーナを交互に聞くと、とりあえず元気は出るけれど、そんなレベルじゃなくてもう少し、何か……何か……。もどかしくて手をふりまわしてはみるけれど、それはまだ一向に形になって現れてはくれない。


 遅くなりました。2600 字ちょいで、短めですが、こんなもんで。『日出ずる処の天子』について書いた時ほどは整理されてなくて、まだまだ混乱してますね。あと「ふられて云々」というあたりは、たぶん出る頃には後悔するだろうなあ。まあいいや。
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