Valid XHTML 1.1! 監獄都市 連載第?回

都市に生きる人たちと、都市を読む人。

――『恋する惑星』&『監獄都市』のこと

(『CUT』1995年10月)
 
山形浩生



 『恋する惑星』は、それはそれは素晴らしい映画で、見ていて涙があふれてきて、「情けないなあ、もう映画なんかで涙を流す歳でもあるまいに」と思いつつも終わってからはもう満面ニタニタで、ぼくは有楽町の駅に向かったのだった。昔の同僚が、同じ監督の撮った『欲望の翼』の大ファンで、何かというと「山形さん、ぼくはあの映画、すっごい好きなんです」と目を輝かせて、二人でひたすらうなずきあってたんだが、そいつを連れて香港に行ったときに泊まったのが『恋する惑星』の舞台になった重慶マンションだったっけ。
 その後、そいつは会社をやめてドミニカに行ってしまったけれど、そういえばそろそろ日本に帰ってくる頃だな。おーい、江森よ。王家衛はまたすっげえ映画をつくったぜ。なんと言ったらいいのか、出てくる連中が日本のくっせえドラマみたいにストーリーの中で自己完結してないで、その外の都市の空気みたいなのを抱えこんでるのが伝わってきて、すごく気持ちいいんだ。まるで自分の意志より、都市に動かされている感じ。原題『重慶森林』。おれもおまえもよく知っている、あそこの話。いつかまたいっしょに行こうぜ。そう思いながら、ぼくは翌週、再び『恋する惑星』を見に行ったのだった。

 その間にぼくが読んでいたのは、大室幹雄『檻獄都市』だった。大室幹雄が 15 年かけて書きついでいる、『劇場都市』に始まる大シリーズ「歴史の中の都市の肖像」最新刊だ。

 このシリーズの冒頭で大室は書いている。「日本の歴史は都市という現象にたいして比較的鈍感に無自覚であった」と。以来数千ページ、かれは過去数千年にわたって支那に栄えては衰退していった都市たちを読み紡いできた。そしてそれを読むぼくらは、一ページごとにかれの看過した己の「無自覚」ぶりを見せつけられ続けてきたのである。

 都市を読む。そう名乗る気楽な試みはいくらもある。だが、大室がろくに資料もない古代の都市から読みとってくる代物のスケールと深みと迫力にくらべれば、それらのなんとせせこましく浅はかなことか。都市を読む! 「読む」だって! 大室幹雄にあっては、視界はほんの道ばたの石ころや水呑み百姓どもの農耕風景から、いきなり全世界をつらぬく宇宙論にまで飛躍する。一編の詩に、都市の根幹をなす原理が読まれ、逆に巨大都市の形態が、個人の心の歪みの証左とされる。あるときは統計、あるときは物理的な構築物にもとづく分析、そしてあるときは、ほとんど文芸的なレトリックに任せた自由闊達な想像。人々の生も死も、権力遊技も愛憎も、経済も歴史も日常も戦争も、次から次へと目の前を横断し、読む者に休む暇すら与えない大スペクタクルと化す。「読む」! これが読むことなら、ぼくなんか文盲同然ではないか。

 最新刊『檻獄都市』で、唐の長安と則天武后の洛陽を舞台として読みとかれるモチーフの一部を見てみよう。青春と政治、戦争と馬、歴史創作、革命とテロと粛正、秘密警察、拷問と人肉食、遂鹿と富貴、至福千年とカルト。このわけのわからないモチーフ群のごった煮のなかから、ぼくらがかつて小学校でならった、あの遣唐使だのの行き先としてしかおぼえていない長安だの洛陽だのという都市が異様なリアリティとともにつきつけられる。

 本書でもそうだし、このシリーズすべてに言えることなのだけれど、大室の世界に登場する人々は、皇帝(それもごく一部の)を除いて「自由」なんてものは持ち合わせてはいない。観念と、同じことだけれど歴史と、似たようなものだが都市につき動かされて生き、死ぬ。『恋する惑星』の登場人物たちが、値踏みやさぐり合いや出し惜しみのプロセスをいっさい経ることなく出会って恋に落ちるように。あるいはスクリーンを眺めているぼくらにそう見えるだけで、現実にその場を生きていた人々には、そんな意識は皆無だったろう。だがそれでも、結果的に人々は、与えられた役割を、与えられた器の中で精いっぱい演じては消えるだけ。『恋する惑星』のように、それはだいたいにおいてもの悲しく、いとおしく、まれに美しくさえある。

 大室はそれを感じられる感受性は持ち合わせているのだけれど、でもいつもの彼の文はそれをおくびにもださない。市井の人々が死のうと苦しもうと同情のかけらもない酷薄なまでの筆致、創造と殺戮と暴虐と破壊の限りを尽くす、絶対専制君主たちに示されるファンじみた陶酔、食人や拷問の楽しげ(!!)なディテール描写。大室の書きっぷりは、わざとらしいほど反道徳的で、非人間的ですらある。「なぜなら歴史は道徳の教科書ではないからだ」と大室幹雄は言い放つだろう。
 にもかかわらず、たまにちょっとした風景や詩の一編などに示される、ほとんど感傷的なまでに深い審美眼が、その酷薄さを裏切ってときどきポロリとこぼれてくる。その対象となった世界が、遥か遠い時空間の中におかれているという事実と感触だけが、かろうじてそれを無用なべたつきから救っている。だからたまに、その距離の助けを求められない現代の事象に目が向くと、妙に生やさしく甘ったるくなるのはつらい。

 でも、いずれぼくは、かれが時間的距離の助けを借りず、同じ酷薄さで現代の中国都市を解読してほしいな、と思う。北京、上海、そして何より香港を。

 一度だけ大室幹雄と会ったとき、かれはこう語っていた。「いずれ毛沢東革命と、現代の評価をしなくてはならないでしょうね」と。それをこのシリーズの続きでやるつもりなのか、それとも別の仕事としてやるつもりなのかは聞き損ねた。

 だがもしこのシリーズなら、それはいつの日になることか。ぼくらは大室につれられて、十五年かけてやっと漢の時代から唐に至る千年ほどを踏破したにすぎない。あと千年以上の道のり。しかも読みとかれるのを待つ都市も情報も、ふえる一方。同じペースを仮定しても二十年近く。そのときぼくは、そろそろ五〇歳にならんとしている――こう考えた瞬間、ぼくは叫びだしそうになる。待てない! 五〇なんて、実質的に死んだも同じだ! おれにはもう時間がないんだ!

 だがそれだけ待っても、いつか香港という都市だけは読み説いてみてほしいのだ。中心もなく、城壁もなく、宇宙論的な裏付けも(一見すると)なく、ひたすら商業性のみによって成立しているらしき、この都市の解読。それはたとえば、今の北京を読み解くのとはまったく別の視点を必要とする作業であり、「歴史の中の都市の肖像」シリーズで彼が使ってきたツールでは用が足りないのではないかと思われるのだが、どうだろう。ぼくにはとても断言する自信はない。その作業が実現されるときには、もはや香港という街も今のような形では残っておるまい。
 でもその時もこの『恋する惑星』は変わらずにそこにあって、ぼくらがこの映画から得る喜びも、たぶん大室の解読の助けでちょっとだけ深くなっているかもしれなくて、そして何度観ても、ぼくはやっぱり泣いてしまうだろう。そんな本であり、そんな映画だ。



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