Valid XHTML 1.1! Thirteen Stories and Thirteen Epitaphs 連載第?回

『十三の物語と十三の墓碑銘』。

(『CUT』1994 年 10 月)

山形浩生

 拳銃を撃ったことがあるだろうか。拳銃は妙に抽象的な武器だ。引き金を引く、銃声がひびく、手元に反動がくる。そしてふと見ると、向こうの的に穴があいている。剣道や、その他格闘技なら、技が決まるたびに確実な手ごたえがくる。弓道やアーチェリーなら、少なくとも結果として的にささった矢が見える。だが、拳銃にはそれすらない。弾が的に当たっても、何のフィードバックもない。さっきの銃声や手元の反動と、向こうの的の穴とは、頭で考えないと結びつかないのだ。

 もちろん二、三百発撃つうちに、いちいち考えなくとも引き金と向こうの穴とは自然に結びつくようになる。が、それまでは、五十発くらいで引き金を引く指が動かなくなるたびに、手の中の拳銃を見つめて考えこむことになる。ああやって的に穴があいたように、あっさり人にも風穴が開いてしまうのか。素人が護身用に拳銃を持つ場合、威嚇射撃はありえない。引き金を引くときは、確実に相手を殺す決意がなくてはならない。だが、こんなにあっさり、何の手ごたえもなしに殺せてしまうのか。

 タイやマカオやフィリピンの売春宿をご存知だろうか。丸い番号札をつけ、ビキニ姿でくねくね踊る女の子たち。ガラスの向こうで明かるい照明に照らされて並び、薄暗い中でウロウロ品定めをする客たちを無表情に見つめる女の子たち。「あの子はどうだい、今日はまだ客を取ってないからフレッシュだよ」と店員が客の間をまわる。

 緊張していたのと、それと性病防止に先輩がくれた薬のせいもあったと思うのだけれど、どうも調子が出なくて、だからマッサージしてもらったり、一緒にテレビを見たりしてゴロゴロ駄弁っていた(結局やったけど)。共通語は片言の英語と、英語よりは上手な日本語(タイは特にそうだ)だけで、大した意志疎通もできず、名前だとかどこから来たとか、そんな話を苦労しいしいするうちにテレビにドラエモンが出てきて、彼女はそれを指差してはケラケラと何の屈託もなく笑いころげて「ドラエモン!」と連呼するのだった。ぼくはわけがわからず、つきあいで笑ったりしていたのだけれど、後でお茶を飲みに行っても、彼女は同僚とタイ語で「ドラエモンがどうのこうの」と、本当に楽しそうにケラケラとおしゃべりをしている。ぼくは、その彼女の同僚とことに及んでいた友人と顔を見合わせて、こいつらは一体何を考えとるんじゃ、何がそんなに嬉しいんじゃ、と戸惑って目くばせを交わすのだった。

 「ドラエモン」に別の意味があるのを知ったのは、ずいぶん後になってからだ。

 ベトナムやペルーなんかの道路を知っているだろうか。そこでは日本からの中古車が、「さくら幼稚園」だの「トヨタ自販浜松」だのと、昔のロゴをつけたまま活躍している。都市間移動の長い道中でぼんやり外を眺めていると、次から次へとそういう中古車が目に入る。海を越え、こんな遥か彼方の地で、この車たちは何を見て来たのだろう。故郷から遠く離れ、黒い排気ガスをあげるほどに酷使されて、車たちは幸せなのかしら。週末たまに乗られて渋滞でくすぶるのが関の山の日本の乗用車に比べたら、むしろとことん使われるこちらのほうが、機械として本望なのかしら。むろん当の車たちは、そんな暇な感傷など知ったことではなく、黙々と走り去り、二度とぼくの前に現われることはない。それでぼくは、妙に物悲しくなって寝てしまう。

 こんな経験はあるだろうか。自分のいるところが何かしら欝陶しく、ふと気がつくと周囲から妙に浮いた自分が見えてしまって、どうにも居心地の悪い日々が続くのだ。それで香港が好きだとかニューヨークは精神に適度の緊張があっていいとか、あるいはモスクワが面白そうだとか、勝手な理由で勝手なところに出かけるのだけれど、期待と不安の入り交じった最初の数日が終わり、現地になじんでくるにつれ、その地に住み、働き、はっきりその地に所属している人々と、なんら生産的な活動を行なわずに金を落とすだけの自分との溝が、深々と感じられてしまうのだ。おれはいったいここで何をしているんだろう。それはホームシックともちがう、ただ自分の居場所はここではないという居心地の悪さで、それは困ったことに、故郷で感じていたあの居心地の悪さとまったく同じだったりする。旅行ばかりしている人の一部は、こうした居心地の悪さに追われて旅をし、それに追われてまた帰ってくるのだ。いつしか、離陸した途端にその居心地の悪さが追いついてくる。おれはいったい何をしてるんだ。どうせまた同じことの繰り返しなのに。やがて時計を現地時間にあわせる手間すら省くようになって、ある時ふと旅先で思うのだ。ああ、日本はいま朝か、と。

 それなら『十三の物語と十三の墓碑銘』は忘れ難い小説となるだろう。描かれた物語は身に覚えがなくとも、そこに漂う雰囲気は不思議に懐かしく切ないものであるはずだ。ウィリアム・T・ヴォルマンは、こうした感傷を多くの作品にぶちこんできた。さまざまな場面で迫ってくる、わかるようでわからないものへの戸惑いと、そうした存在に対する愛おしさ。手が届きそうで、でも決して届かない土地や人々への愛憎半ばする不思議な執着。中でもそれが一番素直に出たのが本書だ。そしてあなたはこの感触を知っている。

 ウィリアム・T・ヴォルマン。弱冠三十で人を殴り殺せるくらい分厚い小説を機関銃のように量産し、世界中の娼婦やスキンヘッド、アメリカ先住民など周縁的な存在ばかりを好んでとりあげる。アメリカ小説の若手一番のホープとされ、評論家どもはその対象故にモラル欠如を非難し、裏の世界への執着故にウィリアム・バロウズと比較し、その表面的テーマの猥雑さと作品の物理的ボリュームの大きさ故にトマス・ピンチョンと比較する。みんな何もわかっちゃいない。かれの小説の本領は、この先輩作家たちとはちがう、もっとプライベートな感情のひだにある。小説の舞台こそアメリカ都市からカンボジアの娼館から、グアテマラのジャングルからアフガニスタンの戦場へと世界を股にかけるけれど、それは重要であって、実は重要でない。重要なのは、見え隠れする著者の個人的な心の動きだ。舞台を大きくして話のスケールを拡大する舞台設定だけで大作家だと誤解されているけれど、かれはむしろマイナー作家の資質を強く持った人だ。ちょっと念頭に起きつつ読んで欲しい。わかる人にはわかる。実もふたもない言い方だけれど、マイナー作家というのはそういうものだ。

 本書はすでにK社より邦訳が決まっている。だれが訳すのかは知らないけれど、おそらくはヴォルマンの邦訳第一作となるだろう。マイナー作家の常として訳者を選ぶ作家なので、日本の読者のためにも、「わかった」翻訳になっていて欲しいな、とは思う。そしてできるなら、サンフランシスコという街を体験してから読んで欲しいな、と思う。あれは不思議な街だ。アメリカ人の多くはこの街の名を耳にすると、遠くを見るような、懐かしそうな目つきになる。「サンフランシスコか……いいとこだよね」本書はこの街から始まり、そこから逃れようとして逃げ切れず、奇妙な場所に入り込んで終わる。

 あなたはサンフランシスコをご存知だろうか。

CUT 1993-1994 Index YAMAGATA Hirooトップ


Valid XHTML 1.1! YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>