Valid XHTML 1.1! Virtual Light 連載第?回

これはウィリアム・「ニューロマンサー」・ギブスンではない。

空間感覚作家の新作は世間の期待を大きくはずしたが……

(『CUT』1996 年 2 月)

山形浩生



 みなさま、右手をご覧ください。白黒写真だとたぶん一面真っ黒になってしまって、何が何やらわからないとは存じますが、こちらがかのサイバーパンクの覇者、ウィリアム・ギブスン話題の新刊、『バーチャル・ライト』でございます。ぼんやりと人間の顔が表紙に描かれているのがご覧いただけますでしょうか。著者名の下、タイトルをはさんで二本走っております線は、その顔がかけているサングラス状のものの輪郭なのでございますね。これが表題にもなっている『バーチャル・ライト』。目を経由しないで、視神経に直接働き掛けて映像を見せる装置でございます。

 この 8 月に出た本書は、刊行のかなり前から噂になっていた。もちろん小説としての期待もあった。が、主な期待は、もっと別のところにあったように思う。その原因の一つが、クリントン政権の目玉政策の、全米を結ぶ光ファイバー等による情報ハイウェイが実現間近になってきたことだ。「おお、電脳空間の夜明けは近い!」と気の早い人々は単純なノリで喜んでいるけれど、その情報ハイウェイをどう使うかについての明確なビジョンは、この期に及んでまだだれも持っていない。かつて同じギブスンの『ニューロマンサー』は、コンピュータ・ネットワークと超管理の支配する社会を見事にかいま見せてくれた(みんな、超管理社会のほうは見ようとしなかったけれど)。

 今回の『バーチャル・ライト』も、みんなの探している情報インフラの新しい利用形態について、アイデアを出してくれるのではないか。それに「バーチャル」とタイトルにつく以上、バーチャル・リアリティ(VR)が盛大に取り上げられると期待するのは人情だ。以前にもこの場で触れたが、現在の VR はテレビを目の前に二台ぶら下げて、あたかも CG 映像の中を歩いているような錯覚を与える技術である。派手に騒がれたものの、コンピュータの処理能力の限界もあって、ゲーム以外の決定的な利用法は未だに考案されていない。こちらについても何か示唆があるのではないか。だってギブスンは、以前にも VR の未来を扱った短編をロック雑誌『SPIN』に発表しているではないか。しかも『バーチャル・ライト』の舞台は 2005 年のカリフォルニア。いつともしれぬ未来ではない、すぐにも使える具体的な話が展開されるだろう。『バーチャル・ライト』を取り巻いていたのは、そういう期待だった。真っ先に本書の書評を載せた雑誌が、コンピュータ雑誌『Byte』だったのも、この期待のなせる技だ。

 ついでながら、ピーター・ガブリエルやデビッド・ボウイやトッド・ラングレンが CD-ROM に手を出したこと、そして例のビリー・アイドルくんの恥ずかしいアルバム「サイバーパンク」なんかも、この動きに華を添えていた。あのアルバムは、だれも誉めてあげる人がいなくてかわいそうだった(誉めるところがないのは事実だけれどさ)。「何でいまさらサイバーパンクなんですか?」というインタビューのたびに、ビリー・アイドルくんは得意げにパソコン通信してみせていたけれど、「キーボードをこわごわつつき」とか「右手の人差し指でポツポツと、慣れない様子でキーを拾っていた」とか、ろくな書き方をされてない。そのパソコン通信でも「落ち目の芸人がわけもわからずに見苦しい真似を」「下心見え見え」と、あまりに罵倒されるものだから、「どうしてみんなオレをいじめるんだ!」と泣き言めいた発言をポストしたら、それがつづり間違いだらけで、さらにバカにされるという不幸な状況。まあビリー・アイドルは”反体制””権力への反抗”が売りの人で、サイバーパンクという運動にそれを煽る側面があったのは事実だ。だから『バーチャル・ライト』には、かれが求める知的不良ハッカー体制反抗小説的な期待もあった。

 で、結果は? みんなとまどっている。バーチャル・ライト装置は、登場人物全員が追いかけるものではあるけれど、それ自体は大した役割を果たさない。ただの口実、マクガフィンだ。VR も出てはくる。単なる電話の一種として。ハッカーたちも登場はするけれど、「おれたちはすごいんだぞ」と言いつつ、現状に満足してセコい悪戯に終始するおたく集団にすぎない。つまりこの小説にはハイテクっぽい面がほとんどないし、”反体制”的ヒーローの活躍もない。ギブスンは外野の期待を(たぶんわざと)完全に蹴飛ばしたのである。

 主な舞台は、金持ち用超超高層ビル地区と不法占拠スラム地区(これは九龍城砦がモデル)とに完全に二分された、2005 年のサンフランシスコ/ロサンゼルスという都市だ。その中を、主人公の元民営警察官と自転車バイク便配達が疾走する。ストーリーは、くだらなかったことしか覚えていない。でも、構わない。かれは物語作家ではなく、空間感覚作家なのだから。かれの力点は、そもそもストーリーにはない。街が真の主人公なのだ。

 金持ちたちの住む、清潔きわまりない閉ざされた住区の、空港や病院のような生活感のない白々とした雰囲気。古い吊り橋に三次元的に群がり、細い階段やエレベータや通路で結ばれた不法占拠の建築群がつくる、カスバめいた巨大構造物内の密集感。両者のコントラスト。高級アパートから見える巨大スラムの全貌と、スラムから眺めた「向こう」の都市の姿の交錯。おざなりでつまらないストーリーを蹴倒して、残るのはこうした場所の雰囲気だ。思えばこの空間感覚伝達力こそが、あの「電脳空間」をあんなに魅力的に見せていたのだった。これはあなたの期待しているウィリアム・「ニューロマンサー」・ギブスンではないだろう。でも、間違っているのはあなたの期待のほうだ。ある意味で、本書は最もギブスン的な小説と呼べるかもしれない。それが面白いか、ときかれれば、ぼくはYesと答える。地味だけどね、と付け加えながらも。邦訳は 2,000 円以下なら「買い」だろう。

 余談だが、ニール・スティーブンソンの『スノー・クラッシュ』という変な小説でも宅配人が主要キャラで登場する。本書のアメリカは製造業の空洞化が極限まで進み、残された産業は、映画とロックとソフト開発と、そしてピザの宅配(!!)だけ。主人公の主人公浩生(だってそういう名前なんだもの)は、イタリア・マフィアの仕切る(配達時間が30分を超過した配達人は殺されてしまう)ピザ・チェーンの精鋭配達人なのである。ローラースケートで他の車に小判鮫して移動する、文書宅配の女の子も活躍する。宅配システムの何が作家たちの琴線に触れるのか? つつくと何か出てきそうだけれど、これはまたいずれ。

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