(『CUT』1993 年 4 月)
山形浩生
まるで横溝正史のオドロ小説みたいなタイトルの今月、ぼくはあまり機嫌がよくないのである。三十近くにもなって、そろそろおれも立派に世の中に適応した一人前の社会人かな、と思っていたところへ、自分が畸人変人の類であることが定量的に証明されてしまったのである。しかも、この話をしても、まわりのだれも意外そうな顔をしてくれない! ふん、世間ってそんな目でおれを見てたわけね。よーくわかった。そんなわけで、非常に機嫌がよろしくないのである。
だいたい、世の中に奇人変人の研究などという暇な稼業で飯を食えるやつがいるのが悪い。「エクセントリックス」は、そういう暇な人々が書いた、奇人変人の心理学的な分析である。巻末には、何と奇人変人度を測定するためのテストがついているのだけれど、面白半分に手を出さないほうがいい。ぼくみたいに胸クソ悪い目にあわされるから。
この「エクセントリック傾向自己判定テスト」によれば、ぼくのエクセントリック度は77点。これは文句なしにエクセントリック群に分類される得点であり、エクセントリック群(変人集団)の平均点 78.8 点とほぼ一致している。そうだったのか、おれってごく平凡な奇人変人だったのか。自分がちょっとは変わっていても、せいぜい一般人のちょっと極端なくらいの位置づけだろうと思っていたのに。まさか奇人変人の標準だったとは。
しかもこのテスト、世の「XX度チェック」といったウケ狙いのいいかげんな代物とはわけがちがう。奇人変人の名産国イギリスで、「我こそは変人」と自ら名乗りをあげた選り抜きの奇人変人たちから、本物のキチガイを排除したうえで、因子分析による定量的な評価を加えてこさえたテスト。これはなかなかアヤをつけにくい。
とはいえ、世の中、凡人ばかりではなかなかうまくゆかないのである。多少は変なヤツがいないと、凡人だけでは目先の資源を食い尽くすだけで、すぐ滅びてしまうのである。これはタラ漁問題とかいう名で、数学的にもモデル化されている。魚の群れがあちこちに出没する漁場があったとしよう。さて、漁師が全員常識人だと、みんな「確実に魚がいるところに船を出そう」と考える。結果的に、みんな一ヶ所に集中してそこの魚をとり尽くし、そのまま手詰まりでジリ貧となるばかり。なんか今の日本の車や家電業界の話みたいでしょ。でも、そこに偏屈な、他人と違った行動をとりたがる漁師を適度に混ぜておくと、かれらが新しい漁場を見つけてくるのだ。この偏屈たちは、普段は冴えないけれど、たまに新規漁場を見つけたときには大ヒットをとばす。かれらのおかげで一帯の漁師たちの水揚げ高総計は、著しく向上する。こんな具合に、多少の変わり者は、群れ全体を救うのである。奇人にも、多少は存在価値がある、はずなのだ。
だから、いまの日本で多くの企業がやっている、不況だから不採算部門を切るとか、モノになる確証がない新規プロジェクトは取りやめるとかいう方針は解せない。だいたい、しきりに言われる「在庫調整期間」ってやつがよくわからん。うちの会社にゴロゴロしてる経済屋の説明を何度か聞いたけど、それでもわからん。黙って寝ていると、いつの間にか在庫がはけて、いつの間にか不況が消えるかのような、なんかそういう話に聞こえるのだけれど、もう少しマシな能書きはあるんだろうねぇ。「手堅く、手堅く」ばかり言ってないで、不況だからこそ変な連中の変な思いつきを泳がせるほうがいいんじゃないかしら。例の常温核融合ってのはたちの悪い冗談だと思うけれどさ。
それはさておきこの書物、奇人たちの奇行をおもしろおかしく描いたような、軽い読み物ではない。数字もバンバン出てくるし、因子分析の何たるかについて多少の知識がないと、話についていきにくい。また、数値データが多いので縦書きでなく横書きの本にしてほしかったし、表やグラフは今の10倍くらいに増やしてくれないとわかりにくい。分析にも文句がある。たとえば「エクセントリックス群に属する人は長男長女の割合が多かった」という分析があり、なぜ長子がエクセントリックになりやすいか延々と考察されてる部分があるのだけれど、出生率の低い先進国では、そもそも人口のほとんどが長男長女なんだから、これはあまり意味がなかろう。それに最後のテストについても、「テストの得点とエクセントリックさとの間には強い正の相関 (r=+0.55) がある」と言うけれど、その「エクセントリックさ」って、どこから出てきた指標なんだ? これについては何の説明もない。
自分が実は変人ではなかろうかと思っている人は必読。だが、文句はまだあって、本書の基本的な結論は「エクセントリックたちのほとんどは自分一人のヘンテコな確信のなかで孤独に決然と生きる、無害な愛すべき存在だから大目にみましょう」というものだ。これはつまらない。そんな尊大でのんきな態度をとられてたまるもんか。社会における奇人率がどのくらいならば生産的なよい社会になるのかとか、奇人を増やすにはどうしろとか、増え過ぎたらどうやって駆除しろとか、もっと積極的な議論があればすごかったのに。それと、なぜ現実の奇人たちが、映画に登場する近所のマッド・サイエンティストとはちがう、ある種の不気味さを漂わせている(場合が多い)のか。そこらへんの考察がぬけているのが、本書の突っ込みの浅い点ではある。
たとえば、こうした奇人たち、ちょっと奇妙な思い込みに囚われた人々がまわりに無数に発生していて、しかもいつの間にかその人々が、その奇妙な思いこみを媒介に組織化されていったら。それが自分のまわりいたるところに張り巡らされ、自分もまた、その奇人たちの網に逃れようもなくからめとられ、奇人化していったら。トマス・ピンチョン「競売ナンバー四十九の叫び」がそんな妄想じみた小説だ。そうやって、一人、また一人と奇人化する、それがアメリカであり、また広義にはわれわれの生きる世界だ、とピンチョンは語る。このほうが、なんだか実態には近いような気がする。変人度77のぼくのところには、まもなく喇叭のマークの手紙が届く。でも、ぼくだけじゃない。いずれ、あなたのところにもそれがくる。そうなったとき、もはや奇人たちはすでに愛すべき変わり者ではない、もっとおどろおどろしい存在となってたち現われてくる。何をするわけでもないけれど、いるだけで不穏な人々として。
それに出会ったとき、「エクセントリックス」の著者である心理学者たちはどういう顔をするのだろう。ぼくとしては、ぜひともそれを見届けてやりたい。だって、どうせ奇人ですもん。
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