Valid XHTML 1.1! ルビコンビーチクラッシュ 連載第?回

賽の河原 に 激突:20 世紀の不思議。

(『CUT』1996 年 2 月)

山形浩生



 翻訳業界の伝承の一つとして、訳者あとがきで下訳がやたらにヨイショしてあったら、名前を出している訳者は実際にはほとんど何もしていないと思え、というのがある。最近では、スティーヴ・エリクソン「ルビコン・ビーチ」(筑摩書房)が下訳ヨイショの典型で、訳者として名を出している小説家の島田雅彦が、あとがきで下訳者の谷口真理という人をしきりに誉めそやしている。島田雅彦はいったいどれだけ作業をしたのかしら、とつい勘ぐりたくなるのは、ぼくが下司だからだ。当初の予定では、今回は島田雅彦の文体と「ルビコン・ビーチ」訳書の文体を比較して、いかに島田が仕事をしていないかを定量的に立証できればおもしろいなと思っていた。なに、文体といっても、そんな大げさなもんじゃない。「彼」と書くか「かれ」とひらがなにするか、といった程度の話だ。くだらない揚げ足取りと言われればそれまでだが、こうした部分の積み上げが漢字/非漢字構成比なんかに影響を及ぼし、文体と呼ぶべきノリになるのである。

 残念ながら、今回その目論見は不発に終わった。明白な文体上の差を指摘するには至っていない。翻訳には原文ってものがあるので、翻訳者の文体だけを取り出して云々するのは難しい。島田は「何処」と漢字で書くことが多いのに対して「ルビコン・ビーチ」では「どこ」と開いてあるけれど、これだけで結論は出せない。

 とはいえ、島田雅彦ならでは明白な特徴も見いだせない。訳は愚直なほど原文ベッタリで、これといった特徴がない。翻訳が原文べったりなのは当たり前だ? いや、そうじゃない。そうじゃないからこそ、わざわざ小説家を雇って慣れない翻訳なんかさせてみるわけだ。その小説家の語り口で、その原作者の世界が描き出されれば面白かろう、というのが魂胆なのだ。むしろ、原文からどれだけ逸脱するかが、こうした翻訳の醍醐味だ。その意味では、島田雅彦を起用した効果は、実質的にほとんどなかったようだ。せいぜいかれの知名度が若干売上に貢献する程度だろうか。それがかれに支払われる報酬とどこまで見合う貢献かは、筑摩書房の心配事である。

 もっとも、なまじ島田化されなかったのは幸いだったかもしれない。エリクソンのねっとりした世界が、斜に構えた島田雅彦の文体に向いているとは思えないからだ。スティーヴ・エリクソンの邦訳は「黒い時計の旅」(福武書店)に続いて二作目。いずれも、圧倒的な存在感を持つ平行世界が展開される傑作だ。「ルビコン・ビーチ」を覆う「アメリカ」は、島田雅彦の小説のような、今この日本を戯画化しただけの矮小な世界とはまるでちがう。願望充足的なもてなしのいい国でもなければ、思考実験的なエクストラポレーションでもない。この世のかけらもない世界、あるいはこの世とディテールしかちがわない世界が、次々と目の前に現れては遠ざかる。
 そこに生きる人々は、島田雅彦の頭でっかちの登場人物とはちがって何も考えない。ワタシはこの社会が気に食わないんですがね、なんてつぶやいてみせたりもしない。その世界に生きる業を背負って、精いっぱいに生きるだけ。われわれがこの世で生きるように。どこに落ちつくこともできない人々の、夢であり現実でもあるような意識の風景。そのかれらの意識が、最後にこちらに向かって解放される。本書の最後の一文は誤訳だ。原文には最後の句点はない。この世界に決して帰属できなかった男が最後に見る光と声が、何を歌うのかをわれわれは(明示的には)知らされないのだ。何を歌っているのか、こちらに語ろうと口を開いたところで声は途切れ、勢いのついた意志だけがこちらに流れこみ、残像とともに消える、そういうラストなのだ。それを句点でせきとめたりしちゃ駄目だ。

 でも、J・G・バラードなら、これをただの19世紀的なメロドラマだと言うはずだ。自分が60年代に「結晶世界」や「強風世界」で片づけたことを蒸し返しているだけだ、と言うはずだ。「クラッシュ」(ペヨトル工房)こそ、真に20世紀的な情動をほじくり尽くした唯一の小説である、と。「クラッシュ」には、エリクソンが描くようなノスタルジアはかけらも登場しない。ここに登場する人たちには、そもそもそういうひだの深い情感がまったく欠けている。あるのは刺激と反応というパブロフの犬的な条件付けだけだ。
 車やメディアや郊外住宅地や均質空間オフィスに囲まれて生きるかれらは、普通の作家にかかれば疎外された不幸な現代人して描かれるだろう。だが、バラードの世界に生きるかれらは、ちっとも不幸ではない。奥さんや自分の浮気も、単なる刺激を増すためのスパイス。車のシートにおさまることで安らぎを得て、自動車事故に興奮してオルガズムに達する。そしておっかないことに、これは一部の変態フェティシストの姿ではなく、まちがいなく現代のわれわれすべての生きざまでもあるのだ。

 以上、「ルビコン・ビーチ」と「クラッシュ」、そして文中で触れる余裕がなかったけれど、エリクソンと不思議に近しい世界を持つナボコフ「賜物」(福武文庫)。この三作で、今年の上半期の翻訳小説で読むべきものはほぼカバーされている。この三つがすべて今年の二月に翻訳出版されたという事実は、「クラッシュ」が「重力の虹」と同じ年に出版されたのと同じく、何の意味も持たないただの偶然だ。が、まったく違う対象と文体と味わいを持つこの三作が、いずれも「今」の感触を持ち、この20世紀のわれわれの世界をえぐり出していることに、ぼくは感嘆しつつも戸惑ってしまう。われわれは何という不思議な時代に生きていることか。そして、そこに平然と生きているわれわれは、何とわけのわからん生き物であることか。下半期に入り、キャシー・アッカーのぐちょぐちょ絶叫ポルノが出回れば、20世紀末の小説世界はさらに異様な光景を繰り広げてくれることになる。こいつはちょっとスゴイよ。



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