Valid XHTML 1.1! 白島靖代写真集寅さんがタバコを吸わない理由 連載第5回

櫻の園には帰れない

(『CUT』1991年4月)
 
山形浩生



 大室幹雄は古代支那の都市やソ連の強制収容所の研究で知られる人で、手法としてはもっぱら文献記録の読解のみに頼っている。が、彼の読みの深さは、われわれ凡人の、字面を追うだけの読みなどとはくらべものにならない、空恐ろしいほどのものだ。「桃源の夢想」とか「園林都市」とか、すごい本だったなあ。彼にかかると、何の変哲もない一文から、一枚の絵から、ある世界の全体像とディテールが、並のルポルタージュなど及びもつかない迫力をもって迫ってくる。もっとも、彼の扱う対象は、そもそもルポルタージュがほとんど不可能な世界ばかりなのだけれど。単にその世界のリアリティが浮かび上がる地点を越えて、世界と文化の生命力にまで解読が進むときの気持ち良さはほとんど麻薬的だ。

 「寅さんがタバコを吸わない理由」(三省堂)でも、その読みは相変わらずのさえを見せている。対象は、映画。映画レビューの連載をまとめた本だ。映画を語っても、ついついその背後の世界を読んでしまうのはこの人の習性で、それが本書のおもしろさでもある。適度に時事的だし、読みは正確だし、扱う映画の趣味もいい(よすぎる)。最近の映画評の多くは、ディテールや、せいぜいが監督だの役者だの、映画のなかで閉じているものが多いので、その背景となる社会や文化にまで到達する本書の視線には新鮮さがある。
 しかし、本書のいらだたしさは、その視線が日本文化/社会に向けられるときに生じる。間違ってはいない。雑誌の連載でなら、それなりに読ませるものではあっただろう。でも、低俗で成金で、文化的になに一つ見るべきものを生み出していない、と彼が他人事のようにけなす日本の社会は、ぼくが属し、彼が属している(はずの)社会なのだ。大室は「気楽な一観客」であることをしきりに強調するけれど、映画だけならいざ知らず、その批判を社会一般に拡大したとき、そうそう観客面ばかりしているわけにはいかないんじゃなかろうか。この社会がダメなら、それを構成するぼくも、彼も、そのダメさ加減の一端を担っているのだから。

 しかも、そのダメさの根拠として挙げられる日本映画の選ばれ方も納得がいかない。「連載のおかげで、この何年か、ふだんよりひんぱんに映画を見たのはうれしかった。しかもそれらの多くがすばらしい作品だったのはたいそう幸せだった」とあとがきに書いた大室は、その直後にこう書く。「ただ、それらのうちに日本の作品がほとんど含まれていなかったのだけは、何とも味気ないことだった」。この「それら」というのが、「すばらしい作品」のことなのか、あるいは見た映画の総体のことなのかは不明。が、後者だろうと思う。だって、本書に(タイトルだけでも)登場する八十年代の日本映画は、どう見ても何らかの選別を経た結果とは思えないんだもの。「ビルマの竪琴」に「男はつらいよ」? こういう夏休み/お正月娯楽超大作と、単館ロードショーものの外国映画とを並べられたら、そりゃ日本映画の分が悪いのはあたりまえだ。この人は明らかに、日本映画を見ようという努力をしていない。少なくとも外国映画ほどには。それを根拠に、「だから日本文化は」とやられたんじゃかなわない。彼は宮崎駿の映画を見ただろうか。「天空の城ラピュタ」を見れば、彼も日本文化に多少の希望は持てたのではないかしら。あるいは、「その男、凶暴につき」。「人魚伝説」。ちょっと時期はずれるけれど、「ふたり」。そして「櫻の園」。

 「櫻の園」は、その筋ではかなり話題になった映画だし、ビデオにもなっているから、いずれ隣のコラムで取り上げていただこう。ある女子高で、毎年四月の創立記念日に上演される劇「櫻の園」開演二時間前だけに焦点をあてた佳品だ。桜と同じように、毎年上演されるけれど、でもそれを演じる女の子たちにとっては一回きりの「櫻の園」。その一回性が、女の子たちの生のさまざまな一回性と重ねあわされ、さらにチェーホフの戯曲にも重ねあわされた、細やかな美しい映画。

 むろん、この映画一本で、いまの日本社会と日本文化のすべてが許されてしかるべきだとは思わない。こんな可愛らしい作品がこんなに目だつこと自体、日本映画の総体的な貧しさを物語っているののは事実だろう。それでも、文化や社会がどうにかなるとしたら、それはこういう局地戦での小さな勝利を積み重ねることでしか達成できないのだ。

 いい材料ばかりじゃない。たとえば「櫻の園」でぼくが一番気に入っていた、準主役の一人の白島靖代がつまんない写真集を出してしまった。芸人のキャリア形成において、この種の写真集がどの程度の意義を持つのかはよく知らないのだけれど、そんなに売り急ぐ必要があるのかしら、という気はしなくもない。

 これと「櫻の園」を並べると、「日本は1964年以来、日本は文化的にひたすら没落の一途をたどってきた」という大室の説が頭にチラつく。でも、われわれは時を超えることはできない。彼女もあの櫻の園にとどまり続けることはできない。われわれだって1964年には戻れない(だいたい戻ったらぼくはまだ生まれてないかもしれんぞ)。大室幹雄だってそれはじゅうぶん知っているはずだ(だってあちことでそう書いているもの)。

 それに、大室が別のところで書いたように、芸は時間とたわむれ、それを超えるものだから、何があろうとも「櫻の園」は永遠なのだ。同様に、人間の営みは、すべて平等に魅力的である、といういつもの大室的な態度からすれば、この写真集だって、魅力において決して「櫻の園」に劣っているものでははないはずだ。それが魅力的に見えないのは、一重に見る側の視線の問題なのだろう。

 だからわれわれのやるべきことは、「白島靖代写真集」を見ながら「櫻の園」を懐しがることじゃない。この二つを同等に扱い、そこから現代の日本社会や文かに到達する視線を編み出すことだ。大室幹雄ならそれができるはずなのに。面倒くさがりだからなのか、あるいは向いてないからなのか。いずれにせよ、彼がやろうとやるまいと、ぼくはそっちに向かわなくてはならない。


前略

まあ、「今日中」ってわけにはいきませんでしたわい。ところで、お手数ですが、この号が出たら、一部この大室幹雄教授に送ってさしあげていただけないでしょうか。昔、ちょっと世話になった方ですので。代金は原稿料から引いておいていただければさいわいです。



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