Valid XHTML 1.1! つくられた桂離宮神話コックサッカーブルース 連載 4 回

ブランド神話の両端で:村上龍と井上章一

(『CUT』1991.06) 山形浩生



 「本の雑誌」を除き、現在の書評のほとんどは単なる人気投票みたいなものでしかない。どう評価されたかより、何カ所で取り上げられたかだけが問題にされる。むろんその背景には、おもしろい書評がほとんどないために、みんな書評欄に出てる表紙の写真だけサッとながめて済ませるようになってしまった、というのがあるのだろう。それと、出ている本がどこでも似たりよったりだ、という点。「薔薇の名前」の書評をわれわれはいくつ目にしたことか。どこでも新刊の話題作しか扱わないし、ジャンルもほとんど固定化してしまっている。

 ぼくが今回「コックサッカーブルース」を取り上げたくない理由も、そこにある。新刊だし、それなりに話題作だし、いかにもこの種のトレンド雑誌が取り上げそうな本だし、何を言っても人気投票の一票にしかならないだろうから。しかし、名前をだしちゃったから軽く撫でておくと、村上龍のブランド好きは田舎者の背伸びが見え見えで見苦しい。この小説は、やれイッセイ・ミヤケのブリーフだのヒューゴ・ボスのジャケットだのとブランドを羅列して、しかもそういうブランド品を身につけることの意義をいちいち力説する。そういう気負った装いというのは、通常は「服に着られている」といってさげすまれるはずだ。しかもブランド洪水は服飾方面だけにとどまらない。いい加減ウンザリしながら読んでいると、こんなくだりに出くわす;

「ルンデ・カルロがコスモポリタンの招きで(中略)ニューヨークにいっちゃったから」

 ??ルンデ・カルロって知らないけど、何やら音楽方面の人らしい。あの「コスモポリタン」って、つまんない女性誌のほかにそんな文化事業もやってるの?

 だが、その少し後の「コスモポリタンはほとんどボランティアみたいなとこだから」というくだりで、やっと事態がのみこめる。ああそうか、あのメトロポリタン財団とまちがえてるんだ。

 好き嫌いはともかく、NYのアート系スノッブにとっての大エスタブリッシュメントであるメトロポロタンを、彼らが忌み嫌い軽蔑するあの「コスモポリタン」とまちがえる。これはなかなか無様だ。ブランド勝負は揚げ足とりの世界。こういう最底辺の基礎教養レベルでのまちがいは致命的。付け焼き刃は一挙にはがれ落ちる。ぼくですらこの程度の揚げ足がとれるなら、ブランドに詳しい人間が読めばこいつはずいぶんこっけいな代物であるにちがいない。

 ただ、その部分を差し引いても(さらに、ラスト百ページの解説が説明調でうっとうしいのを除いても)、この小説にはつい読ませてしまうパワーがある。それが何に起因するものなのか、ぼくにはまだよくわからない。

 しかし、村上龍をして、このような気負ったブランド崇拝に駆り立てたものは何か? それならわかる。見栄、というヤツだ。そしてそのメカニズムを解明しつつある人物がいる。井上章一である。

 井上の仕事は一言で集約できる。見栄の研究。知ったかぶり、あるいは偽善的なお説教がどうして生まれるかの研究。これまでの彼の五冊のうち、最高傑作は「つくられた桂離宮神話」である。桂離宮というブランドが知識人の間でいかに形成され、流通したか。しかもそのブランド形成が、ある政治的な意図で行われたことを、彼は明快に説明する。さまざまな人の発言は、その意図の掌中でしか動いていないのだ。

 これはある意味で、非常にヤバい作業だ。要するに井上章一は、桂離宮について過去に発言した人間すべてに対し「お前らみんな、桂離宮なんかわかりもしないで、受け売りで物言ってるだけだ!」とアヤをつけているわけだから。ぼくならはっきりそう書いただろう。だが、彼はここで、非常に巧妙な防衛線を自分に対して張る。「私は美的センスがありません。だから、桂離宮が美しいかもわかりません。したがって、みんなの発言が本当かどうかもわかりません」という話。こう言っておけば、発言内容そのものについての評価はしないですむ。そのうえで、遠まわしにイヤミをネチネチと述べる。なかなか学者らしいすてきに陰湿なやり口だ。しかもこの防衛線は、恥ずかしい打ち明け話として偽装してある。「昔は私も受け売りをしていた。お恥ずかしい。そんな恥ずかしい真似を強要した制度が憎い」というわけ。

 そのうえ「桂離宮」には、さらに最後の一発が待っている。それまで一貫して知識人の発言を扱ってきたこの本は、最終章で一転して、観光ガイドブックといういわば通俗側からの分析を行う。知識人の間での評価がどう変わろうと、一般人レベルにはそんなものがなんら影響を持たなかったことを井上は露骨に示してしまうのだ。

 知識人たちに対し「おまえらみんな受け売りだ」とけなし、そのうえで「お前らの言うことなんて、実は誰も聞いちゃいないぜ」とバカにするという二重の嫌がらせ。ここまで念のいった攻撃をしつつ、自分は安全な場所にヌクヌクと安住する。さらに、その防衛線偽装の打ち明け話は、別のところへ雑文にして売り込む。「桂離宮」は、内容もさることながら、この見事な手法により、ぼくにとって永遠の名著の一つとなっている。

 彼の近著「美人論」は残念ながら、「桂離宮」ほどの衝撃力はなかった。なるほど、われわれは「人間は外見じゃない」とを言いたがる。でも、それが本音じゃないことくらい、自分も他人もよくわかっている。桂離宮やジョルジオ・アルマーニのように、どこがいいのか実はよくわからないけれど、まわりの人はわかってるような顔をしているから、とりあえず何か受け売りでもほめておかなくちゃ、というような冷や汗混じりの不安はそこにはない。むしろ、一種の共犯めいた感覚の中で言われることばじゃないだろうか。だから、彼の開き直りがここでは有効に作用しない。さらに、「美しさ」がファッション産業拡大のための手段として万人に要求されはじめている、という一番刺激的な部分は、ほとんどが推量の域を出ていない。惜しい。

 ここは一つ、是非ファッションについて井上章一に本格的に論じてもらいたい。これなら、開き直りも有効に機能するだろう。「私もかつて、どこがいいのかわからないまま、見栄でクリツィア・ウモのスーツを買ったりした。私にそんな大枚をはたかせたファッションという制度が憎い」ってな具合。そういう感覚を共有する人は多かろう。DCブランドは衰退しつつあるとはいうけれど、いまならまだ間に合う。

 その際のケーススタディとして、村上龍は典型的な症例を提供してくれるはずだ。それが出れば、新刊だろうと話題作だろうと、ぼくはただちにここでとり上げるであろう。その時までこの欄が続いていれば、の話ではあるが。



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