Valid XHTML 1.1! rootからルートへのメッセージ 連載第 3 回

技術的な感覚のおはなし

――『root から / へのメッセージ』が教えてくれるもの。


(『CUT』1991 年 5 月) 山形浩生



 『スペクトラム』がどういう事情で休刊になってしまったのかは知らない。単に売れなかったのだろうか。不思議なことに、ここ一年くらいで、この種の科学技術情報誌が続々とつぶれている。それも何の因果かぼく【編註】の購読誌ばかり。アメリカの High Technology Business。香港のAsia Technology。そして日本では『スペクトラム』。いずれも科学技術の先端(のちょっとこっち側)と政治と経済が絡み合う、一番刺激的な領域をカバーする雑誌だった。でも、こういう領域に対する需要がなくなったわけではないらしい。あの『サイエンス』が『日経サイエンス』になってしまったのをご存知だろうか。その理由が「最近、国内外の技術動向に関する記事の充実を求める声が、読者から強く出てきたのにこたえるため」。まったく、それなら『スペクトラム』で用が足りる話じゃないか。不勉強な読者どもめ。あるいは商売上手な日経が、『スペクトラム』の市場を奪取するため、意図的に編集方針を変化させたという仮説はどうだろう。うーん、陰謀の匂いがするぞ! しかし、ほかの二誌については説明がつかない。よって陰謀仮説はあえなく却下される。

 陰謀はともかく、『スペクトラム』の休刊は悲しい。まずこれからは苦労して英語の本国版を読まなきゃならんという意味で、時間的/労力的な損失が確実となった。これは非常に残念だ。そして、こういう良質な技術情報誌を存続させられなかったことで、日本の「技術」に対する扱いが露呈したような気がする。それが情けない。

 この国には古来(少なくとも十年以上前)から人間を文系と理系に仕分けする悪しき風習があって、いったん自分を文系と規定した人間の多くは、その先一生科学や技術とは無縁の生活を送れると思いこんでしまう。怠慢は、即座に無知と傲慢に結びつき、彼らの間にはいつのまにやら何の根拠もなく技術をバカにする風潮がはびこる。

 たとえば翻訳という技術。翻訳(特に小説なんかの)を文学的な行為だと思っている人々がいるけれど、翻訳はひたすら技術的な行為だ。「機械のマニュアルを訳すのと文学作品を訳すのとはちがう。文学の翻訳には、単にことばの意味を置き換えるだけでない何かが必要だ」などという世迷い事を言う人物に、先日もまた出会った。その「何か」とやらが何なのか、その人でも説明できなかったけれど。説明しがたい「何か」にすがらなきゃならないなんて、「文学の翻訳」ってのも惨めなもんだが、あいにくとそんな「何か」は存在しないのだ。マニュアルの翻訳も、小説の翻訳も、ことばの、あるいは文章の意味を置き換えるだけの作業であり、何一つ違ったところはない。それ以上のことをやる翻訳は、すでに翻訳ではない。改ざんだ。もちろん、先の人物とて小説を訳すときには改ざんしていい、と言いたかったわけではなかろう。この文学屋さんが意図せずに言っていたのは、機械のマニュアルの翻訳は、小説の翻訳に比べて手抜きをしていいに違いない、ということであり、同時に機械に代表される「技術」が文学より数段低いものだ、ということであり、「文学」が技術ごときには到達できない「何か」であるということなのだ。

 一言半句にひそむ技術への侮蔑。しかもそれが社会的にかなり流布したものであり、巷で取りざたされている学生の理工系離れ・製造業離れの原因の一つであるのは確かだ。そこに描けているのは、この二万年にわたって人間(と世界)を変えてきたのが、広い意味での技術であり、その他の現象のほとんどがその副産物であるという認識だ。半年とか一年のタイム・スパンならともかく、十年から百年のオーダーで世界の動向を決定するのは技術である。だから、技術的な感覚の存在で世界に対する目は明らかに変わってくる。それも具体的な物や操作に裏付けられた、いい方向に。

 技術的な感覚と言っても、単に目新しいガジェットにいち早く飛びつく能力のことじゃない。かつてのサイバーパンク・ブームや、こないだのバーチャル・リアリティ・ブームではしゃぎまわったバカな文化人はいくらもいた。だが、ガジェットで遊ぶだけなら誰にでもできる。必要なのは、技術の産物である製品から、その背後にある基本的な考え方と意味に到達する能力だ。

 それがどんなものかを教えてくれる、すごい本が出た。『root から / へのメッセージ』という本だ。本屋のコンピュータ関係の棚にあるので見逃さないように。タイトルが何のことかわからなくても気にしないこと。本書の本来の目的は、UNIX のシステム管理者の心得集なのだが、それもどうでもいい。ぼくだって、UNIX なんぞを使う必要のある環境にはいない。本書の価値は、各章の冒頭 8 割を占める雑談にある。

 たとえばシステムがクラッシュした場合に心得を語るのに、著者は延々と新潟地震の体験談をくりひろげる。コンピュータの話が出てくるのは、最後の 2 ページだけ。「この地震のアナロジーで、システム管理者に要求される仕事もおのずと明らかであるはずだ」というわけ。どっちも災害対策という点で同じであるはずだ、と。そして確かにその通りなのだ。あるいはハンダごてやニッパーなどの工具の手入れと使用に関する雑記から、UNIX というシステムの設計理念を語り起こす著者の口調。そこには技術とそれを支える思考の普遍性に対するすがすがしい確信がある。鉄道の運行、ラジコン、音楽、自分の息子など、著者の目は無節操に何にでも向けられるが、この確信は変わらない。この確信こそが、技術的な感覚というやつだ。

 著者の高野豊は、家電メーカーの技術屋さんである。彼には、目にするあらゆるものの背後に、それを支えるシステムが見え、そのシステムを成立させている理由が見えているようだ。本書を読むのは、ファインマンの『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(下巻)を読むのと似た体験だ。われわれ凡人が、漫然とがさつにやりすごしている世界の一こまごとに、彼らは驚くほど深く豊かな世界を見い出している。読み終わって目を上げると、見える世界は相変わらず退屈でゆううつだ。でもそれは、世界のせいじゃなくて、おまえがまだ世界の豊かさを十分に見ていないからなんだよ、と彼らは語ってくれる。

 もちろんそこに到達するためにはそれなりの努力が必要なのだ、ということも、この本には書かれている。だからぼくは、今日もハンダごてを握り、「文学」に堕さない技術的な翻訳を行い、面倒でも IEEE Spectrum を読もうと決意するのだ。

編集部註:フィリップ・K・ディックの翻訳などで知られる山形浩生氏は、昭和39年生まれ、東京大学都市工学科卒。現在、大手研究所地域事業コンサルティング部勤務。



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