観終わって不思議と元気の出る映画が、五年に一本くらいはある。「ヘザース」がまさにそういう映画だった。通算四回目の「ヘザース」を観て、水道橋からお茶の水に向かうと「そうだ、オレは世の中が気に食わなかったんだ!」と笑いがこみあげてくる。変に大人ぶって世の中とニコニコ折り合いをつけたがる映画が多い中、日々のムシャクシャをここまでストレートに出した「ヘザース」はそれだけで特筆に値する。しかし、考えてみると、前回「ヘザース」的に気に入った映画というのは「欲望のあいまいな対象」だったし、その前は「気狂いピエロ」だったっけ。実は単に爆発する映画が無条件で好きなだけなのかもしれない。
爆発はしないけれど「ツイン・ピークス」もおもしろかった。たとえとなりの不逞の輩にネタをばらされていても。手を尽くして完全版を手に入れたかいがあったというものだ。登場人物はことごとく異常だし、FBI の捜査官が「チベットの技法だ」と称して霊感捜査をやるものだから、夢と現実が奇妙にブレンドされて、重たい不安があたり一面たちこめてくる。人々がみんな裏の顔を持ち、誰もお互いに理解していない。見ているこちらも、信用できる人物がいないので少しも安心できない。それが空気を一層重くする。とかく「depressing!」と暗いものを嫌うアメリカで、よくこんなドラマが流行したなあ。だがここは映画欄でもなければビデオ欄でもないので、残念ながらこの話題は別の機会にまわさざるをえない。残念だが、本の話をはじめよう。
ドナルド・バーセルミも、現実と非現実の境目にいて、特に都会人のコミュニケーション不在を書き続けた小説家だった。彼の小説に漂う空気は、デビッド・リンチに比べれば明るい。
リンチのたれこめるような不安に対して、バーセルミの不安は足元の地面がないようなとらえどころのない不安感であり、彼の最盛期の小説では、それがかえってある種の軽やかさにもなっていた。それも、ナヨナヨした根無し草的な現実逃避の軽やかさではなく、その軽やかさを積極的な無根拠にして現実とがっぷり四つに組める、力強い軽やかさと不安だ。その昔、サンリオ SF 文庫で出ていた「罪深き愉しみ」「口に出せない習慣、奇妙な行為」や、白水社刊「雪白姫」などは、その軽やかな不安が作品の魅力と直接に結びついた不思議な傑作だった。
それにくらべて、同じバーセルミでも先日邦訳の出た「パラダイス」(彩流社)は決して出来がいいとは言えない。体力の衰えがモロに出て、自分の無根拠さにも自信が持てずに、ズルズル現実と妥協してうずくまったような小説。哀愁と無力感だけが漂う弱々しい小説。この本を書き上げるのに、バーセルミは五年以上もかけているはずなのだが、それだけの密度はまったくない。
なぜこの本が何の脈絡もなしに訳されることになったのか、ぼくは知らない。訳者解説によると、「ポスト・モダンの文学には純粋培養の温室小説といった印象がある」ので「この小説においては、そういった印象を覆したいという考えがあった」のだそうだが、そんな印象が流通しているとは知らなかった。「アメリカ・ポストモダンのビッグネーム」として名前が挙がっているピンチョンやナボコフの小説を「温室育ちの純粋培養」と思っているヤツなんているのかな。それに、百歩ゆずってそんな印象があるとしても「パラダイス」でそれを覆すのは不可能だ。それどころか、逆に強化してしまうかもしれない。バーセルミなら、若いころのもっとおもしろくてパワフルなヤツがまだ残っているのに。
でも、逆に今回そういう名作が訳されなかったのは好運だったのかもしれない。ぼくにはこの翻訳がどうしても肯定できない。この訳で、バーセルミの七〇年代の傑作を読まされるのはたまらなかっただろう。それに、うまく行けばぼくが自分で訳せないとも限らないじゃないか。
またもや訳者解説によると、「我々はバーセルミの文体を実験的で無機質なものだと捉えがち」なのだけれど、実はそこには「口語的要素を多く含む側面」があるのだそうだ。まず、自分の勝手な思いこみを「我々」とか言って一般化するのはやめてほしい。バーセルミを「無機質」などと思っている人物は、単にバーセルミを読んだことがないだけだ。次にこの翻訳は、彼のその「口語的要素」を日本語化できていない。主語の代名詞が異様な律儀さで訳され、まるで模擬試験の模範答案のごとし。そして、ぼくの嫌いな「……さ」の多用。誰も実際に口にすることがないのに、誰もが何やら口語的な表現だと思いこんでいる「……さ」。「偉大な都市の実験場さ」。「晩飯はサンマさ」。
以前、別のところでこの「……さ」について「ダメな表現だ」と述べたことがある。大森望(翻訳者)と小浜徹也(編集者)には「書きことばと話しことばがちがうのはあたりまえだ」と一蹴されたけれど、ぼくはそれですむ話だとは思わない。確かに書きことばと話しことばはちがう。ちがうけれど、完全に独立しているわけでもない。「ちがうのはあたりまえ」なら、ある文がうまいか下手かを判断する基準は文法以外には存在しなくなる。しかし、実際に文章を読むと、文法的にはどうであれ、ある文は古くさく、ある文は新しく、ある文は堅苦しい。会話なら、ある文はこなれていて、ある文は会話になっていない。その感覚を決定しているのはもちろん書きことばのコードなのだけれど、各時代にそのコードを変えるのは、その時代の話しことばとの対応なのだ。
今、「……さ」という表現を使う人は、それが何か気取ったような口語的雰囲気を与えてくれるだろうという下心を持って使っている。でもそれならば、実際にそういう局面で人が何と言うか聞いてみればいい。そしてその表現が書きことばとして使えるなら、そっちを積極的に使うべきなのだ。これは「……さ」に限った話ではなく、書きことば生産者の態度の問題だ。「耳のダメなやつは、文もダメだ」というようなことをトマス・ピンチョンも言っている。使われてもいない出来合いの表現に頼ると、やがてその文は話しことばに取り残され、無惨に古びる。ましてそこで「ちがうのはあたりまえ」と開き直るなんて、怠慢だし自堕落だ。「パラダイス」邦訳も、その怠慢を共有している。
戦争が始まった。イスラエルが爆撃されている。ざまみろ。やっぱり爆発するものは好きだ。
CUT 1991-1992 Index YAMAGATA
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