Valid XHTML 1.1! ブッシュ・オブ・ゴーストドバラダ門 連載第 1 回

『ブッシュ・オブ・ゴースツ』と『ドバラダ門』は偉大なほどバカバカしい。

(『CUT』1991 年 03 月)

山形浩生



 山本政志『てなもんやコネクション』を見て、あっさり洗脳されて「そうだ! やっぱアホがえらい!」などとぶつぶつ口走りながら渋谷のラブホテル街をぬけ、ちょいと本屋に立ち寄ると、なるほどそれを裏付けるような書物が目にとびこんできた。そいつは『やし酒飲み』に続き西欧合理社会に衝撃を与えた傑作」なんていうご大層なキャッチ・コピーを帯につけているけれど、たかが小説ごときで衝撃を受けるほど西欧合理主義はヤワじゃないと思う。が、あのアホな爆笑ホラ話『ジャングル放浪記』改め『ブッシュ・オブ・ゴースツ』が再刊されたんだから、そのくらいの誇張は当然許されてしまうのである。なんてったってアホなんだから。いや、ぼくは東京人だから、バカと言おう。

 まま母に嫌われた少年が、奴隷狩り戦争の真ん中に置き去りにされ、逃げる途中でゴーストたちの住むブッシュに迷い込み、通常の人間の世界に戻ろうとして 24 年間さまよい続ける話。あら筋だけ書くとずいぶん悲惨で真面目そうな話に聞こえてしまうし、その 24 年間、家畜に姿を変えられてコキ使われていたり、全身が皮膚病の女につかまって、10 年間その皮膚をなめさせられそうになったり、相手がゴーストのせいもあるが、まあろくな目に遭わない。でも、それが一向に陰気な話にならないのは、見てきたようなホラ話風の語り口のなせるわざである。

「わたしの泣き叫ぶ声がよほど天来の妙音のように聞こえたとみえて、みんなは、その木をかついでいる者より一マイルばかりさきまで踊っていっては、また踊りながら引き返してくると言うありさまだった。そんなふうで、途中で出会ったゴーストが全部踊りに加わり、みんなは、三日三晩、食事も休職もしなければ、疲労の色もみせず、踊り続けた」

これをハッキョーした陽気さ、と評した人がいるが、至言である。チュツオーラは全編この調子である。要するに、ひたすらバカ。三日三晩泣き叫び続けた主人公もバカだし、それに合わせて飯も食わずに踊り続けるゴーストもバカだし、ついでにそれを書く作家もバカだし、読んで喜んでいる読者もバカ。だが、山本政志と曲守彦も言っている通り、バカは時代と国境を越えるのであり、現にこうしてエイモス・チュツオーラは前世快適な支持を受け、デビッド・バーンとブライアン・イーノが『ブッシュ・オブ・ゴースツ』をつくる。ただし、この二人はなまじ学のあるせいか、本書のバカバカしさには到達できなかったようだけれど。この日本でも『やし酒のみ』が版を重ね、そして 30 年も前に邦訳された『ブッシュ・オブ・ゴースツ』が再刊されてしまうわけだ。

 作者エイモス・チュツオーラはナイジェリア人である。つまりはアフリカの人であり、われわれ日本人はアフリカに対してまだ「野蛮だけどエネルギーあふれる」みたいな幻想を抱いていることもあって、この圧倒的バカバカしさもつい作者の血のせいにしてしまいたくなる。が、ほかにもアフリカの作家はいるけれど、みんな西欧合理主義の侵入による伝統的部族社会の崩壊の中で苦悩する個人、みたいな話ばかり書いているので、このバカバカしさはやはり単なるアフリカだけでは説明仕切れない何かがあると考えざるを得ない。それはやはり、教育ではないかという気はしなくもない。小説なんぞ書くようなヤツは大概が大学出のインテリだが、チュツオーラは 18 の時から働きに出ているものね。教育はバカを抑圧する、というのは実にもっともらしい仮説ではないか。

 しかし一方で、たかが大学教育程度で飼い慣らされてしまうようなバカは、しょせんその程度の愚かなバカでしかなかったという考え方もできるわけで、多少の不自由を乗り越えて光り輝くのが真の偉大なバカであるという仮説も、これまた充分に成立し得る。何せ、浜の真砂は尽きるとも、と言うではないか。確率的に、その程度の賢いバカだって一人や二人いてもよかろう。山下洋輔は、今回そういう賢いアホぶりをさらけている。

 新刊『ドバラダ門』は明治維新を生きた自分の先祖たちの行状を、その一人が設計した鹿児島刑務所を手がかりに暴きだそうという、これまたうっかりすると変に生真面目な本になりそうなネタを扱っている。でも、それを逆手に取り、生真面目な部分をテコにして、十八番の脱線とホラ話のバカさ加減を際だたせるという、なかなか手の込んだ高等技術を駆使されている。まさに戦略的な賢いバカと言おうか。

 とりあえず、問題の先祖の兄を平賀源内のエレキテル(実はタイムマシン)で時間旅行者山下清に返信させて、500 ページ近いこの本の要所に出没する狂言まわしの役をふりあて、しかもその山下清の中には二つの人格が同居していて、気分しだいで使いわけられるという、ご都合主義としか言いようのないバカな設定。しかし、この設定のおかげで、煩雑な歴史的ディテールがわかりやすく整理されてしまう。現代の狂言まわしである山下洋輔が、方々からさまざまな資料を集める。それが適当に憶測をまじえて描かれ、さらに山下清がそれを解説したうえ、必要なら介入するという仕掛けである。こうして刑務所をめぐる人や建築や歴史のあらゆる情報が並べられ、最後のジャムセッションに突入する。現在も過去も、バカも利口も、自分も先祖も、人も建物もすべてがそこになだれこんで、はじける。残るのは、刑務所の門と、そのすべてがオレとともに生きている! という山下洋輔の確信のみ。バカバカしい、そんなのは 500 ページ近くかけなくとも、はじめっからわかっていることだ。でも、彼の費やしたバカな時間と労力の浪費は、その確信を一層美しくしている。

 チュツオーラと山下洋輔のバカバカしさはそれなりに違っている。でも、両者とも、最終的に解釈などしないで、自分の過去をすべてそのまま肯定している点で共通している。知恵は疑うことからはじまる。だがバカはまず肯定する。だからバカは、時に美しく偉大だ。中途半端に知恵のあるぼくは、それを見て、「バカだね」なんてつぶやきながら本を閉じるしかない。



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