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COBS 26号 松田龍平の似合わないスーツ姿がカバー

『COBS』連載コラム 2008-2011

 ハードディスク(SSDだけど)の整理をしていたら、『COBS』という雑誌の連載ファイルが出てきた。

 連載してたくせに失礼ながら、どんな雑誌だったかまったく覚えていない。ググって見ると、たぶんここで紹介されているこの雑誌だと思う。毎日コミュニケーションズが出していた、ビジネス系のフリーペーパーね。当時は2004年にR25が創刊して大躍進したので、その尻馬に乗ったビジネスマン向けフリーペーパーのようなものがいくつかあったように記憶している。その一つだ。Wayback Machineに少し残骸が残っている。それによると:

『COBS』は、「切れ者になるっ!」をキャッチフレーズに、20代のアッパークラスビジネスマンを対象とした情報誌です。編集内容は、ビジネスの効率を上げる仕事術をメインに、20代のビジネス&ライフスタイルを、提案ではなく、リアルに提示しています。 発行は、3月、6月、8月、10月、12月で、年5回発行。

 どういう依頼だったかも覚えていない。書いた内容を見ると、他の雑誌、特にVOICEでも使ったネタを使い回し、というべきか。でもビジネス社会ネタで、そんなにいろいろ言うべき事があるわけではないので、どれが先で、どれがどれを使い回しているのかは不明。ただ、まったく記憶にないことからもわかる通り、そんなに頑張って書いてはいない。が、ここを見ると、巻頭コラムだったみたいね

 終わり方も覚えていない。が、この手のフリーペーパーの常として、たぶん雑誌ごとある日なくなったんだと思う。wayback machine を見ても、2012あたりでcobs.jpのサイトごとなくなって毎日コミュニケーションズのサイトにリダイレクトされるようになった。2011年といえば、黒第二次安倍政権が始まる前の、民主党政権の暗黒時代。リーマンショック/金融危機がジワジワ効いてきて、そろそろ日本経済もフリーペーパーを出せる余裕が消えてきた頃じゃないかな。

目次


■ 2009年8月号(17号)

連載第1回 先進国の凋落と途上国発イノベーション

これを書いている横で、ちょうどGMの倒産が発表されて、ほぼ一世紀続いた自動車の時代が大きく変動していることがだれの目にもあからさまに示された。

 ただしもちろん、その変動というのはここ一、二年でいきなり生じたものではないのも、言うまでもないことだ。アメリカの自動車産業は過去数十年にわたり劣悪な状態にあった。市場のニーズに対応したまともな車が作れず、しかもその事実に直面せずに過去何十年も自分たちの不振を日本などに責任転嫁する体質のせいだ。それが環境の急変でついに無理が続かなくなっただけのことではある。

 そしてそのニーズに応えられたのが、日本車であり、最近では韓国車などだというのもすぐにわかる。車は常に、安くコンパクトに、という方向で市場を拡大してきた。自動車業界を変えてきたのは、常にそういう動きだった。大量生産を実現したT型フォードは、金持ちの道楽だった自動車を完全に変え、いまの自動車産業そのものを生み出した。その後も自動車史の画期というのは、たとえばナチスが国民車として開発したフォルクスワーゲンビートルであり、そして安くて高品質という従来はあり得なかった日本車の台頭だ。これらは新しい車のジャンルを作り出し、それが自動車業界を変えていった。GM倒産は、そうした新しいジャンルに対応できなかったことの結果でもある。

 そしてその流れの中で最新のものが、今年発表されたインドのタタ自動車による超低価格車ナノだ。

 全般に日本の既存自動車系メディアやネット評論家さんたちの反応は冷ややかで、あれがない、これが駄目、安全性に不安、環境への影響が、目新しいものがない、エアコンつけたらかえって割高云々とケチをつけるのが流行のようだ。ぼくが見たところ、その多くはほとんど揚げ足取りか印象批評だ。そうしたケチのつけかたを見ると、かつて日本車に対してアメリカの関係者が難癖をつけていたのがなんとなく連想されてしまうんだが。

 そして一方で、ナノの人気は上々。予約いっぱいで抽選でしか買えず、しかも本体価格の八割近い申込金がいるという高いハードルなのに、行列状態。まだ目新しさと話題性だけで売れているのかもしれないけれど、ぼくは実際のニーズもあると思う。今後の大きな市場である途上国にとって何が重要か? ナノはそれをきちんと考えた商品になっている。日本人目線の多くの批判は、それをまったく考えていないのだ。この値段なら、ばらしてエンジンや車体を流用するのも気軽にできる。車の使い方自体変わるかもしれない。それは既存の自動車業界や自動車メディアがまったく考えていない部分だ。これはすでに新しい車のジャンルを作りだした。それは文句なしにタタ自動車の手柄だ。

 実は最近ぼくたちは、別の分野でもまったく同じパターンを目撃したばかりではある。いまやパソコン業界の大きな波となりつつあるネットブックだ。機能限定、画面も小さく、メールとウェブ閲覧くらいこなせればいいという発想の台湾メーカー主導のネットブックは、多くのメーカーやメディアにはせせら笑われた。あれができない、これが駄目、画面が小さい、処理能力に限界、安っぽい云々。でもネットブックは大きく売れ、既存メーカーも無視できない動きになりつつある。

 さて、どうだろう。今後ナノに限らず、従来の途上国からこうした新しいジャンルを作り出すような製品がどんどん出てくるだろう。そのとき、日本の産業はそれにきちんと対応できるだろうか。それともいずれ日本企業も、いまのGMのような道をたどってしまうのだろうか? 今世紀半ばくらいにはその答えが出そうだ、というよりもおそらくその答えを左右するのは、この雑誌を読んでいるみなさんが仕事で下す各種の決断であるはずなのだけれど。


■ 2009年10月号(18号)

連載第2回 不景気の仕組み:総選挙を前に考える経済政策

 衆議院が解散になって、八月末には総選挙をすることが決まった。

 さて、選挙にどう臨むか(あるいは棄権するか)は、その人次第。でも結局のところ、いまの日本にとって何がいちばん重要かといえば、一向に回復の気配を見せないこの景気をどうするか、ということだろう。

 さて、どんな経済政策がよいのかについては、ぼくなりに考えはあるのだけれど、でもそれ以前の問題として、経済政策、というものの見方を知る必要がある。個別の政策を知るより、重要なのはその見方のほうだ。そしてそのなかで一般の人にとっていちばん重要なのは、景気回復の話と普通の企業の業績回復の話とはまったくちがう、ということだ。企業の業績回復の手法——政府の無駄をなくしてコスト削減とか——をそのまま景気政策として打ち出している政党や候補は、何もわかっていないし、選んでも景気回復に有効な施策はたぶんしてくれないだる。

 なぜ企業と景気はちがうのか? マクロ経済では合成の誤謬というものが出てくるからだ。一人、あるいは一つの企業にとっては正しくても、経済全体にとっては正しくない、という場合だ。

 簡単な例を考えよう。ぼくはこうして文章を書いてそれを雑誌に売る。そのための情報収集に、新聞や雑誌やその他の情報源にお金を払う。さてそこで雑誌が、「いまは不景気だから、利益を増やすためにコスト削減しよう、ライターたちの原稿料を一律一割削減」と決めたとしよう。するとぼくは、「収入が減ったからその分コストを減らさないと、だから買う雑誌を減らそう」と考える。すると雑誌社は、費用を削減したつもりが、その分売り上げも減ってしまい、結局利益は同じか、かえって減ることだってあり得る(この雑誌はフリーだから事情がちがうけれど、でもスポンサーまで含めれば同じ理屈がなりたつ)。そして雑誌社は「思ったように利益が増えないのでさらにコスト削減、さらに原稿料カット」と言い、すると収入の減ったライターはまた買う雑誌を減らし……

 これを経済全体に拡大しても同じだ。不景気になって、全員がコスト削減で利益を増やそうとすると、みんなの売りあげが下がり、だれも利益を増やせなくなる。

 さて企業経営者なら、利益があがらないからコストをカットしようというのはまったく正統な判断だ。そしてそれができれば、企業の業績は上がる。でも、それを経済全体にそのまま当てはめても、経済全体の業績は上がらない。それどころか、つぶれる企業がどんどん出てきて、失業者もどんどん増える。そして、会社はコスト削減の一環として、たとえば人をクビにすることもできる。でも、経済全体で見ると、日本人を日本経済からクビにすることはできないんだよね。その人たちは失業者という形でずっと居続け、日本経済のだれかがその人にご飯を食べさせなくてはならない。

 ここで、だれかがどーんとお金を使えば、そのお金はたとえば雑誌を買うのに向かう。すると雑誌社も安心して、ライターの原稿料を増やせる。するとライターは雑誌を買ってもっと情報収集する。そして景気が悪いときに敢えてどーんとお金を使えて、経済全体に影響を与えられるくらい大きいのは政府くらい……

 もちろん、政策を見る目は他にもたくさんある(だからこそ意見がまとまらないのだ)。でも、少なくとも一つの企業と経済全体というちがいは理解しておきたいポイントの一つ。あなたの選ぼうとする候補者や政党は、それがわかっているだろうか?


■ 2009年12月号(19号)

連載第3回 祝2016年オリンピック落選:イベントの経済効果

 二〇一六年オリンピックの開催地として東京は落選、リオデジャネイロが当選した。ぼくはオリンピックには反対だったし、東京に可能性があるとはまったく思っていなかった(証拠は二年前に書いた原稿)ので、予想通り。アメリカ大陸が当選するというのも、言った通りでしょ?

 そもそも何のためにオリンピックを? オリンピックで経済が潤うと思っている人が多くて、オリンピックの経済効果は何兆円、などという話がよく書かれている。あれは一体どういう意味?

 通常の会社の事業を考えよう。何か初期投資をして、事業をやって売り上げをたてる。投資した費用よりも売り上げが大きければ儲かる。オリンピックも同じだ。誘致運動や競技場やインフラ整備で何兆円の費用をかける。それでイベントのチケットや放映権を売って稼ぐ。稼ぎが費用より大きければ、儲けが出る。その儲けの分が、イベントで生じた新しい経済的価値だ。

 が、地域経済全体、国全体にとっての経済効果となると、話が少し面倒になる。

 日本の人が東京オリンピック見物にでかける。するとチケット代やその人が泊まる宿や使う交通機関、グッズ、食事はすべてプラスの経済効果だ。

 でも一方でマイナスの効果もある。その人は、オリンピックへの支出の分だけ家族旅行を減らすかもしれない。その減った分の消費は、経済効果から引く必要がある。

 外国からも人がきてお金を使ってくれる。これはプラスだ。でも一方で、大規模イベントがあると、ホテルや航空券が取りにくいから、大きな国際会議やその他の観光客は他に流れてしまう。その分はマイナスの経済効果だ。

 本当ならこういうプラスマイナスを全部考えて経済効果をはじき出すのが正しいやり方だ。でも多くの「経済効果」と称する代物は、マイナスの効果を一切見ていない。そして往々にしてこの手の「経済効果」の計算は、もう一つとんでもないインチキをしがちだ。イベントを開催する費用であるはずの建設費その他も、経済的な便益だとして、プラスのほうに算入するのだ。

 どうやって? そういう建設発注が国内の土建屋さんに落ちて、それが国内の経済を潤す、よってそれはプラスの経済効果だ!

 これはそもそも発想からしておかしい。それに、上と同じ話がここでも成り立つ。オリンピックで金をかけても、その分他の公共支出が減れば、国内に落ちるお金は同じだ。結局、公共投資の総額が変わらなければオリンピックで経済が追加で潤ったりはしないのだ。

 さて、東京オリンピックの経済効果なるものが、どこまできちんと計算されたのかは知らない。が、過去のオリンピック等の経済効果を調べた研究はたくさんあって、いずれもかなり悲惨な場合が多いという結果になっている。いずれも、事前の「経済効果」調査は上で説明したようなインチキだらけで、入場者見積もりも過大。整備した施設はたいがい使い道がなくて、維持管理費がその後の自治体予算を大きく圧迫している。

 かつては、国体やオリンピックや万博といった大規模イベントは、ある地域のインフラ開発を一気に進めるための口実として機能した。それは意味があっただろう。日本がまだ世界に追いつこうとがんばっていた頃には、国威発揚の意味もあったろう。去年の中国や、こんどのブラジルのように。かれらは自分の国の発展ぶりを世界の人に見てもらいたいはずで、オリンピックはそのまたとない機会だ。でも日本はどうだろう。いま、日本が世界に見て欲しいものって? ないでしょう。

 だからやるなら、きちんと計算してやって意味があるものをやろうよ。今回、東京はその意味を国民にもIOCにも説明し損ねた。それが最終的には敗因ではあって、その意味でぼくは落ちてよかったとさえ思っているのだ。


■ 2010年03月号(20号)

連載第4回 政府のデフレ宣言とその対策

 政府がやっと、デフレ宣言をするとのこと。ありがたい、と思う一方で、宣言するだけでなくちゃんと対策をしてほしいと思う。日本はこれまで十年にもわたり、デフレを放置してきた。その結果がいつまでもダラダラと続く不景気であり、若年層の失業、そして社会全体に蔓延する、先の見通しの暗さなんだから。

 さて、デフレと言ってもピンとこない人が多い。多くの人はインフレなら一応わかる。インフレでは物価があがる。すると手元のお金で買えるものが減ってしまう。これは困る。

 でもデフレは? なぜいけないの? インフレがよくないなら、その逆はむしろよいことなのではないの? そう思うのが人情だ。

 そしてそれは、一部の人にとっては事実だ。手元にいまお金をたくさん持っていたり、将来の所得が保証されたりしている人にとっては、デフレはたいへんに結構なことだ。いまのお金や将来の所得の価値は、デフレならどんどん上がる。すでに仕事に就いている人や、年金が確保されている高齢者にとっては、こんな結構な話はない。

 そして、日本で政府やメディアで各種の政策決定や発言をしている人たちは、もちろんこういう安泰な立場にいる。だからそういう人たちは、これまでデフレの害を真剣に考えてこなかった。物価が下がるからすばらしいとか、円高になるので海外旅行でウハウハですよとか、むしろデフレはよいことだと本気で主張して、デフレを放置してきた。

 でもデフレには一つ大きな副作用がある。それは、人がお金を使わなくなるということだ。

 マンションを買うときだって、来年は値上がりすると思ったら、なるべく早めに買おうと思う。でも、デフレということは来年は今より値段が下がるということだ。だったら、慌てずに来年まで待とうと思うのは人情だ。

 そしてみんながそれをやるようになる。個人も大きな買い物をしない。企業も、設備投資を先送りする。すると、経済全体でみんなが使うお金が減る。ということは、ほとんどの店や企業の売り上げは減る。

 売り上げが減ったら——そう、読者のみなさんも体験しているかもしれないけれど、企業はコストを減らす。外注費を減らせ、タクシー禁止、出張の飛行機はエコノミークラスか格安。でも、ある会社にとってのコストは別の会社の売り上げだ。タクシー禁止にしたら、タクシー会社の売り上げはもっと減る。するとタクシー会社は経費削減で、車を買い控え……

 こうしてデフレは、不景気に直結する。

 それだけじゃない。多くの企業では、コストの中で人件費が大きい。でもいま雇われている人たちの給料を下げるのはなかなかむずかしい。経営陣だって組合とケンカするのは面倒だ。すると、まずは新卒を採らなくなる。いそしてなるべく非正規労働に頼ろうとする。そして、それでも足りなければ、会社ごと倒産する場合だって増える。そこで職を失った人たちは、拾い上げられることはない。そもそものパイがないんだから。

 つまりしわよせは、既得権のない人たち——特に若者や現在の失業者たち——に向かう。そしてデフレが続くとみんなが思ったら、この状況は絶対に改善しない。将来も不景気が続き、そして既得権を持った高齢者や特権階級を、職もない若者たちが恨めしそうに眺めている——そういう状況が続いてしまう。

 さて、デフレを解決するなんて簡単な話だ。日本銀行がお金を景気よく刷りまくって、しかもそれが当分続くとみんなが思えばいい。この「当分続くとみんなが思う」のが大事で、日銀はいままで量的緩和とかゼロ金利とか、お金を増やす政策を採った時でも「とりあえず刷るけど、すぐにやめるかもよ」と言い続けてきた。だから状況は一向に改善しない。そしていまなお、何もしないまま手をこまねいている。今回、政府がデフレ宣言をしたことで、過去十年も続いてきたこの状況が打破されることをぼくは願っているのだけれど……


■ 2010年03月号(21号)

連載第5回 JAL再生に政府が口を出しすぎてはいけない。

 すでに旧聞に属する話だけれど、日本航空が再生機構のお世話になることとなった。そういう話が出たのはしばらく前で、だから昨年末から年頭にかけて、日航便の国内線に乗ると「お騒がせして申し訳ありません」とスッチーさんたちが謝ったりしたのに出くわした人もいるだろう。

 だけれど、ぼくはあれは、現場の人たちが謝ることではないと思うのだ。マスコミの報道だと、年金が高いのに組合がごねて引き下げに合意しないとか、とかパイロットが高給取りだとか、そんな話ばかりが伝わってきた。でも、ぼくはそんな話が原因ではないと思う。もちろん、日航は労働的な問題もある。時代についていけてない部分もある。もう飛行機に乗るなんてご大層なことじゃないんだし、そんなご立派な「サービス」なんて必要ないでしょう。でもそれ以上に大きな問題があると思う。そもそも日本航空が経営難に陥った大きな原因は、ナショナルキャリアだからというお題目で、政府にいろんな無理を押しつけられてきたせいなんだもの。

 どこぞの知事さんが人気取りで作らせた、どうみても客のいない地方空港に、どう見ても収益性のない便を無理矢理飛ばせられて、その空港の建設にもあれやこれやでお金を出させられ、そんなのがつもりつもって、あまり儲からない体質になっているのだもの。それを今になって、コスト意識がとか民間的な経営が必要とか政府の人たちが言っているのを聞くと、どの口で言うか、と思ってしまうのだ。

 民間の人をつれてきて再建計画を立てさせて、というのを今やっている。やろうと思えばできるだろう。本当に民間的なコスト判断に何でも任せてくれるなら。あそこは売って、こっちは潰して、ついでのあのXX空港とYY空港への便は廃止(どっちの空港もそれで定期便はなくなるけど)。それをきちんとやらせてくれて、政府がそこに一切口をはさまないなら成功するかもしれない。現場の人もやる気が出る。自分の努力が直接会社の業績を左右するようになればね。コスト削減を少しがんばっても、どうせ政府が変な負担を押し付けてきて、赤字になるに決まってるという状況では、人は努力しない。むしろ自分も少しコスト多めに使っちゃえ、と思うだろう。大勢に影響ないもの。

 でも、政府はそれをやらせてくれるだろうか。XX空港への便、やめていいですか? ぼくはたぶん、ダメと言われるだろうと思うのだ。実は日航が上場廃止になったその日に、政府は日航に無理矢理国産ジェットのMRJを買わせるよう促すという発表をした。政府はまだ、日本航空をそうやって自分のおもちゃとして使えるつもりなのね。MRJはいい飛行機になりそうだという噂は聞くけれど、でも再建するためには、そういう政府のごり押しをやめて、自分たちの判断で路線決定も機材決定もさせるようにしなくてはいけないのに。やれやれ、大丈夫かなあ。

 同じ問題を郵便局も抱えている。いまの政府は、民営だの国営だのにこだわっている。でも実は、そんな所有形態なんかどうでもよくて、本当に事業の善し悪しを左右するのは、競争があるかどうか、そして自分の判断で動ける裁量の余地があるか、なのだ。前の社長は立派で、東京駅前の郵便局建て替えに鳩山(総理じゃないほう)が口をはさんだとき、「口を出すなら金も出せ」ときちんと言えた。あれでぼくは、郵便事業も政府のおもちゃ段階をうまく脱出できたようだと、少し安心したのだ。それが思いつきの方針転換でまた国営になって、途中まで動いていた日通との提携もご破産。政治のおもちゃにされて右往左往させられ、国営とか民営とか体面ばかり気にして、事業自体をどうするかという見通し皆無。現場は困っているだろうし、やる気も起きないだろうし。かわいそう。民間に任せるなら任せる、丸抱えで口も出す分面倒も見る、どっちかはっきりすれば、日航も郵政も数年でまともになると思うのだけれど、今のままだとどうなりますやら。


■ 2010年06月号(22号)

連載第6回 ギリシャ危機が如実に示すユーロの危うさ

 執筆時点ではギリシャの財政危機に端を発するユーロ危機がやっと消火……はできておらず、でも新しい展開がなくてメディアで報道されなくなっている。これが出ることには、何かめどがついていると願いたい……がむずかしそうだ。

 さて、そもそもなぜギリシャが、という話はローカルな問題だからどうでもいい。でも、その後の騒動はユーロという仕組みの根幹に関わる、とても大事な事件だから、理解していて損はない。

 ユーロの話をしようとすると、必ず出てくるのが歴史だの文化だののうんちく話だ。欧州統一という数世紀前からのハプスブルグの野望がとか、キリスト教文化圏が、とか。でもそういう話は一切無視してかまわない。現実世界は、そんなバカな浪花節では動かない。実利をきちんと理解しないとダメだ。ユーロ&通貨統一のメリット・デメリットとは何だろうか?

 通貨を統一するメリットは、だれにでもわかる。外国出張をした人ならご存じの通り、外貨両替は面倒だしレートはすぐに変わる。為替レートがかわれば、契約時点ではお得に見えた取引が、一転して大損になりかねない。通貨が統一されていれば、そんな心配はない。域内の企業が、為替変動リスクなしで取引ができる。すると取引は活発化するだろう。貿易が増え、経済は活性化するはずだ。

 これは理屈としては正しい。が、研究によれば、通貨統合の恩恵はかなり小さいようだ。ユーロに入れるほどの国は、もともと為替リスクが小さい。また、通関制度や国内認証の仕組みなどをEUの標準に合わせるために、かなりの制度改革が必要になる。ユーロの成功とされるものは、共通通貨のメリットよりも、そうした制度改革の影響がずっと大きいのだ。

 だいたい、もし通貨統合がそんなにメリットがあるなら、なぜ他の地域は次々にそれをやらないの?

 それはもちろん、不具合が生じるからだ。通貨を統合すると、その各国は独立したマクロ経済政策をほとんど持てなくなってしまう。不景気になっても、打つ手がなくなってしまうのだ。

 ギリシャの状況がまさにそれだ。ギリシャは財政赤字が問題視されている。昔なら、中央銀行がお金を刷ってそれを穴埋めすることも一応はできた。税収をふやすために景気をよくしようとすれば、金利を下げて景気を刺激しただろう。また為替レートも変わってギリシャが輸出しやすくなり、自動的に調整が行われた。

 ところが、いまギリシャはそういう手立てを一切持っていない。ユーロの金利はギリシャだけの都合では決まらない。為替レートはない。自分でお金を刷ることもできない。何もできない。だれか——たとえばドイツ——に、屈辱的な土下座をして身請けしてもらうしかない。

 これは、ユーロという仕組みの持つ宿命的な欠陥だ。そしていま、まさにその欠陥が露呈している。

 仕組みを大きくしたら、小回りがきかなくなる——要はそれだけの話。ユーロ圏が全体として成長していたときには、どの国もまあまあ好況で、税収も増えて財政もなんとかなりそうだし、小回りがきかなくても大きな問題にはならなかった。が、それが崩れると……

 そしてこれは、ときどき賢しらな評論家や政治家が持ち出す、アジア共通通貨といった話でもまったく同じ。かれらは、小回りがきかなくなる危険をちゃんと考えているだろうか? 国ごとの経済政策を放棄することの意味を、ちゃんと理解しているだろうか?


■ 2010年08月号(23号)

連載第7回 増税で景気回復なんてありえません。

 管首相は増税による景気回復なんてことを言っている。そのために消費税をあげましょう、というわけだ。参議院選での惨敗もあって、最近はあまり表だって増税の話はしなくなったけれど、だれも管首相がそれをあきらめたとは思っていないだろう。評判悪いから表向きは引っ込めただけなのは見え見えだ。

 それで国民がごまかされると思ってしまうことの是非は、ここでは扱わない。だがそもそも増税して景気回復なんて、ずいぶんおかしな話じゃないか? 税金をかけたら人は消費を減らすのがふつうなんだから。みんなそう思うからこそ、この議論は疑問視され、話題にもなってきた。この議論はどこまでまともなんだろうか?

 実は税金の話は、そんなにむずかしいことではない。一方にはぼくたちのような人々がいる。ぼくたちが仕事をしてお金を稼ぐ。その一部を国が税金として持っていく。ぼくたちは残りを、貯金したり消費したりする。政府は税金を使って、公共事業などでお金を使う。ぼくたちとしては、自分のお金の使い道は自分で決めたいから、税金なんか持って行かれたくない。でも社会全体として有益な事業(道路造りや警察や軍隊)は政府がまとめてやったほうが効率的だ。だからみんな、文句を言いつつも税金を払うわけだ。

 つまり税金は、人々の勝手に任せるよりも政府のほうが効率的にお金を使えるときに正当化される。

 さて日本はいま不景気だ。不景気とはつまり、人々がお金を使わないということだ。だから、もっとみんながお金を使う方法を考えなくてはならない。ところが一人一人の国民は、ほうっておくと稼いだお金を貯金してしまう。するとここで税金の出番となる。税金をかけて稼ぎをむしり取り、それを政府がかわりに使ってあげましょう! すると消費が増えて景気が回復します!

 これが増税で景気回復の理屈だ。そしてもちろん、政府はそのお金を使って有益な雇用を作る事業をたくさんやり、それでさらに景気は回復するでしょう!

 さて、確かにこれは理屈のうえではなりたつかもしれない。ただし……政府は本当に、景気回復に役立つようなお金の使い方ができるのか? 本当に、国民が自分でお金を使うより賢い使い方をしてくれるのか? 早い話が、すっげえ景気対策になるはずの子ども手当は、結局ほとんど消費にまわらず、ただの無駄遣いに終わったでしょう。そんな程度の思いつきしかできない人たちに、いっぱいお金を渡しても何か期待できるだろうか。

 そうはいっても、政府がお金を使うんだからその分消費が増える。それだけでもよいのでは、という考えもある。でもその一方で民主党政府は、無駄をなくすといって事業仕分けに精をだす。お金使いたくないのは明らかだ。さらに、消費税アップの理由は財政再建ためだという。つまり増税分はどう見ても、政府が消費を増やすためのものじゃなくて、政府が自分の赤字を埋めるのに使われる。政府が自分の貯蓄に使うも同然だ。つまり増税で景気回復という理屈はどっちも、政府の他の活動と合わせてみると、きわめて怪しげなものばかりなのだ。

 だいたい政府が支出を増やしたければ、もう一つ方法がある。借金だ。国債をもっと発行すればいい。そのほうが税金をかけるよりも人々の消費は歪まない。さらに、もし本当に景気回復に役立つ支出ができるなら、追加で借金しても後で充分返せるはずだ。それをやらないということは、実は政府は自分が景気回復を実現できる自信がないことのあらわれでもある。さて、そんな話を真顔で言われましても……と思うんだが。まして、それが少々不評だとすぐ引っ込めるほど腰の据わっていない話だとなるとねえ。

 いずれにしても税金を考えるときは、その使途が本当に政府のほうが効率よくできる仕事なのかを考えることだ。その点を見失わなければ、大ざっぱな税金の話はそんなにむずかしいものではないはず。


■ 2010年10月号(24号)

連載第8回 中国人が世界で活躍する理由

 中国がらみの話は最近とくに尖閣諸島問題に集中してしまっているのでアレだが、その直前に中国のGDPが日本を超えたというニュースが流れたのをご記憶の方も多いだろう。

 このとき、世界経済の構図が変わるとか経済の覇権がどうのとかいうニュースが流れたが、正直言ってこれ自体は大した話ではない。なんといっても中国の人口は日本の十倍。一人当たりの豊かさが、やっと日本の十分の一になったか、というだけのことだ。中国は物価が安いから、同じ所得で実際に買えるものは日本より多いけれど、購買力で見ても一人あたりで日本の五分の一。むろん、中国全体が均等に豊かなわけではないので、貧しい地域はまだまだ本当に貧しい。かれらがそこそこ豊かになってくれるのは、人道的な意味でも重要だろう。

 またしばしば人が誤解することだけれど、経済はゼロサムゲームではない。中国が豊かになったら日本がその分貧しくなるというものではない。むしろ中国が豊かになったら、その分日本のものも買うようになる。お互いにありがたい話だ。中国の経済発展は、別に恐れることではない。

 とはいえ、経済に勝ち負けはないのだけれど、中国を見ているといろんな局面で日本が圧倒されていると感じるのは事実だ。かれらは押すところではなりふりかまわず押してくる。アフリカで、地元の商業を含め各種の事業を中国人が抑えているのを見ると、なんだかすべて中国人に奪われてしまうような気もしてしまう。

 でも……中国人は現地に移住して、地元の人もしっかり雇い、ガシガシと商売を進める。そこまで腰のすわった入れ込み方をしている日本人が何人いるだろう。かれらがいろんなところに入り込んでいるのは、十分な気合いを入れているからでもある。

 人材育成に力も入れ、裾野が広いだけにトップの優秀さはすさまじいものがある。政治だって、強硬だが腰がすわっている。突っ張るところは突っ張るし、押せるところは図々しく押せるし、ブラフも開き直りも使える。やられる側としてはおもしろくないが、でも日本の政治家の弱腰無策ぶりを見ると、中国の半分でも気概があれば、とつい思ってしまわないだろうか。

 産業の導入も戦略的だ。かつて中国は、日本のあらゆる製造業を受け入れ、貪欲に技術を吸収した。そしてごく単純な消費財から家電、車と進み、あれこれなだめすかして新幹線を入れさせ、その技術を見事に/図々しくコピーしおおせている。

 単なるコピーだ、とけなす人もいる。でも技術をコピーするのも大変なことだ。日本車の優秀さを何年も見ているくせに、アメリカは日本車に匹敵するものを未だに作れないだろう。中国はそれだけの技術を身につけている。そして、電気自動車などでは中国オリジナルの部分も生まれるんじゃないかとされる。

 本当であれば、日本はその間に自分でも技術革新を進めて、中国がコピーを完成させる頃には、それをはるかに置き去りにするものができるようになっているべきだった。中国のコピーを脅威に感じるのは、それができなかったことに対する弁明でもある。

 むろん、特に隣人であれば中国のやり方は頭にくることも多い。そして、経団連のように、とにかく中国とは穏便にすませてケツなめに徹しろというつもりもない。日本としても、政治的にもっと主張すべきところは主張してほしい。ただ、勇ましいことを言うだけで満足しないでほしい。中国を見て、許せないとか人権がとか言うことは簡単だ。でもその一方で、かれらが上手にやっていることは、よく見て真似できるところは真似しなくてはならない。さっきも言ったけれど、いま中国が脅威に思えるのは、日本が進歩しなかったことの裏返しでもあるんだから。そして実は、中国がやっていることの多くは、実はかつて高度成長期の日本がやっていたことの真似でもある。それを学び直す必要があるんじゃないか。


■ 2010年12月号(25号)

連載第9回 自由貿易の恩恵と農家の既得権益

 これを書いている時点では、日本がTPPに参加すべきかどうか、という議論が少し起きている。TPPとは環太平洋パートナーシップなる代物で、要するに一部の国で例外なしの自由貿易圏を作ろうという話だ。経団連はこれに参加しないと日本の未来はないといい、農業関係者はこんなものに参加したら国が亡びるという。新聞をはじめ各種の国内メディアは、公平なポーズを取りたいせいかこの両者を同じ扱いで併記してしまうことが多いので、一般の読者はこれがずいぶん判断の難しい問題であるかのような印象を抱いてしまっている。

 でも、この話ほど結論がはっきりしているネタは珍しい。日本全体にとっては、TPPに参加するのが圧倒的に得。おしまい。

 いやこれは日本だけじゃない。貿易は自由化するのがいちばん。これは経済学においてほとんど文句なしの正しい知見なのだ。関税は撤廃しよう。輸出入の制限はなるべくなくそう。いろんなものが自由に動くようになったら、ぼくたちの選択の幅は広がる。安いものが手に入るようになるし、自分たちの製品だってもっと売りやすくなる。保護貿易でものの動きを制限し、経済のブロック化を進めてしまったことが、かつての世界大戦の原因にもなった。いろんな意味で、貿易は自由化するほうがいい。だからこそ世界中でそれを実現すべく、GATTなんていうものがあって、貿易自由化を一生懸命進めている。

 でも、そんなにいいなら、なぜ黙っていても一瞬で貿易は自由化しないのか?

 それは、保護貿易の利益を被る人は国内のごく一部に集中し、その損害を被る人は、うすく広く広がっているからだ。日本のぼくたちは、日本の農業保護のおかげでものすごく高い米を食わされている。米の輸入が自由化されれば、日本全体でみれば得のほうが圧倒的におおい。米農家は競争で苦労するけれど、その他の無数の人々は安くておいしい米が買えるようになるんだから。が、一人一人はそんなに得をするわけじゃない。月に千円くらいの節約だろうか。一方、その恩恵を受けている日本の米作農家は、少数だがものすごくオイシイ立場にある。すると、米を自由化しようとしたとき、米作農家はものすごくがんばって反対するけれど、利益を受けるぼくたちは、月額千円くらいのことで大騒ぎしようとはしない。政治は声の大きいところが勝つので、農家の言い分が通る。これと同じ現象が各国のいろんな産業で展開されるため、自由貿易推進は総論賛成各論反対で、身動きがとれなくなる。

 そこで話を進められる国同士だけでも自由化を進めようというのがTPPの発想だ。これまでにも、地域での自由貿易協定や二国間の自由貿易協定はたくさんあった。でもこれも、「ここは対象外ね」とかいう例外が結構あった。TPPは、そういうごまかしなしで自由貿易しようぜ、という話だ。

 日本農家はいま、補助金と関税に守られている。TPP下ではそれがなくなってしまう。だから大騒ぎして反対するというわけ。食糧自給率が下がると国の安全保障に関わるなどと言って。でも日本の農業はどのみち石油づけだ。本当の意味での自給なんかまったくできていない。そして保護されている産業の常として技術革新よりは政治工作に血道をあげ、他の国民に負担を強いて平気だ。ほとんどの場合、「保護」はその産業を殺してしまうのだ。

 農家はこれまで政治工作として自民党の強い支持基盤となり、おかげで日本では農協に逆らうような政策は取れなかった。民主党は都市住民の支持が多い政党とされ、農家のエゴなんか考慮せずに自由化を進められるという期待もあったが、いまのところこの件ではずいぶんと農家のごきげんうかがいが多いのはたぶん選挙のときに何やら取引でもあったのかな。でもそれは、国益を犠牲にしてごく一部の利権を守ることなのだ、ということは、当事者たちも、そしてそれを見守るぼくたちも充分に理解しておくべきだろう。


■ 2011年03月号(26号)

連載第10回 北アフリカの自由化と学生運動

 ここ数ヶ月、世界で最も大きな話題が北アフリカ諸国の騒乱だというのはだれもが認めるところだろう。この欄は日本を中心に経済的な話題を扱うのが趣旨なんだけれど、今回はちょっとそっちにも話を広げよう。

 とはいえ、これはなかなかむずかしい。というのも今回の騒乱は、未だによくわからないからなのだ。なぜ北アフリカ諸国で突然、連鎖反応的にデモが起き、それまで盤石に見えた各国の政権が崩壊してしまったんだろうか?

 こうした国はいずれも、大統領が長期政権を敷いて実質的に独裁制だった。そういう独裁者の圧政に人々が苦しんでおり、自由と民主主義を求めて人々が立ち上がったのだ、という説明はわかりやすいし、みんなそういう話にしたがる。

 でもその一方で、じゃあ具体的に人々がどう苦しんでいたんだろうか。どこでも言論の自由はかなり制限され、あまり政府批判的なことは言えなかった、というのは事実。でもそれがこれらの国で特にひどいわけじゃない。

 こうした国々で、一部の人々が失業や貧困に苦しんでいたというのは事実。そこから、独裁政権の汚職により人々が貧困にあえぎ、それが反発を招いた、というような報道もされている。でも、それは明らかに変だ。

 今回騒動が起きた多くの諸国は、まさに独裁者の強権のためにかなり積極的な産業政策が展開されていて、所得もあがっていたし、格差も特に拡大はしていなかった。いまなお激戦の続くリビアなんか、石油収入でものすごい失業保険がもらえた。だから経済的な理由からみんなが立ち上がったというのも、あまり納得できる説明ではない。

 ツイッターやフェイスブックによりこうした革命が起きた、という説もある。確かに、こうしたツールが活用されて騒乱が加速した可能性はある。でも、そもそもみんなが命がけでデモをしようと思った理由は、それだけではわからない。

 すると……いまだに話はよくわからないのだ。

 実はこれと似たような事態は昔もあった。本誌の読者のみなさんはもちろんあまり知らないだろうし、ぼくだって直接体験したわけではないけれど、1960年代にはアメリカやヨーロッパや日本の学生たちが次々にデモを起こし、社会を揺るがせた。この時も、みんな喰うに困っていたわけじゃない。経済も順調に成長していた。でも、学生たちは蜂起した。その理由は未だに謎だ。

 そして昔から言われている説は、「豊かなのに蜂起した」ではなく「豊かだから蜂起した」なのかもしれない、というものだ。

 その昔、現代社会主義の基礎を築いたマルクスは、下部構造が上部構造を規定する、と述べた。下部構造というのは経済で、上部構造というのは政治や文化だ。多くの人は、いまでもこの説に説得力を感じているけれど、でも実はそうでないのかもしれない。

 世界のテロリストを調べてみると、最貧の貧乏人はほとんどいない。サウジ大富豪一家出身のビン・ラディンを筆頭に、みんな豊かな家の出だ。本当の貧乏人は今日明日の生活で頭が一杯で、社会の矛盾や理想なんかにかまけている余裕はない。そんなことを考え、そして一文の得にもならないデモなんかに参加できるのは、頭でっかちで喰うに困らない暇な大学生なのだ。

 60年代の先進国も、そしていまの北アフリカ諸国も、暇な大学生(および大卒失業者)比率が結構高い。なにかそこに原因があるんじゃないか?

 これはもちろん、ただの仮説だ。でもぼくはちょっと説得力を感じている。そしてそれが発端になって、かなり安定しているように見えた社会があっというまに瓦解するなら、堅牢に見える社会も実はずいぶん脆い基盤の上に成り立っているんじゃないか。おそらくこの雑誌が出る頃にもまだ続いている北アフリカの報道を見つつ、ときにはそうした社会の成り立ちや、それがいまの日本にとって持つ意味合いも、考えてみてほしいなと思うのだ。

推薦図書

『テロの経済学』
テロは貧乏人が引き起こすのではなく、金持ちのボンボンが引き起こすことを示して世界のテロ対策を大きく変えた一冊。
『1968年』
日本の60年代学生運動を、ここに書いたような視点で分析した本。近づきがたいほど分厚い大著だけど、余裕があれば是非。

■ 2011年06月号(27号)

連載第11回 震災復興には国債の大量発行を

 今回は、震災復興もそろそろ本格化してきて……というようなことを書きたいと思っていたんだが、正直言って今の国の復興取り組みはあまりに不満だ。仙台その他大都市を中心に、あちこちの商店街や施設がまがりなりにも営業再開した、といったニュースは入ってきている。その一方で、あそこは未だにがれきの山、こちらの避難所はまだ何の見通しもなくて炊き出しを待つ人々が、といった話もきこえてくる。

 全体としては復興は進んでるの? 何が済んで、何が足りないの? なんかしたいけど、そろそろあちこちで募金をねだられるだけなのも飽きてきたし、ボランティアに出かけるほどの休みも取りにくいし……そう思っているうちにだんだん最初の熱意も冷めてきて、すると国もまじめにやらなくなって、結局じり貧で歯抜け状態のお粗末な復興に終わってしまう——そういう事態は避けたいところなんだが、今のままではまさにそうなってしまいそうな雰囲気だ。

 本気でやるなら、もっとおもしろみのある方法を使って、だれないような演出も考えつつ、しかも成果と課題がきちんとわかるような形でやらないと。まずは、どこがどうなっているのか見える化しよう。『24』とかアメリカのサスペンスドラマみたいに、復興の陣頭指揮を取る作戦本部を仙台に作って、被災地域のでっかい地図を写したスクリーン三枚くらい掲げて、被害状況と復旧の進行が一目でわかるようにしたい。首相は一日一時間ずつくらいはそこにいて、記者会見でもして「今日はここんところの道路がつながった」「ここのライフラインが回復した」くらいの話でいいから大喜びしてみせよう。それを見れば、残された被災者たちも、事態がどう進んでいるかわかるし、見捨てられていないことが納得できるでしょう。

 そういう情報を各地からまとめ、集約して整理すると同時に、各地域に目先の対応と長期的な再建計画を作ってもらわないと。そのために目先必要なお金はどんどん出し、計画にはいろいろ今までやりたくでもできなかった各種アイデアを盛り込んでもらおう。国がエコ何とかとか、勝手な思いつきを押しつけてはいけない。そして計画の中でとりあえず着手できるものは、全体がまとまる前にどんどん着手しよう。それがまた、上の成果発表につながる。

 さて通常なら、そういう投資は収益率や経済効率を見極めないと無駄になりかねない。でもいまは話がちがうのだ。平時ならほとんどの人やリソースがすでに活用されていて、追加の投資でそれ以上の効果を出すのは大変だ。でも今は、仕事する気があって技能もある人が、インフラや在庫や設備が壊れて仕事にあぶれてる状況だ。何やったって成果は確実に出る。経済性の計算するまでもない。

 さらに投資が遅れていま地元に残っている人や技能が散逸したら、投資の収益性はどんどん減るから、すぐに出そう。ばらまき上等。手早く金を集められる国債を出してどんどんお金を使おう。

 こう言うと、債券は後代にツケを残す、という議論をしたがる人がいる。でも、債券を出さずにお金をいま投資しなかったらどうなるだろう。いま避難所で淀んでる人たちが、そのまま腐って事業再生のタイミングを逃し、東北地方に復活するはずだった産業が死に絶え、働けるはずの人々がそのまま何も生産活動をできないまま年金や失業保険の受給者になるだろう。そのほうが、よっぽど将来のツケでしょうに。 いま出す国債は、むしろ後代にツケを残さないための借金になる。額面だけで騒がず、国全体の損得を考えないと。東北復興への投資が国債金利程度(つまりほぼゼロ)の見返りすらないと言うに等しい。要するに「どうせ東北に投資しても腐るだけ」ということだ。バカにしてると思わない? そういう人に限って、「私は東北の力強い再生と復活を心から確信している」と能書きだけは勇ましいのに。復活再生するんなら、東北にお金を出せば復活した東北からくる税収だけで、その分の国債償還くらいまかなえるはずなんだ。

 たぶん、企業づとめの多くの人は、この程度のことはすぐ考えついたと思うんだ。それが国としてすぐに実行できていればなあ。そうでない状況でぼくたちにできることは、仕事をがんばって利益を上げて、ついでに変な自粛をせずに東北の経済活動を活発化させる活動(観光とか)くらいしかないんだが……


■ 2011年08月号(28号)

連載第12回 アメリカの国債危機は杞憂

  本稿の執筆時点では、アメリカのデフォルト危機がひとまず回避されて、安堵感が漂っているところだ。同時に、円高が大きく進行して日本の輸出産業にとって大問題となりつつある。

 さて、このアメリカのデフォルトについては、ついにドル崩壊だとか、これだから財政規律は重要だとか、きいたふうな口をきく人がたくさん出た。でも、経済だろうとなんだろうと、絶対に当てはまる法則がある。Action speaks louder than words. あれこれ口先だけの評論家よりも、実際にそれに直接の利害を持っている人の行動を見よう。米国債の返済が滞っていちばん困るのは、米国債を持っている人々だ。デフォルトの危機があると思ったら、みんな売り逃げようとするから安値になる、つまり利回りがリスク分上がるはずだ。

 そして今回、アメリカ国債利回りがどうなったかというと……ほとんど変わらなかった。だれも本当にデフォルトするとは思っていなかったわけだ。

 なぜかといえば話は簡単。今回の危機は単に、アメリカが財政規律のためと称して借り入れの上限なんていう変なものを作り、そして共和党がオバマ政権への嫌がらせとして、この上限の引き上げに対してさんざんごねただけの、きわめて人工的なものだったからだ。

 これが問題になりはじめた七月初頭時点で、イギリスの「エコノミスト」誌はこの件について共和党を批判する記事を載せていた。国の信用を掛け金にしてくだらないチキンゲームをするな、といって。みんな知っているのだ。

 そして共和党だって、本当にアメリカが債務履行を起こしたら財政規律どころでないことは知っている。本当に突っ張って、本当にアメリカ国債がデフォルトしたら、そんな事態を引き起こした共和党が大バッシングにあう。どっかで手打ちせざるを得ないのはみんな知っている。

 それだけの話だ。ただ正直言って、ここまでごねまくるとは思わなかった。共和党も引っ込みがつかなくなったんだろう。そしてそれが結果的に、国そのものに対する通俗的な信頼を揺るがせたことで、共和党はかえって株を下げた。

 ……と書いているうちに、アメリカ国債が格下げになって、またもやニュースや通俗評論家は大騒ぎしているけれど、でもこれまた国債の利回りは全然上がっていない(債券は、ヤバイと思われたら利回りが上がる)。市場で実際に投資をしている人々はアメリカ国債がやばくなったとは、まったく思っていないわけだ。ま、格付けのあり方についてはまた別の機会に。でも、それをどう評価するにしても、実際の利害を持つ人々がまったく動じていないようだ、という点は留意していいんじゃないか。

 さてそれについて日本で大騒ぎしてみせる人々は、単に無知なのか、あるいは魂胆を持っている。日本の場合、それは日本の財政赤字がヤバイと言って、話を増税に持って行きたいという魂胆であることが多い。

 さて円高のほうも、ドルの動きやユーロ圏の状況など、いろいろ要因はある。でも為替は基本的には、それぞれの通貨の相対的な量で決まってくる。円高を阻止したければ、日銀がもっとお金を刷ると明言し、国内の通貨量を増やせばすむ。そしてまさに、円と同じく通貨が高くなってしまったスイスは、ちゃんと金融緩和を発表して、きちんと通貨を引き下げた。が、日銀は輸出業界が悲鳴を上げてもひたすら「注視する」というだけで何もしない。デフレで景気が低迷しても何もしない。

 いまの日銀はいったい何のために存在しているのか、というのは多くの人が抱いている疑問だ。そう言われると、かれらはなぜ自分たちが何もしないか、というのだけはえらく雄弁に弁解する。そしてそのお先棒をかつぐ学者も多い。でも、日銀の中には、金融を緩和したら負けで、金融を引き締めると勝ち、という価値観があるのだ、という話がある。

 インフレが問題だった時代には、それは適切な態度だっただろう。でも状況が変わった今もそうした昔のやり方を変えられずにいるとすれば、本当に日銀が何を目的として政策運営をすべきかについては、きちんと見直して外から枠をはめたほうがいいんじゃないか。そうでないと、デフレも円高も絶対なくなりそうにない。



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