『中央公論』 2008/01号 p.258
『中央公論』 2008/01号
スティグリッツ『スティグリッツ教授の経済教室』(ダイヤモンド)
泣く子も黙る天下の大経済学者スティグリッツの、長大な書き下ろしを加えた雑誌連載エッセイ集。かれのよさは、その理論家としての鋭さと同時に、政治的・人間関係的な配慮が一切ないところだ。おかげで世界銀行の主任エコノミスト時代には、内外の力関係を完全無視。根回しとか調整とか駆け引きとかいう配慮のかけらもなしに身内同然のIMFをボロクソにけなして関係者蒼白。世間知らずの学者教授めと、早々に蹴り出されたのだが……
それをきっかけにかれは明らかに変わった。象牙の塔の理論経済学者から、現実の問題に対する鋭い切り込みを次々に行うようになる。本書はその集大成だ。そしてまったく政治的配慮をしない人物であればこそ、その発言は説得力を持つ。かれの言うことすべて明確な理論的帰結でしかなく、変な利害関係で歪んでいないからだ。
もちろんそのすべてが正しいとは言わない。特に地球温暖化の話は、まだ未知の部分が多い話にあまりに硬直的な形で対処しようとしていて疑問ではある。だが正しいグローバリズムのあり方、年金問題、各種自由化、そして旬のサブプライムローン問題まで、純粋経済問題では快刀乱麻を切る明快さ。
そしてわれわれにとって重要なのは、日本についての部分だ。日本のいまの不景気はすべて日銀の失策によるものだということ、日銀の主張する中央銀行の独立性なんてのはどうでもいいこと、デフレ解消がきわめて重要なのにまともな対応がなされていないこと――いわゆるリフレ派の主張そのもの。これが理論的で政治的偏向のない見解である以上、それを否定する各種見解は、理論的な無知か、政治的思惑で歪んでいるんだということを、一人でも多くの人が本書で理解してくれれば、日本経済の夜明けも近づくはず。ちょっとでも現実の経済に関心のある人、必読の一冊。ついでに本書をきっかけにかれの教科書まで制覇してくれれば――が、そこまで行かずとも、この手加減を知らない熱い筆致を読むだけでも元気が出ます。是非是非!
それと蛇足だが、この題名とこの表紙のデザイン、どっかで見覚えがあるんだが……
コメント:なおこの号は、斉藤貴男の「禁煙ファシズムにもの申す」(pp.226-233) が限りなく痛い。ここで指摘した話が、何も調べることなくすべて蒸し返されているだけ。
『中央公論』 2008/02号
『中央公論』 2008/02号
テイラー『テロマネーを封鎖せよ 米国の国際金融戦略の内幕を描く』(日経BP)
アメリカが世界の警察官を気取るのは、時にうっとうしい。が、かれらが世界のために優れた力を発揮することが多いのも事実だ。本書は、国際金融の分野でのアメリカの介入を赤裸々に述べた驚異の一冊だ。著者はあのテイラールールのテイラー、と言ってわかる人はわかるだろう。理論家としても優れた業績を示したかれが、爆撃後のアフガンニスタンやイラク復興、トルコ、世銀やIMF、そして日本で、実務家として金融の安定化に八面六臂の活躍を見せる。財政援助を各国からとりつけ、債務救済を推進し……。
それぞれの活動は、一応筋が通っているし、著者たちが真摯なのもまちがいない。が、本書を読んで人は複雑な思いにかられるだろう。そもそもアフガンもイラクも、アメリカが無意味な爆撃しなきゃこんな面倒にはならなかった、というのは言わぬが花にしても、世銀やIMF「改革」については、援助の現場にいる評者としては疑問。また前回ご紹介したスティグリッツなどは、IMFなどによる途上国等への金融介入についてきわめて批判的なので、かれが本書を読んで何というか、是非きいてみたいものだ。
そのスティグリッツも、本書の第八章には拍手喝采だろう。日銀の失策による失われた十年からの脱出のため、著者は日本の財務省に細かく指示を出して、為替介入を通じた大規模な金融緩和を実施する。日本のマクロ経済がここまでアメリカに細かくコントロールされているとは唖然。日銀が中央銀行の独立性を騒ぎ立てる尻ぬぐいのために、国の経済政策の独立性が失われているわけだ。そのおかげでここ数年の、日本の景気回復らしきものが見事に実現したので、文句を言える立場でもないが……
理論面でも実務面でも、国際マクロ経済政策に関心ある人は必読。翻訳は生硬だが、もとの文がシンプルなので実害はあまりないのが救い。また、邦題は売れ線を狙ったつもりだろうが本書の内容を示すものとしてはあまりに部分的で、本来の想定読者層をかえって遠ざけている。願わくば、著者のネームバリューがそれを補いますように。
『中央公論』 2008/03号
『中央公論』 2008/03号
山田『〈海賊版〉の思想』(みすず書房)
著作権は、一定の期間がくると切れることになっている。その後は、万人が自由にそれを使ってかまわない。いまシェイクスピアや夏目漱石を出版しようが翻案しようが映画化しようが、何のあいさつも支払いも不要だ。だが、こうした仕組みは勝手に空から降ってきたわけではない。だれかがそうした仕組みを決めた。本書はその発端となったイギリスでの裁判を中心に、著作権をめぐる種々の考え方をきれいに描き出してくれる。
作者から買いたたいた著作権で独占商売を計る当時のロンドンの書店主たち(というのは今日的には一大メディア企業に相当する)、それに対して安価な「海賊版」を自由に出す権利を求めたスコットランドの書店主。かれらの議論は、現在進行中の知的財産権談義と見事に重なる。著作権強化を図る側は、実は作者たちに雀の涙ほどの金しか払っていなかったのに、裁判になると強化の根拠として文化を守れだの著者たちのためにだのと述べて、文化の守護者を気取ろうとする。だが本書はかれらの実態(そして決しておきれいではなかった「海賊版」書店主たちの)実態もきちんと解説し、当時の議論に明快な視座を与えてくれる。いまからふりかえって、本当に文化のためになったのはどっちの議論だったろうか。
文化を守るために知的財産権強化を――これは日本でも世界でもいまや声高に唱えられる議論だ。文化をたてに(作者ではない)著作権業者たちが、iPod にもカーナビにもありとあらゆるものに課金しろと騒いでいる。だが十八世紀イギリスでの議論を背景に、著者はそうした議論を軽くいなす。そんなに文化がだいじで作者を大切にしたいなら、まずあなたたちが印税率を上げたらいかがか、と。本書を読めば、いまの多くの議論が、実は何世紀もまえの議論の蒸し返しであることがわかる。二十一世紀のわれわれは、それに対しどういう答えを出すのか? まさに歴史に学ぶための一冊がここにある。
『中央公論』 2008/04号
『中央公論』 2008/04号
ピサノ『サイエンス・ビジネスの挑戦』(みすず書房)
ネットだ IT だという話は十年以上前から盛んで、そしてそれに続くのがバイオだ、というのも同じくらい昔から言われ続けていた。が、IT 業界はあれやこれやとネタが出てきてバブルとその破裂を繰り返し、何かと賑やかなのに対し、バイオ業界は……鳴かず飛ばず。ヒトゲノム解読や、クローン羊など、たまの話題はある。でも、バイオ長者は、この業界登場後 30 年たった今も出ていないし、またバイオ技術で実現するとされていた製薬革命も起きていない。なぜなんだろうか?
この本はそれを分析した本だ。いったい IT とバイオはなにがちがうのか? その理由は、バイオ技術の持つ特殊性にあるのだ。
はやいはなしが、IT は切り分けができる。たとえばソフトウェアとハードウェアが明確に分か、独立に研究開発できる。ところが、バイオはそれができない。ヒトゲノムは一応解読できたけれど、それがどう畳まれてタンパク質作りにどう使われるのか――つまり何がどこにどう影響するかさっぱりわからないのだ。
それでも学問は発達し、見込みのありそうな現象が見つかる。でもおかげで調べなくてはならない範囲が広がりすぎて、個々の物質についての研究は結果としてかえって減る場合も多い。さらに、バイオは有望と思っているベンチャー資本がすぐに金を貸して学者に起業させ、おかげで学問に必須の情報共有まで阻害されるんだと。
結果としてバイオは、IT みたいな華々しい発達はしないし、またいまのベンチャー資本のやり方ではかえって足を引っ張る。じゃあどうすればいいのか? バイオ産業向けの新しいビジネスモデルや資金提供モデルまで考えた本書は、新産業育成一般についての大きな示唆も与えてくれる。要は、柳の下に2匹目のドジョウはいないんだから、相手によってやり方は変えないと、というあたりまえの話なんだが、それをきちんと調べ、説得力を持って述べた本書は、バイオ業界に直接関わりのない人にも大きな示唆を与えてくれるはず。
『中央公論』 2008/05号
『中央公論』 2008/05号
サクセニアン『最新・経済地理学 グローバル経済と地域の優位性』(日経BP)
かつて『現代の二都物語』で、ルート 128 地域に対するシリコンバレーの勝因を分析して話題をさらったサクセニアンの新作。その答えは、人材の極端な流動性からくる自由でインフォーマルな情報流通だった。本作は国レベルでの分析だ。中国、インドなどの目覚ましい発展はなぜか、というもの。
安価な労働力と直接投資の規制緩和、というのが通常の答えだ。が、本書はそれだけじゃ不足という。それをテコに、独自の産業を興せるかが課題であり、それを実現するのは、昔欧米に留学して現地就職を経た帰国組による新興企業群なのである、と。本書はそれを豊富なインタビューで例証しており、たいへんにおもしろい。が、その応用は考えてしまうところ。
前作は、日本の自治体や不動産開発関係者に重宝された。地域の発展には情報交換の場が重要というお題目だけが抽出されて、地域に交流施設を作ったり、オフィスビルに変な共有スペースを設けて出会い演出(おおむね閑古鳥)とかの口実とされた。ちなみに、非正規雇用形態の称揚にも使われていた。終身雇用こそ日本経済のガンで、自由に人が動ける就労形態こそ発展の原動力、というわけ。その末路はご存じの通り。
さて、この本でそうしたお手軽な利用ができるかというと……どうだろう。頭脳流出なんか心配せず、どんどん留学させろ、とでも言おうか? でもそいつらに里心がつくまで何年かかるか。バングラデシュやマラウイで、確かにそういう人には出会ったけれど、20代で留学して帰国は50過ぎなんてざら。また、ベンチャー資本などを充実させ、帰国組の起業環境整備が重要、とも言う。でも、前回のこの欄をご記憶だろうか? ベンチャー投資による発展モデルが成立する産業は必ずしも多くはないのだ。IT以外でホントにこの話が成り立つのか? 本書の知見を真に利用するには、読者のほうにさらなる真摯な取り組みが求められる。だが論点は非常に刺激的。十年単位の長期的な地域発展を真剣に考える人には、多くのヒントを与えてくれるだろう。
『中央公論』 2008/06号
『中央公論』 2008/06号
高月『南極一号伝説』(バジリコ)
本書のタイトルを見ただけで、人は(特に男子は)こそばゆくも懐かしき、性の目覚めにもつながる郷愁をかきたてられるだろう……と思って同僚にきいてみたところ、驚いたことにおおむね三〇歳以下の人は、南極一号をご存知ないことが判明。うーん、若き読者諸賢の皆さん、南極一号(Z号)とはいわゆるダッチワイフ。流行の表現を使うなら、空気嫁である。その昔、南極越冬隊の性欲処理のために開発された、という伝説がある。
これがただの伝説かそれとも実在したか? 本書はそんな話を枕に(この文脈だと淫靡やね)、日本における「特殊用途愛玩人形」の発達を追い、その製作者たちへの緻密なインタビューでかためた、見事なノンフィクションだ。いまやこの種の商品は、かつての本当の「空気嫁」しか知らない人たちなら腰を抜かす(あっちの意味でも)ほどの水準に達している。造型も、感触も、実用性も。その開発者たちの傾ける情熱、採算度外視のプロジェクトXまがいの開発努力。いったい何がかれらをそこまで駆り立てるのだろうか?
そしてもちろん、一方で見えてくるのはそれを買う人間たちだ。性欲のありあまった若者の需要が多いと思われがちだが、実は奥さんが他界したりいやがったりする中高年男性の需要のほうが多いのだとか。そしていまや性欲処理の道具としてではなく、単にそばにある(というより「いる」)だけでいい、という人も多いというクライストの「マリオネット試論」もさながらの状況。ここにあらわれている方向性は、一方で人造人間めいたロボットの方向性と一致するようで、実はそれとは正反対だったりする。ネクロフィリアめいた雰囲気も漂わせつつ、一方では生とも強く関連している。南極一号を知らない諸君、本書を読んで、性と無生物との秘めやかな営みの世界を是非ともかいまみてほしい(そこから深入りするかどうかは自己責任)。それは可笑しくも悲しい……と書こうとしたがどうだろう。これは悲しいだろうか? だがいずれにせよ、ここにはなんだかよくわからない人間の未来のちょっとした萌芽がある、ような気がするんだが。
『中央公論』 2008/07号
『中央公論』 2008/07号
オールダー『嘘発見器よ永遠なれ』(早川書房)
嘘発見器! 刑事ドラマや犯罪映画にはつきもののアレだ。本書はその歴史をたんねんに追ったノンフィクションだ。
嘘発見器が本当に使えるのか、というのは昔から議論のわかれる。嘘をつくと人は焦ったりするので、ドキドキしたり冷や汗を流したり血圧が上がったりする——これはある程度正しい。でも結果をどこまで信用すべきかははっきりしない。平然と嘘をつける人もいるし、何もなくてもビクビクしている人は多い。嘘発見器はむしろ、容疑者を圧迫して自白を強要する心理的拷問装置の面も強い。世の激論の常として、肯定論否定論のどちらにも、それなりの根拠と正当性はある。それがこの機械のおもしろさでもあり、おそろしさでもある。
本書は、使えるんだから、と名声と営利を求めて突っ走ったキーラーと、濫用を恐れて慎重さを求めたラーソンというパイオニア二人の生涯を描き出すことで、この両者の見解を子細に検討する。そしてその受容が、アメリカの政治的状況——犯罪多発、アカ狩り、それに対する反発、テロ対策等々——によって大きく変わったことも示す。それは人が「真実」というものに置く価値観の変化でもある。そこには技術の持つ社会性が縮図となってあらわれているのだ。
意外な小ネタも楽しい。たとえばアメコミのヒロインであるワンダーウーマンは、その露出度の高いコスチューム故に少年の性的妄想の結晶だと思われがちだが、実は自立する女性の象徴であり、そして何とその原作者は、嘘発見器の開発者の一人! 両者の関係は読んでのお楽しみ。
欠点を言うなら、主人公二人の私生活に関する記述がいささか細かすぎること。こういうと何だが、二人ともそんなに有名人ではないし、またそれほどすごい人生状のエピソードがあるわけでもなく、ちょっとしたけんかや仲直りの話を細々と読まされても、決して魅了されるというほどではないのだ。あと、ないものねだりではあるが、最近の嘘発見器の発達についても、もう少し詳しく触れてほしかったとは思う。が、それとて本質は、本書で論じられているものと同じだ。百パーセント確実でない技術を前に、人はどう対応すべきか? ぼくは積極利用派だけれど、慎重派に近い立場の本書には教えられることも多かった。あなたはどう思うだろうか。
『中央公論』 2008/08号
『中央公論』 2008/08号
中筋『廃墟チェルノブイリ』(インターシフト)
チェルノブイリ。たった22年しかたっていないとはちょっと意外な気さえする。本書はその巨大事故を起こした原発と、その城下町たるプリピアチの現状を映した数少ない記録の一つとなる。
いまだに放射能汚染で30キロ以内は立ち入り禁止となっているこの地区。ぼくはとっくに、周辺の自然に飲み込まれて、封印された発電所以外は消えてしまったんだろうと思っていた。だが寒冷なこの土地では、22年たっても植生は進まず、ガラクタの腐敗もほとんどない。無人のアパート、放棄された戦車や車や船、散在する社会主義アイコン。学校の書き取り帳。そびえたつ煙突、遺された巨大な発電タービン。それらを淡々と映し出すこの写真群のもたらす感慨を何と表現したものか。著者は、原子力否定論じみた感慨を抱いたようだ。でも、単に写真を見ているだけのぼくは、もっと空っぽな戸惑いのようなものを感じた。放射能で危険なはずなのに、一向にそれが怖そうでないんだもの。頭ではわかっている。でもそれと実際に目に見えるものとの露骨なギャップ。問題の原子炉の壁すら、ことさら危険そうには見えない。
そして原発とその町にある自然は、まるで何事もなかったようだ。木々はあたりまえのように紅葉し、リンゴは実をつけている。ハトは街灯に列をなす。危険は現実にそこにあるのに、人間の(自然の)肉体的な直感では感知できない、知的に理解するしかない危険。ぼくは終始、そのよじればかりが感じられた。不思議な、写真でしか表現できない世界だ。
だが帯にあるとおり、本書ほど人によって感慨が異なる写真集も少ないだろう。著者は廃墟写真では歴戦の勇士とも言うべき中筋純。ラブホテルなどの下世話な廃墟を多く撮り、人間くさい(でもセンチメンタリズムに走らない)味わいを得意としている。その手腕は本書でも十分に発揮されている。文明論的、政治体制論的、エネルギー政策的、リスク論的等々、本書をめぐりいろんなことが言えるだろうけれど、そのどれ一つとしてこの写真群の持つ不気味な豊かさを上回ることはないだろう。
付記:多くの人は、この恐怖が「生理的」な恐怖だという表現をする。でも実はそれは生理的な恐怖なんかではない。放射能に対する生理的な反応を人間は持っていない。だからこそ、人間以外の自然は平気でその地域に繁殖する。そしてそれが生理的でないことは、ラジウム温泉だのプルトニウム鉱泉だのに喜んで浸かっている信じがたい人々が山ほどいることからもわかる。それは知的に生半可な情報処理をした結果のことでしかない。おもしろいことだけれど、バカだと思われている人の行動の多くは、脳の中途半端な情報処理の結果であり、賢い人というのはむしろ、そうした脳の暴走をおさえられて脳を肉体的に扱える人々だ、という気が最近している。
『中央公論』 2008/09号
『中央公論』 2008/09号
コリアー『最底辺の10億人』(日経BP)
五月末に、横浜でTICAD IV なる会議が開かれ、福田首相がアフリカへの援助を大幅に増やすと大見得を切った。が、本当にそれはアフリカの役にたつのか?
本書は世界銀行をはじめアフリカ援助に関わる数々の機関を歴任したコリアーによる、真にアフリカを支援するための簡潔な処方箋だ。アフリカが発展しないのは、別にグローバル企業がサクシュしたりするせいではない。内戦ばかりで、資源に依存し、政府が腐敗し、自業自得な面が大きい。かれらを救うにはまず当人たちがもっとがんばるべきだし、先進国はそれを軍事介入や貿易政策などで支援し、もっと経済成長できる環境を整えよう! 左翼くずれの反グローバリズム論や無駄な援助を批判しつつ、統計分析に基づき真に有効な策を提唱する本書は、善意の(だが実は有害な)アフリカ貧乏かわいそう論者たちの「常識」をなで切りしつつ、アフリカをとらえ続ける罠と、これまでの「援助」の問題点を的確に指摘する。
訳は生硬だが平易で短い本なので、ちょっとでも関心があればまずは手にとってほしい。いまや本書の記述を無視してアフリカ支援は語れまい。ただし、コリアーは本邦初紹介なのにまともな解説がないのは残念。彼の得意技は本書でも頻出する回帰分析で、その研究はかつて世界銀行の方針をも左右した。が、その後の内部監査で、その結果の多くはデータ数年の追加で統計的な有意性が崩れる脆弱なものだったこと指摘され、批判を受けている。同じ手法に頼る本書の主張も重要なポイントはついているが(回帰分析しなくても、内戦続きの国が成長しないのは当然でしょう)、その実証性には多少の用心も必要かもしれないことも、本当にきちんと勉強したい人は知っておいてほしい。
だがそうした点を差し引いても、本書の指摘の重要性は揺るがない。福田首相の約束したアフリカ支援は、ここでの指摘を活かすように使われるだろうか? その費用を最終的に負担する国民としても、読んでおいて損はない、とガーナから一アフリカ援助関係者として思うものである。
『中央公論』 2008/10号
『中央公論』 2008/10号
残雪『暗夜』(池沢夏樹文学全集、河出書房)
池沢夏樹編の文学全集は、第一期半ばくらいだが、作品的にはそこそこ。だが文学「全集」といえるかどうか。かつての文学全集は、ヌーヴォーロマン一人、ニューライターズ系一人、南米の魔術的リアリズムは旬だから二人くらい、といった文学流派の総覧機能を持っていた。が、この全集にはそれがない。それは世界の「文学」がもはや系譜を失っているせいだが、ではその状況でなぜこれが「全集」と名乗れるのか? そのコンセプトがないため、この企画は池沢の個人的趣味開陳にとどまっている。
が、その趣味は決して悪くない。この全集には何巻か必読の作品が含まれていて、この巻の残雪もその一つ。明らかにいまのアジア中国枠で入っているけれど、アジア中現代文学の典型とはほど遠い、唯一無二の作家だ。
それをなんと形容したらいいものか。おおむね、中国の村に何か非常識なことが起こる。だが人々は噂話をしつつ、要領を得ない対応をするうちにその収拾がつくような悪化するような。夢のようでもあり、現実のようでもある。不条理小説的にも読めるし、いつ密告されるかわからない文革時代のリアリズムとも思える。それがなにやら不思議なことばの経済性をもって伝わってくる。様々なものに似ているようで、何にも似ておらず、一切の教訓も体制批判もないようなあるような。それは何よりも、読者に応じて変わり、自身を映し出す鏡のような小説なのかもしれない。
小説に明確なテーマやメッセージ性を求める人にはまったく向かない。小説を自分の脳のひだを探るプローブとして使う人にのみ意味を持つような作品だ。だが現在、小説——そして芸術全般——が持ち得る意義はそこにしかないとぼくは思っている。池沢は、感覚的にはその意義を捕らえているようなんだが……併録のバオ・ニンの古くささを見ると、それを十分に意識化できていないようで残念至極。ともあれ、残雪の部分は短編集だから一篇くらい立ち読みでもどうぞ。二十人に一人くらい、己の脳のまったくちがうひだに分け入る快楽に陶酔できるはずだ。
『中央公論』 2008/11号
『中央公論』 2008/10号
飯田『パブとビールのイギリス』(平凡社)
読者諸賢はイギリスという僻地の島国をご存じだろうか? そこの人々はいろいろ奇妙な風習を持っていて、何をやってるのかさっぱりわからないクリケットとかいう珍妙な玉遊びとか、宗教上の理由からかひたすらまずい飯とか、初乗り千円以上の地下鉄とかあきれることばかりなのだが、中でもアレなのは、ビターという苦くてぬるい泡のない、ビールの一種だ。なぜイギリスであんなものが愛好されるのか、今世紀に残る謎の一つとされる。
本書はその謎をめぐる本だ。どうしてあのビールが成立したのか、それを出すパブという場の位置づけ、そしてなぜイギリスのアイデンティティの一部を形成するにいたったか。ビールは、もちろん大衆娯楽として普通に成長してきたが、歴史の中で時にはフランスのワインと競合するイギリス性の担い手とされ、時に悪徳の源泉とされつつも、一方では猖獗をきわめたジンに対する健全な酒の象徴とされ、その役割を変えつつ文化の中に根付いていった。あるときは財源として権力に利用されつつ、別のときには権力から逃れつつ成長した。その歴史があればこそ、ビールと、それを出すパブは国民性の一部となり、市民の自由の場となったという。
もちろん、ビールの歴史を知ったからどうなるわけでもない。それを日本の居酒屋に応用できるわけでもないし、人間の本質に対する深い洞察が得られるなんてこともない。だがそこにはあらゆる文化が経てきた、歴史との戯れと奇妙な偶然の連続があって、それこそがイギリスのビールをほかのどこともちがう、唯一無二のものとしている。そしてそれを描く本書の筆致は、何とも楽しげで、イギリスの民衆文化をずっと研究してきた著者ならではのものだ。
いま、あのビターはラガービールに押されて劣勢になりつつあるという。こんどこそパブとビターの命運も尽きるのか、はたまた再び盛り返すのだろうか? そんなことを考えつつ機会があればビターを一杯飲んでみるのも一興……だが、本書を読んだからとてあれがうまく感じられるようにはまったくならないので、その点はおまちがえなきよう。
『中央公論』 2008/12号
『中央公論』 2008/10号
ウルフ『プルーストとイカ』(インターシフト)
さてあなたはいま、こんな文章を読んでいる。文を見てその意味がわかる——それはごく自然に感じられるだろう。だがそれがいかに不思議なことか、考えたことがあるだろうか? へんてこな題名の本書はそれを科学的に真正面から論じ、「読む」という行為がいかに人間を変えたかを縦横に描き出した、コンパクトながら実に壮大な本だ。
大人はごく自然に物を読む。だから読書というのを、単に透明な情報獲得手段として考えてしまいがちだ。だが実際には、それは多大な苦労を経て習得された技能だ。その過程で脳は歴史的にも大きな変化を強いられ、比喩ではなく「読書脳」となる。その読書脳が多くの人に共有されたことで、逆に人間の文化と文明も大きく規定されたのだ。
本書はその有様を進化学、脳科学、言語学、文学、教育学などを自由自在に使って説明する。物を読むときの脳の働きは分析が進んでいる。英語と日本語での脳の働きの差や、古代人の脳や子供の言語習得の解説はきわめて刺激的。読むことで脳は他の視点と時間の中で深く思考できるようになる!
そうした読む喜びを描き出す一方で、本書は読む悲しみをも示す。その例が失読症の人々だ。エジソンやピカソなど多くの失読症者は、別の才能を高度に発達させていることが多い。人々は、読む能力と引き替えにそうした才能を失ってしまったのだ。
そしていま、ネットで人々の情報環境は変わりつつある。ネット等は、従来の読む行為を破壊する可能性もある。その不安を著者は率直に述べる。だがそれをさらに深める可能性も持っているのだ。本書はこの両方の可能性をわかりやすく描き出す。そして最後には、人類が文章を超越する可能性にまで思いをはせる……
すごい。読むうちに本書は様々に様相を変え、あなたは予想外のことに思いを馳せているはずだ。そしてそれでいいのだ、と本書は語る。「読書の目標は、(中略)最終的には書かれた文章と無関係な思考に到達するところにあるのだ」から。本書で是非ともそれを体験されんことを! それは今後のあなたの読書そのものに、一段と深みを与えるだろう。
(付記:なお、本書を読んで感じたもう一つのこと。ゲーム脳というヨタ話がいかにダメかについて、ぼくはあちこちで書いている。でも、もし読書がこれほど脳を変えるのであれば、ゲームが脳のあり方を変えるという話も決して完全にまちがっているわけでもない可能性がある。もちろんいまのゲーム脳談義はその前提も測定法も結論もでたらめであり、あれを真に受けろというのではない。でも、そうした変化の可能性は認めるべきだろうし、はなから門前払いをくらわせるべきではないのかもしれない)