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キリストと絶滅生物博物館

Christ and the Museum of Lost Species(??)

ウィリアム・バロウズ 著

翻訳: 山形浩生<hiyori13@alum.mit.edu>

 人は時間、言語、道具と武器、支配のために魂を売り渡した。そして人がその線をはずれないように、侵略者たちは、非優位脳半球(右半球)に占領拠点を維持している。右利き/左利きなどという生物学的な不都合は、ほかに説明しようがない。やつらは片手で与え、残りの手で取り返したのだ。五分五分。これほど公平な話があるだろうか。もちろんある。いくらでも。

 面倒が持ち上がっていた。ミッション船長にはそれが感じられた。これまで信頼のおけた現地人情報提供者がの報告が入り、英仏連合遠征隊が、マダガスカル島西岸のこちらの自由海賊居留地リベルタニアを攻撃しようとしている、というのだ。地上の拠点を包囲されて防衛するよりも、勝手知ったる海戦のほうを好んだ船長は、三隻の船の艤装に取りかかった。船出の前に、かれは絶滅生物博物館の入り口を訪れた。
 警戒が必要とされていたにもかかわらず、船長はジャングルの中でメガネザルたちと過ごす時間をどんどん増やしていった。発見した古代の石積みを改装した住まいは、巨大な膨れ上がった木の根に完全に包みこまれていて、巨大な手に握られているようだった。奥の部屋の開放アーチは根にからみつかれて飾られている。床は舗石。入り口には蚊帳を吊り、床にわらぶとんを敷いた。石段はすべすべにすり減り、多くの足がそこを通ったらしかった。あるいは人の足ではなかったのかもしれない。
 ミッションは急いだ。古代石積みには日暮れ前に着きたかった。あの特別なメガネザルがいてくれればいいのだが。そのメガネザルを傍らに、よくわらぶとんで寝たものだ。そのメガネザルには「おばけ」と名付けていた。
 ミッションが近づくと、おばけはさえずるような歓迎の叫びをあげた。石積みの中で、ミッションは灰色の光の中に横たわり、メガネザルに腕をまわす。動物はモゾモゾと身を寄せ、前足をミッションの顔に置く。小さなネズミメガネザルが古代の木の根やうろや穴から忍び出て、部屋のなかをはねまわり、キイキイと昆虫に飛びかかる。尻尾はその頭上でくねり、紙のように薄い巨大なそびえる耳は、どんな小さな音にもうちふるえ、大きな澄んだ目が昆虫を求めて壁や床を探る。この動物たちは、数百万年にもわたってこれを続けてきた。くねる尻尾、ふるえる耳は、過ぎゆく幾世紀を記している。勝利の小さなキイキイ声は、人類誕生以前から聴かれていた。
 朝になるとおばけは身をすりよせ悲しそうな声をたてる。おれが去るのがわかるんだ。ミッションは足早に立ち去って振り返る。おばけはまだそこにいて、かれを見つめ、待ち続けていた。

 三日間を海で過ごしたが、遠征軍は影も形も見えず、呼び止めて質問しても、現地人たちからも何の話も入ってこない。ミッションは、あの話が自分を居留地から引き離すためのガセだと気がつき、引き返す。向かい風のために遅れて、リベルタニアに到着まで八日経過。

 港から、居留地が焼き尽くされた廃虚と化しているのが見える。残ったものは、灰と死の臭いだけ。ミッションは内陸部に向かうが、腹には不穏な恐怖がわだかまっている。地上の大虐殺を横目にジャングルに入り、古代石積みに向かった。
 アーチは爆薬によって粉々に吹き飛ばされている。引きちぎられた根は、石と瓦礫をばらまいている手のようだ。ミッションは微かな鳴き声を耳にする。おばけが重い石の下で押しつぶされている。ミッションは石を横にどかして、死にかけたメガネザルをかき抱く。おばけは自分を待ってここに残っていたのだ。メガネザルはゆっくりと前足をミッションの顔に乗せる。その前足が落ちる。ミッションは、六千万年に一度のチャンスが永遠に失われたことを知る。

 絶滅生物動植物園こと失われたチャンスの園の入り口。敵を信じすぎ、優しすぎたために生き延びられなかった生物たち。メガネザルが凶暴な入植者にじゃれつくと、入植者は醜いうなり声をあげてそれを山刀で斬り捨て、出血多量で死なせる。
「おれにかみつこうなんてまねをするからだ! くそったれなけだものめ」
 それとリョコウバトはどうだ? 木から雨あられと降ってくる。撃っただけ売れる。値もいい。
 もちろん人類発祥以前に絶滅した生物はいた。でも、人類はそこに一ひねり加えている。人間はもちろん食べるためと楽しみのために殺す。でも、それ以外に、その行為の醜さだけのためにも殺すのだ。自分の内部にある醜さのために。自分の中にある醜いもの、醜い動物たるホモ・サピエンスに居場所を見いだした醜い霊。ホモ・サピエンスとほかの動物とを分けているのは何か? 人間は、自分が直接接触する領域外の人間に情報を提供できる。あるいは、未来の世代の人間に対して。言語。ある対象あるいはプロセスの、記号や印、音による表象――つまり、それ自体とは異なったものによる表象。これ以外の重要なちがいは、利き腕の存在と脳の優位半球/非優位半球の存在である。
 よって、言語と利き腕というはっきりした相違点は、お互いに関係がありそうだ。言語が情報伝達のためにデザインされたというのは眉唾だ。わたしは、人間の肉体器官は二つの器官から成っていて、それが言語プロセスによって一つに固められているのだ、と考えている。感覚遮断実験を受けている被験者は、別のからだが自分のからだにある角度で貫入してくる感覚をしばしば報告する。中には、この現象を説明するための図まで描いた者さえいる。この第二のからだを、わたしは「アザー・ハーフ(もう片方の半身)」と呼んでいる。
 二つの半身は、いつも意見が一致しているわけではないようだ。ゲオルグ・グロデックが古典的名著「イドのはなし」で報告しているサボタージュの症例の多くは、これで説明がつく。また、フロイトの言う「無意識」も脳の非優位半球に位置しているように思える。脳梁、つまり二つの脳半球の間の溝は、さまざまな仕掛けが人間に気づかれないように人体に設けられたメカニズムらしい。  この人体の両半身の間の溝と、マダガスカル島をアフリカ本土から隔てる溝には類似性があることを指摘しよう。溝の片方は、魔法にかかったような無時間の無垢性へと漂う。もう片方は、どうしようもないまでに言語や時間、道具の使用、武器の使用、戦争、収奪、奴隷性へと向かっていった。この両者を融合させるのは無理だろう。ついこう言いたくなる。「それぞれの半身は好きな方向に飛んでいかせよう。唇やヒップやかけらやおっぱいは、好きなところに着地させればいいよ」
 あるいはブライオン・ガイシンが言ったように、「ことばをもみ消せ」。「もむ」というのはちがうかもしれない。方式はきわめて簡単。磁場を反転させて、両半身を溶接するかわりに、同じ磁極同士のように反発させるのだ。これこそ本来あるべき究極の自由への道かもしれない。あらゆる人間の「問題」が端を発する言語の問題に対する究極の解決。「問題」はことばだ。また、文字どおり敵の隊列を二分させる、非常に強力な武器となり得る。ことばのない世界はどんなものになるだろう。コルジブスキーのことばを借りれば。「知らないね。見てみようじゃないか」
 絶滅生物の庭は、ただの博物館ではなかった。どの生き物も、それぞれの自然の生息地のジオラマ内で生きていたからだ。入れる者なら入場料は無料。絶滅の苦しみと悲しみに耐える勇気を持ち、そうすることで、その種を観察して再び息づかせることのできる者であれば。
 絶滅生物をいくつか考えてみるといい。意のままに草を食べたり肉を食べたりする生き物、輝く翼を持った人間型コウモリ、ほ乳類的な愛情を抱くことができる温血爬虫類(美しい緑のヘビがわたしの足元にすり寄る)、冷血ハゲタカ、小犬のように愛らしい、はねまわるカメやヘビや、マダガスカル島の川や湖に住んで、感情のちょっとした移ろいやニュアンスで色を変える、メガネザルとタコのハイブリッド生物……淡い虹色がかったスミレ色やピンク、痛いほどの赤や日暮れの紫。
 アルビノ・メガネザルの種、巨大な真珠色めいた銀の円盤状の目と、どんな音にも震えて振動する巨大な耳。目には瞳がなく、その視界は焦点のない超広角レンズのようだ。この生物は、自衛手段を持たなかったわけではない。強い針状のツメと鋭い犬歯。あらゆるアルビノはそうだが、かれらも極度にデリケートだった。成獣で体重二〇キロ、樹上で暮らし、半水生。完全に夜行性で、光には耐えられなかった。日中は洞窟に隠れたり、川底に逃れたりしている。
 猛毒の蘭や刺のあるツル草に覆われ、あちこちに生えてまわる植物人間……なめらかな茶紫の、全長百八十センチの電気ウナギ人間は、泥のように冷たい緑褐色の目をしている。完全に両性具有で、自分で妊娠して子を産む。
 木やツル草や蘭をさわりながら森の中を移動する植物意識は、緑の溶液中を漂う緑のクラゲのようだ……ツル草の尻尾と刺の歯をした犬生物……
軽い多孔質のスポンジのような物質でできた、巨大な脳を持つ知的な鳥。巨大な目と非常に小さなからだ、出し入れ可能な鈎ツメを持っている。鋭敏な視力によって遥か彼方から果物と魚を発見し、食べる。消化器系が毛皮を処理できないので、哺乳類や鳥類は食べなかった。
 根人間は植物の基本的な短所を回避している。植物や樹木から栄養をとり、あまり長居はしないようにして次から次へと植物を移動する。モグラのように地中を掘り進み、手や頭を地上に突き出しては天候やその他の条件を調べる。砂漠に捕まると、長い主根をはやして地上に出て、十分太陽エネルギーを集めると穴を掘ってそこから脱出する。
 緑人間たちは光合成によって栄養を得る方法を編み出し、穏やかな緑の渦巻やよどみに集束する。あるものは水生化し、エラをはやして藻類を食べて生きる。あるものは、からだじゅうの気孔から吸いこむ臭気で栄養をとる。この気孔は、マッチの頭くらいの大きさまで開けられるのだ。あるものは光や色彩を食べ、そのからだはついには光にとけこむ。
 みんなここにいる。あらゆる動物、植物、昆虫、無脊椎動物、両棲類、爬虫類が、すべて自然の生息地にいるのだ。微妙な領域もあって、絶滅した病原菌の地域は、長いこと獲物にありつけずに飢えている。さて、病気が絶滅するのは、手に入る宿主をすべて殺してしまい、次の宿主を探すのが間に合わなかったからだ。こういうすさまじい百パーセント死亡確実腹減り病原菌はいくらもいるが、長持ちしない。もうちょっと拡大路線に出て、じっと腰を据えればいいのに。風邪やヘルペス、つつましやかなイボみたいに。
 病気の歴史を考えてみよう。生命そのものと同じくらい長い歴史を誇っている。なにかが生まれると、待ちかまえていたようにそいつを病気にするヤツがいる。ウィルスの立場に立ってみれば、みんなだってそうすることだろう。マラリアはいつ、そこで始まったのか? AIDSは羊に自然発生する致死性ウィルス、ヴィシュナの簡単な変異体だというではないか(おやまあ、すると例の羊飼いたちが、またもやおいたをしてたわけかね)。それに、梅毒は村の白痴がリャマを犯してもらってきたのが始まりだと言うし……
 兄弟、あんたの肉が骨を喰ってる。目をさますと、消化しかけた歯を吐き出し、あばら骨をゲホゲホ吐き出し、脊椎を肛門からひり出す。
 そして恐るべきSEP。肉体の器官が勝手に店を構えて自分で成長しはじめる……二百二十リットル入りドラム缶に浮かぶ巨大な脳……透析に使える巨大な腎臓。
 だれにも何の役にもたたない屁は病気の屁だ。
 最も恐れられているSEPはちんぽこだ。言っておくが、腫瘍とはちがう。ただの巨大なちんぽこで、それがどんどん大きくなる。臭いは湿っぽくて腐ったみたいで息がつまりそうなほど強くて、まるで何世紀もびんに詰めておいたみたいだ。すでに長さ一メートルに達し、見ている端からうごめいては成長し、亀頭の四つのスリットからは乳液がにじみ出す。その代物は卑わいな欲求に脈うつ。
「しごいて! しごいて! しごいて!」
 そして男の手は、亀頭に乳液をぬりたくらずにはいられない。するとそいつは射精して、精液を天井にまで吹き上げ、そして無駄になったからだをけいれんしつつよじらせる。肉や骨が分解し、野球の球ほどの大きさの金玉に吸い込まれるのを感じる。最終段階では、かれは巨大な男根にくっついたサナギに過ぎなくなっている。残ったのは頭だけ。それが陰毛のネックレスに飾られている。
 それに動物の病気もある……炭疽、口啼疫、悪性のジステンパーやその他のウィルス性疾患。マダガスカルを発端として、世界の牛はほとんど壊滅した。羊はそれよりましで、ヴィスナ・ウィルスの変種により一割ほどが死亡。豚や山羊はもっと抵抗力が強く、どういうわけか野生種は比較的耐性が強かった。しかし犬や猫は、数百万匹単位で死亡。しかし、どうせ餌をやって構ってくれる飼い主の人間も残っていなかったのだから、どのみち大したことではない。
 もちろん治療法やワクチンを見つけることもできたにちがいないが、患者が殺到して、その結果として最低限の治療にあてる時間すらない状態で、まして研究どころではなかったし、肝心の実験を行うべき人材の不足が致命的だった。科学者や技術者、プログラマー、数学者、理論家たちは、思考病あるいはインテリ病と呼ばれる疫病によって、選択的にほとんど死に絶えてしまったのである。
 思考病は、大脳皮質があらゆる愛情的な動機から切り放されるのが特徴である。プログラムを組むプログラマーがいなければ、コンピュータが何の役にたつものか。思考病のやったのが、まさにそれだった。同じ方程式や理論を繰り返し繰り返し、傷の入ったレコードのように繰り返すだけ。「ウィルスに対抗して我らが選んだ武器は免疫化……免疫化……免疫化……武器武器武器……選んだ選んだ選んだ」
 動機なしに……ごく単純なことさえもできない……着て、食べ……糞尿の中で舌をレロレロ……おさじで喰わせてやらないと……そんな目的のために割く人員も時間もない……自分の面倒を見られない、あるいは見ようとしないやつらの面倒を見る人へだれもいない……

 入り口……古い映画……暗く粒子の荒い爆薬……悲しげな前足が顔に……おれが六千万年離れてるのを知ってる……砕けた手みたいにちぎれた根……悲しく弱々しい鳴き声。
 悲しみのあまり死にそうではあるが、ミッション船長は兵士だ。敵に降伏したりはしない。悲しみを煮えたぎる憎悪の閃光に変換して、地球の委員会やその召使い、手先、追従者すべてに呪いをふりかける。
「あの連中にキリストの血を解き放ってやる!」

 キリスト病のために一億人が死んだと言われる。が、生き残った連中に比べれば、死んだ連中はまだ救いがあった。「我こそは道なり。わたしを通じて以外、父なる神に到達する道はない!」
 何千、何万もの予言者が、絶対的な確信をもって「我こそは道なり」と口にして、弟子を集め、奇跡を演じたりするところを想像してみるがいい――SFXはキリスト以来ずいぶん進歩してきたことでもあるし。

 ある男が病気の猿を抱いて私を訪れた。「おれの猿を癒せ」
「わたしは獣は癒さない。獣は魂を持たないから」
「こいつらは優雅さと美しさと無垢さを持ってる。あんたの癒してる人間どもだってしょせんは獣だろうに。優雅さもない、醜い獣で、憎悪のために病んで、片輪で、イカレてて……」
 男は猿を抱え直すと背を向ける。そして振り返る。「さっさとライ病患者でも治してこいよ。それとか臭せえ乞食とか。癒すネタがなくなるまで癒し続けるがいいや」
 そしてほかの連中は病気の猫やケナガイタチを連れてくる。そして一人が病気の子供を連れてくる。「この子は第二の視覚を持っています。他人の心を読めるんです。風や雨や木や川と対話できるんです。この子を癒してください」
「わたしには、この子は癒せない。この子はわたしを知らず、またわたしを遣わした主をも知らないからだ」
「だったらあんたも、あんたを遣わした主とかいうやつも、あたしには何の関係もないね。そいつがあんたを遣わしたのは、人を今以下の存在にするためで、今以上の存在にしてくれるためじゃないんだから。そいつがあんたを遣わしたのは、奴隷を作り出すためで、自由人を作り出すためじゃない。あたしたちの目を封じ、耳を閉じるために遣わしたんだ」
 それでもわたしが十字架につくと、わたしが拒んだ者たちが我が元にやってきて、兵士たちをものともせずに、棒の先にスポンジをつけて、酸っぱいぶどう酒とヒソップを与えてくれた。そしてわたしが癒した者たちは、兵士とあらゆる兵士の背後に立つ者たちを恐れて近寄らず、そしてわたしは、わたしを遣わした主を疑うようになりって叫んだ。ただし、伝えられているように「主よなぜ我を見捨てたもう?」と叫んだのではなく、「主よ、なぜわたしに嘘をついたのですか!」と叫んだのだが。

 エネルギーの量は限られていて、わたしがそれを使うたびに減っていく。女が忍び寄ってきてわたしのローブに触り、わたしは言った。「力がわたしから出ていった!」それが出ていくのが感じられたのだ。それには色があって、青だ。海よりも空よりも深い青。それを全部使い果たしたら、もう後はない。二度と。
 今日、男がやってきた。画家で、視力が衰えているという。「自分のために癒してくれとは言わない、わたしの才能に免じて癒してください。わたしは人の顔の背後に何があり、丘や木や海の背後に何があるのかを見ることができるんです。ほかのだれにも見えないものが見え、わたしは自分の見たものを絵にするのです」
 わたしは、信仰のないおまえを癒すことはできない、と告げた。かれは笑った。きつい、刺すような、青銅を切るヤスリのような笑い。「あんたの癒してる連中は、癒す値打ちのない連中ばかりだ。それともわざわざそういう連中を選んで癒しているんですか」 「信仰の力がかれらを癒すのだ」
「そりゃウソだ。わたしはあんたの絵を描いたよ。ウソの絵だ」
 そして男はその絵をわたしに突きつけた。四角い小さな硬木の板に描かれた絵で、色は木目につれて変わり、まるで木がその絵を描いたみたいだった。
 わたしは戦慄した。その顔を前に見たことがあったからだ。父の工房で手を切ったとき、わたしの血が木に刻んだ顔と同じだ。わたしの目の前には暗黒があった。暗黒が晴れると、男は消えていた。

 さて後光というものはだね、諸君、輝き続けるためにエネルギーが必要なのだ。じゃあ、そのエネルギーはどこからくるのか? それを見る連中からに決まってるだろうが。だから連中にこっちを見させておかなくてはならなかったし、見させておくにもそれなりのエネルギーが必要となる。どう見てくれても勝手だけれど、最終的にはわたしが吸い上げる。じゃあ、なぜもともとたくさんエネルギーを持っている特殊な人々を癒さなかったのかって? だって、そいつらはそのエネルギーを返しゃしないもん。つまり、こっちが入り用になったら誰がわたしを癒してくれるっての? 一方通行じゃねえ、ダメだよ、よくないね、自分を切り売りってのは。  わたしを通じなければ誰も源には達しないので、自分自身の源を持っている人は空っぽじゃないから、わたしはそいつらを満たしてやれない。でも薄ぎたない老いぼれライ病野郎をよこしてごらん。町に出かけて、救貧院いっぱいの飢えた浮浪者どもに食わせるだけのパンが手に入る。我らの主が仕組んだのはこういうやり口なんだ。
「そうかい、キリストさんよ、そいじゃその素晴らしい父だ聖霊だってのはどこにいるんだい。お近づきになれるように出てきてほしいもんだね。少なくともカーテンコールくらいは頼むぜ……」

 ほかの魔術師と同じく、キリストも祝福と同時に呪いもかけることができた……
 街の指導者は、大鎌やピッチフォークや手斧を持った追従者を従えて、地平線から五分の位置にある太陽を指さす。「あんたらみたいな連中は、この街にいさせるわけにゃいかねえ――おかまだの浮浪者だの過激派だのはごめんだ。そういう連中にはここじゃ日暮れを迎えさせねえんだ」
 キリストはテロリスト的なおどしから引き下がり、反対側の頬も向けて、市境に向かう。そこでは弟子たちが、一人の人間であるかのように、一斉にサンダルを掲げて背後の村に靴底を見せる。無礼な娼婦じみたジェスチャーだ。
 「そいつを脱ぎ捨てて小便をかけよ」とキリストは唱える。
 すると村は洪水に洗い流される。
「これでやつらも清められた」とキリストは薄笑いを浮かべる。
 人里離れた場所で、児童虐待にどっぷり漬かった未亡人がいる。
「石臼を持ってこい、ペテロよ。わたしたちにできるのはせいぜいこの程度だ。若干ましな程度ではあるがな」
 あらゆる指導者は暗い面を持っている必要がある。さもないと無味乾燥になって、民衆に唾棄されることになる。
 そしてキリストが悪魔の軍団をブタの群れに乗り移らせて、そのブタどもが狂乱して海に駆け込んで溺れ死ぬと、農夫が言う。「キリストさんよぉ! おいらの太ったブタはどうしてくれるんだい?」
 するとキリスト曰く「持たざる者からは、すでに持てるものすら奪われるのだ」そして農夫を後にする。ガザに盲いてならぬ、ガザにブタなしで放置したまま。

 キリストの教えは生物学的には自殺としか読めない。鹿はヒョウを探し出して、その牙にのどを差し出せばいいのか? 魚は率先して針にかかり、網に飛び込むべきなのか? 敵を探し出してそれを愛することで生き残れる種などない。実践レベル、肉体レベルで言えば、これは狂っている。心霊レベルで言えば、そこまで敵に接近できれば、そいつを友達にするか、あるいは外国人の慣れ慣れしさで殺すことができる。昔、賢い老魔術師にこう言われた。「わしには敵はいない。そういうのはすべて友達にしてしまう」かれはわたしが出くわした中でもっとも呪殺にたけた魔術師だった。
 そしてキリストの教えはウィルスレベルでは意味をなす。ウィルスは敵に対して何をするか? 敵を自分自身にしてしまうのだ。もし右の頬で捕まえられなかったら、左の頬を向けて入りこめ。
 汝の敵を愛するよりむずかしいことはなかなかない。だから、これを達成できる者は大いなる力を得ることになる。敵を愛するのは非人間的な行いであり、まるでウンコを喰うようなものだ。その実践者を、人間のレベルのはるか上方――それとも下方――に置くことになる。
 文字どおり主義者たちは、キリストの言葉をそのまま実践してひどい状態に陥る。「糖蜜のような愛を、消化ホースのようにぶちまけよ。敵に生の口づけを。舌を相手ののどに突っこみ、その者の食べたものを味わい、消化を祝福せよ。内臓に入りこみ、食べ物の消化を手伝ってやるがいい。筆舌に尽くしがたき全体の一部として相手の肛門をも崇拝していることを知らせてやるがいい。『マスタープラン』の一部として、豊かな生の多様性の一部として、かれの性器を前にしたお前が、畏敬のあまりすっぱだかで立ち尽くしているのを知らしめよ。
 ひるんではならない。おまえの愛をかれに挿入せよ。KYゼリーやラノリンやワセリンが紙ヤスリに思えるほど滑らかな、聖なる潤滑液をもってかれを貫け。こいつは空前絶後の最もネットリしてドロドロしてじくじくした潤滑液なんだぜ、アーメン。ヌトヌト霊って呼んでるがね、きみの全身を外から中からくまなく愛してくれるぜ」
 でも、みんなに言わせれば、この「死ぬほど愛して」団はただの下劣な腐った吸血鬼どもで、こいつらに愛されておいしいスープに成り果ててズルズルの飲まれてしまうまえに、ケツに杭を打ちこんでやるべきなのだそうな。ちなみに、これが連中の「マスタープラン」とやらである。
 あらゆる問の根源に達するためには、こう考えるといい。「この状況で利益を被るのはだれか?」この場合なら、こう考えるべきだろう。魔法を独占してコントロールする必要があるのはだれか? 自前の魔法を持たないやつだ。
 許しがたい知識とは、「造物主はもはや創造できない」ということだ。これまでだって創造できたのかは怪しいものだが。もはや、自分の忠実なる僕たちがの創造物を操作できるだけなのだ。造物主の周辺はゆっくりと夜が明けつつあり、見慣れた物体が浮かび上がってくる。そろそろ中央コントロールからクビになりかかっていることも。
 かれの主任担当官は、かつて飲み過ぎたときに、主任の仕事のいちばんつらい部分は現場エージェントをクビにすることだと語ってくれた。もしそのプロセスがじょうずに行われれば、エージェント自身が自分の任務を疑問視するようになり、やがては自分の正気も疑うようになる。幻聴だったのかな? 終末が、黄色い濃霧のように色濃くなるのがわかる。自分の任務が砕けた木のように粉々になるにつれて、恐怖が強まるのだ。
 だれかが自分を遣わしたことさえも疑問視するようになる。任務や目的なんてなかったんじゃないだろうか。ただの混乱した脳が産んだたわ言だったんじゃないだろうか。自分を遣わした父なんていたんだろうか。おれの頭のなかで別の声で語りかけてきた父なんて実在したんだろうか。気狂いが、お告げをわめき散らしながら町を駆けずりまわっているのを見たことがある。犬にかみつかれ、子供に石を投げられ。自分もまた、何か絶対的な確信に必死にしがみついている気狂いではないのか。実は自分の「真実」とやらは、何の実体も持たないのではないか。何光年も昔にチラチラと消えた惑星の名誉あるエージェント……
 キリストは、十字架にかかって自分がハメられたのを悟ったにちがいない。十字架がなければ、この取引は平板なこと気のぬけたビールのごとし。したがってキリストの究極の任務は、強力なシンボルとなることで、精神を歪めるウソを無数の人々に鵜呑みにさせることだった。どのみちあらゆる人間は、自分を癒し、天候を左右する潜在能力は持っているのだ。
 そしてキリストの教えを排除する合理主義者たちは、そのウソを永続させるにあたって最も影響力をもっていた。信じる者と信じない者との間には、カミソリの刃のごとき薄い一線があるにすぎない。そのカミソリの両側は、自主的な無知の深淵。見ようとしない者ほど盲目な者はいないのだから。

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