『ゴースト』

ウィリアム・バロウズ「ゴースト」あとがき

山形浩生



 本書(Ghost of Chance, New York Serpents Tail / High Risk Books, 1995)は一応、バロウズの最新作である。が、『内なるネコ』と同様に、この本の原型となった限定版が一九九一年に出版されている。この限定版は未見だが、内容的に本書とちがいはないと聞いている。

 またそれ以前にも、一部が雑誌やアンソロジーに発表されている。本書前半とエピローグなどを再構成したものが「The Ghost Lemurs of Madagascar」として OMNI 誌一九八七年四月号に発表されており、オムニ日本版にも大瀧啓裕の麗訳で「マダガスカルの幽霊レムール」として掲載された。また文芸アンソロジー雑誌 Conjunction 誌十三号(一九八九年)には「Christ and the Museum of Extinct Species」が収録されている。本書の後半や注などを中心に再構成された作品である。

 したがって主要部分の執筆時期は80年代後半ということになる。女バロウズの異名をとり、現在のアメリカ前衛小説を代表する作家キャシー・アッカーがバロウズにインタビューした際、レムール(メガネザル)の何たるかを知らなかったので怒鳴りつけられたという。これが八十八年頃のことだから、この頃のかれはかなり重度のメガネザル・マニアだったようだ。

 ウィリアム・S・バロウズ。六〇年代以降のアメリカ小説を語るにあたってどうしても外すことのできない、大物作家である。『裸のランチ』以来のドラッグや同性愛への率直な言及、『ノヴァ急報』『ソフトマシーン』などでのカットアップ、フォールドインといった技法的な実験。決して文壇の中心に位置することはなく、常にアンダーグラウンドの周縁的な存在であり続けているが、逆にそれ故にジャンルを越えた影響力と人気を持ち、ミュージシャンや映画作家などでバロウズの影響を公言する者は数しれない。寄り道が多くて当たり外れが激しい作家だけれど、でも最良のバロウズ作品はいつだって、人々に新しい試みを行う力と勇気を与えてくれる。それは欧米だけでなく、この極東の日本においてもしかり。一九一四年生まれ、当年八十二歳。

 バロウズのすべての作品がそうであるように、本書にも他のバロウズ小説からのテーマがたくさんこだましている。『映画:ブレードランナー』や『バロウズという名の男』などでおなじみの、世界を覆い尽くす疫病とその後のホロコースト。そして『内なるネコ』などで顕著に見られるようになった、ネコやメガネザルなどのか弱い動物たちに対する愛情。ミッション船長や、ブラッドレー・マーチンなどはバロウズ作品の常連。後者は特に『裸のランチ』以来の大物悪役だし、ミッション船長は近作などによく顔を出しているバロウズお気に入りの正義の味方。これが本当に実在の人物なのかは不明だ。バロウズが主張するように、この人物のコミューンがそんなに優れた代物だったのかもわからない。

 だが、それは大した問題ではない。本書のおもしろさは、別にコミューン生活のすばらしさをうたいあげることではないのだから。かつて朋友にして愛人のアレン・ギンズバーグがヒッピー運動に傾倒するのを、バロウズはことあるごとに皮肉っていた。それが今さら寝返るわけもない。かれが言いたいのは要するに、現状の世界はどうしようもなく、修復しがたく、人間という動物は絶望的で、悲惨な病気や内戦でみんな惨めに死んでしまえばさぞかしいい気味だろう、ということなのだ。『裸のランチ』以来の人間嫌いはさらに磨きがかかっている。疫病で世界が死に絶える描写の、なんと嬉しそうなこと! この爺さん、老いて枯れるどころか、昔ながらの悪意を未だ煮えたぎらせている。『内なるネコ』や本書ネコやメガネザルへの心遣いも、実は深まる人間嫌いと厭世観の裏返しなのだ。

 最近、映画やコマーシャルやCDなどへの出演が多くて、「バロウズも丸くなった」「商業主義に屈した」などと陰口をたたかれるほど楽しく気楽に生きているように見えるのだけれど、どうしてどうして、八〇歳を越えてもまだなおバロウズは、歳相応の達観には到達していない。まだ何かを探り続けている。それは、たとえば石川淳が八〇歳を越えてなお切り開き続けた自由さへの道とは別の何かである。その「何か」は本書にもうかがえるし、近作 My Education: Book of Dreams からも読みとることができる。

 本書の編集は、小川哲氏が担当された。

一九九六年黄金週間
品川にて


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