ピンカー『心の仕組み』(NHK出版)の翻訳を改善するのだ。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生
(2003/11, Update 2004/9/5)

 ピンカーが、言語学や心理学やらそこらへんのあれこれを楽しくわかりやすく説明することにかけては天下一品であることは、だれしも認めるところでございます。で、かれが6年前に書いて太平洋のお向かいではベストセラーになった『How the Mind Works』の翻訳が出たことは、遅きに失するとはいえすばらしいことです (Better late than never とも申しますし)。

 しかしながら、この邦訳、必ずしもベストとは言い難い。まず最悪なのが、注と参考文献一覧を無断で勝手に削除している! これは許し難いことなので、猛省を促したい(注:その後、ほかのもんもいろいろ勝手に削除していることが判明)。一言コメントつけてネットにでも載せればいいのに。いろんな主張がピンカー自身のものなのか、どっかから引っ張ってきたものなのかがまったくわからないではないか! 中の終わりあたりに、ロバート・フランクの結構おもしろそうな研究や発言が紹介されているけれど、現状ではそれがどこにあるのか、日本語版しか持ってない人間はなかなか調べられない。そんなことしてるから本が売れなくなるんだよー。解説を書いている長谷川寿一は「引用文献を参照しながら読むような専門書の類でもない」(下p.213) なんて書いて弁明しているけれど、じゃあなぜ原書に引用文献が明記してあると思うのだ! これはそのうちなんとかする。

 またそれ以外にも全体に訳文が堅くてださくて、ピンカーのジョークのきれが実になまくらになっている、という点もございますが、これはこの訳者たちではこれ以上期待できないかもしれません。が、それ以外に、ちょっとものを調べてない。かなり有名で邦訳がたくさんある著者の名前でも平気でまちがっているし。特にポピュラー文化系はかなり苦しい。というわけで、ひとつ改善を試みてみましょう。たれこみ歓迎。


邦訳ページ もとの訳 改訳 コメント
上 p.4 - - おそろしいことだが、謝辞を全部カットしてある。……と思ったら、カットして下巻の最後にまわしてあった。なぜそんなことをしたのかはさておき、こちらの見落とし。失礼しました。
上 p.9 ロボットの種は尽きない。 アイザック・アシモフ『われはロボット』のスピーディー、キューティー、デイブ、『禁断の惑星』のロビー、『宇宙家族ロビンソン』の缶カラの寄せ集め、『ドクター・フー』のダレクたち、『宇宙家族ジェットソン』の女中ロージー、『スタートレック』のノマド、『それ行けスマート』のハイミー、『スリーパー』の空疎な執事や洋服販売人、『スターウォーズ』のR2D2にC3PO、『ターミネーター』のターミネーター、『新スタートレック』のデータ少佐、そしてテレビ番組『ミステリーサイエンスシアター3000』でこざかしい映画批評を連発するロボットたち。 信じられないことだが、原文の SF アニおた心全開の部分をまるっきりカットしている。ちなみに最後の MST3000 は、ケーブルテレビの SciFi チャンネルでやっている番組で、何かの罪で宇宙船にロボット二台といっしょに閉じこめられた人物が、毎週罰として最悪の三流 SF 映画を見させられるという設定になっていて、見ながらそのロボットと人間が「だせー」「やめてくれー」とか「この怪獣はマシュマロみたい」とか批評する。『ガメラ』に出てくる男の子(たけしくん、だっけ)がひたすら嫌われている。
上 p.15 黒と白は網膜に映らない色だからである。 黒と白は、単純にそのままの形で網膜に映るわけではないからだ。 ... because black and white don't simply announce themselves on the retina. 黒と白は色じゃないけど、網膜で処理する結果として生じてるんじゃん。それまでの議論を見ると、要するに白いものが「白ですっ!」というふうに映るんじゃなくて、網膜に届く光の量だけではまったく判断がつかないはずなのに、それが処理された結果として「白!」と見える、という話がしたいのだ。
上 p.15 正面から見れば四角いまな板も、傾ければ不規則な台形に見える。 正面から見たまな板は、各種の不規則な断片を傾けたのと同じ台形を投影できる。 図1-4 の下の図を見ると、まな板を傾けてるんじゃなくて、ほかの形でもまな板と同じ投影が可能だ、ということを言ってるのがわかるでしょ。(多すぎるのでこの手の細かいヤツはほどほどにしとく)
上 p.71 l. 2 サラ・ブラッファ・ハーディ サラ・ブラッファ・フルディ 綴りは Hrdy なので、どっちが正しいっつーわけでもないんだが。邦訳は フルディ になっております。おもしろい人で、売春はサルの頃からある、と示しつつ、同時にそれを人間のイデオロギーから否定的に捉えるのはまちがっている、と主張。一歩間違えると売春肯定論になりかねない議論をしているんだけど、その反動かもしれないが、妙にフェミニズムにすり寄ったへんな主張をするようになっている。
上 p.75 ll. 11-12 フーコーや、一部のフェミニズム研究家が唱える「リブ」理論が フーコーや、一部のフェミニズム研究家が唱えるファッショナブルな「リブ」理論が 細かいっすが。
上 p.77 ll.7-8 この機械は、有効なあらゆる論理系の公式を真の命題にあてはめて、新たな真の命題を導くことができる。 この機械は、有効なあらゆる論理系の公式を真の命題にあてはめて、新たな真の命題を導くことができる。そしてどんな文法規則でも適用して、きちんとした文を作り出せる。 訳し漏れ*1
上 p.78 グロリア・ステイニム グロリア・スタイネム 『プレイボーイクラブ潜入記』や『マリリン』で名高いフェミニズム活動家。まだフェミニズムがまともだった頃のえらい人。
上 p.78 大小の区別なくすべての野生生物は、よりよくなるため、生態系の調和を保つため に行動する、というロマンチックな戯言は忘れた方がいい すべての野生生物は大きなものも小さなものも、全体としての利益に奉仕して生態系の調和を保つように行動する、というロマンチックな戯言は忘れた方がいい 「よりよくなる」という部分がまちがい*1
上 p.84 ウィリアム・クンストラー ウィリアム・カンスラー この人も活躍が長くて日本での表記もいろいろ変わったけれど、昔(60-70年代)は「カンスラー」という表記が日本では一般的だった。でも最近はどうなのかな。マスコミ受けばかりねらったいやらしい弁護士。これは知らないほうが健全かも。
上 p.88 l.15 その結果、さまざまな外圧が生じたこと その結果、心は構造化などされていないと思い込ませようとする圧力が生じたこと 訳し漏れかな*1
上 p.104 ll.7-8 この機械は、有効なあらゆる論理系の公式を真の命題にあてはめて、新たな真の命題を導くことができる。 この機械は、有効なあらゆる論理系の公式を真の命題にあてはめて、新たな真の命題を導くことができる。そしてどんな文法規則でも適用して、きちんとした文を作り出せる。 訳し漏れ*1
上 p.107 想像の入り込む余地はないのである。 なぜなら、それ自体が想像だから。 正反対っす*1
上 p.108 Alex father-of Andrew(アンドリュー・アレックス・の父) アレックス、アンドリューの父 なぜか逆*1
上 p.119 小説家アーサー・ケスラー ライターのアーサー・ケストラー 頼みますよー。問題になってる本の邦訳だってあるんだし。
上 p.139 ブライアン・カーニガン ブライアン・カーニハン あの伝説の「プログラミング言語C」やその他 Unix 系やプログラミング全般のえらい人。
上 p.168 ジェームズ・マクリーランド ジェームズ・マクレランド ただしこれは、マクリーランドのほうが音としては正しくて既存のやつのほうがちがっているような気がする。
上 p.211 ウォルドーを探せ ウォーリーを探せ とっても有名な絵本です。日本ではウォーリーという名前で出てます。
上 p.236 櫂や岩や雲などの無生物のとうていおよぶところではない 水たまりや岩や雲などの無生物のとうていおよぶところではない puddle と paddle をまちがえたというお笑い。でもまあどっちも無生物だから大きな害はない*1
上 p.244 マレー・ジェルマン マレイ・ゲルマン 複雑系の話でも有名ですが、クォーク理論のえらい人。『クォークとジャガー』の邦訳もございます。
上 p.247 ジェイコブ・ブロノウスキ『アセント・オブ・マン』 ジェイコブ・ブロノフスキー 『人間の進歩』 邦訳もあります。
上 p.296 ハイエナが仲間に「もう我慢できねえ、なんかぶっ殺してやりてえよ!」といっているものがあった。 ハイエナが仲間に「もう我慢できねえ、(屍肉が見つかるのを待つのはやめて)もう自分で獲物を殺すぞ!」といっているものがあった。 こうでないと意味がとおらないでしょうに。通念では、屍肉あさりの動物は、自分では狩りをしないで、他人の残飯見つかるのを待つことになっている。だから、ハイエナがここで「自分で殺す!」と言いだすのがジョークになるわけだ。なお、ここは原文ではハゲタカ (vulture) になっているんだけれど、これはたぶんまちがい。邦訳では意味が通るように直っている。
中 p.31 ベラ・ジュレシュ ベラ・ユレシュ
中 p.138 自分が扱う問題に対して、はるか昔からの原則を利用した偏狭な推論モジュー ルをつくることに躊躇するはずもない 自分が扱う問題に対して、はるか昔からの規則性を利用した偏狭な推論モジュー ルをつくることに躊躇するはずもない 細こうございますが*1
中 p.145 もしAが、いくつかの特徴をBと共有していれば、おそらく他のものとも共有してい る もしAがいくつかの特徴をBと共有しているなら、おそらく他の特徴も共有している。 露骨な誤訳*1
中 p.148 しかし一つの祖先種から派生した種を示す、上位の分類カテゴリーの場合は、そう うまくいかない 一つの祖先種から派生した上位の分類カテゴリーの場合は、そううまくいかない 「種」という水準に限った話ではないので*1
中 p.176 ll. 5-6 私たちの心はほかの人の行動を彼等の信念や欲求によって説明する。 私たちの心はほかの人の行動を彼等の信念や欲求によって説明する。なぜかといえばほかの人たちの行動は本当にかれらの信念や欲求によって生じているからだ。 訳し漏れ*1
中 p.176 ll. 最後から4-3 私たちは考えて、それに疑問符をつけてわきに置き 私たちは(他者の)思考を扱うにあたり、それを心の中で引用符に入れて 細こうございますが*1
中 p.192 数学の力は、その形式規則体系がさまざまな起源をもつ人間行動の、それほど明 白ではない属性を体系的にまとめられるところにある 数学のもつ力は、その形式規則体系がそれらの規則のもととなった(その起源に あった)さまざまな人間行動のそれほど明白ではない属性を体系的にまとめられるところにある 細こうございますが*1
中 p.197 予測屋という大規模産業は、株式市場のランダムウォークの傾向に幻覚を感じる 自画自賛の予測屋たちという大規模産業は、株式市場の(株価の)ランダムウォークに何やらトレンドを妄想してしまう 株価は何ら規則性を持たない(株価に影響するような事件は規則性を持って起こったりしないから)というのが現在のファイナンス理論の中核をなすランダムウォーク仮説。これに対して、相場師とか罫線屋という連中は、そこに何か規則があると主張する(三日下げたらその後5日つづけて上がる、とか上下動を三回繰り返すと上昇基調になる、とか)。でも、人はランダムな中につい何かパターンを見てしまいがちなのです。ランダムウォークはかなり優れた現実で、そこにパターンがあると思うのが幻覚なのだ*1
中 p.203 だから直観は、やっかいな問題を単一事象の確率としてではなく、頻度で表現す る そこで彼ら(= Gigerenzer, Cosmides, Tooby)は被験者に再度やっかいな問題を尋ねたが、今回は単一事象の確率としてではなく、頻度としてたずねた。 これ、かなーりトホホです*1
中 p.204 ラトヤ・ジャクソン ラトーヤ・ジャクソン 知ってるほうが恥かしいかもしれないけど、ジャクソン・ファミリーの不肖の問題児。日本盤も著書邦訳もあります。
中 p.228 孤独なインドネシア人 孤独なインドシナ人 *1
中 p.228 そんなことが起こるなどだれも考えていなかったからだ あの場所でそんなことが起こるとはだれも考えていなかったから。 *1
中 p.233 そんなことが起こるなどだれも考えていなかったからだ あの場所でそんなことが起こるとはだれも考えていなかったから。 *1
中 p.235 そこからは、その文化にありふれた行動や、ポローニアスの知恵や、わざわざ口に 出さないちょっとした意味をもつ因習など、深い文化の知恵は得られない そこから得られるのは、その文化の深淵な知恵なんかではなく、むしろその文化の故事成句、つまりポロニアスの知恵みたいなもので、有益な意味での因習というよりはどうでもいいお作法でしかない。 かなりいい加減にやっつけてます。*1
中 p.276 片方がもう一方より優位に立つと、あたかもその人全体が、手中の一羽は藪の中の 二羽に相当すると信じるようにデザインされているかのようにふるまう まるで「手中の一羽は藪の中の二羽に相当する」と信じるよう、あらかじめ自己全体 がデザインされているように、(即座に報酬をえるという)一方の選択肢が選ばれる。 話の進み方が逆*1
中 p.289 しかし私たちが本物の情動を感じるのは、感じる人の役に立つことが期待されるからではなく、感じる人の祖先を助けたからである。親の不正を子になすりつけるべきではないし、親もはじめはよこしまではなかったのかもしれない。 しかし私たちが本物の情動を感じるのは、それが感じる人の役に立つかもしれないからではなく、感じる人の祖先をそれが実際に助けたからである。それに、これは単に祖先の不正について子を批判すべきじゃないというだけの話でもない。(情動を通じて利益を得た)祖先たちは、そもそも不正をはたらいていたわけではないかもしれないのだ。 情動を通じて得られる利益が、ただの可能性ではなく実際に存在したものだということ、そしてそれは別に「うーむ、目に水をためてるやつを助けると見返りがあるようだから、そういう反応を身につけてそれを『哀れみ』と名付けて、なんか立派なものだということにしよう」という計算ずくの勘定高いインチキではなく、自他共に利益をもたらすものだったからこそ発達した可能性が高い、ということ。これが論点ですねえ。「はじめは」というのはto begin withというのの訳だけれど、これは「そもそも」と訳すのが正しゅうございます。
中 p.313 マイケル・ガザンガ マイケル・ガザニガ 邦訳、いっぱいあります。
下 p.7 冒頭のところ - 某著作権管理銭ゲバ団体にナシが通ってないようなんですけど、いーんでしょうか。
下 p.7 不信、嫉妬、競争、欲望、操作 不信、嫉妬、競争、貪欲、人心操作 まあまちがいってほどじゃないけど特に「操作」ってそれだけじゃ何のことやらわからないでしょう。
下 p.7 無効性が見すごしにされてきた旧弊な慣習だという見解もあった。 非効率性が見過ごしにされてきた気持ちの悪い因習だと考える人もいた。 原文はinefficiency. 無効とまではいきません。
下 p.8 舗道で花をつける雑草のように 舗装を突き破って生えてくる花のように顔を出し emerging like flowers through the pavement. 硬い舗装をあちこちで突き破ってくる、というイメージがポイントでございます。
下 p.146 マンネリズム マニエリスム 一応芸術様式の話をしているところですしぃ。だんだんよくなるホッケの太鼓、とも申します。
下 p.147 ジェームズ・ジョイス ジェイムズ・ジョイス 邦訳はすべて「ジェイムズ」表記です。ジョイスを知らないのが世間的にいかに無教養とされるか、という下りでこういうのをやっちゃうのは……
下 p.147 アンドリュー・ロイド・ウェーバー アンドリュー・ロイド・ウェバー まあこっちは、好きなやつは無教養人と思われるやつだからわざとまちがえた……わきゃねーよな。
下 p.176 クライアントに誘惑されたとして、起こりうる最悪の事態は? クライアントに誘惑されたとして、起こりうる最悪の事態は? 田舎医者の妻としての退屈な生活に刺激を求めて情事に走ったら起こりうる最悪の事態は? 見落とし。
下 p.184 イサク・ディネセン アイザック・ディネーセン です。イサク・ディネーセンという表記を主張する人もあり。
下 p.184 たとえば中絶の権利について横道にそれた質問をされたとき たとえば中絶の権利に関する質問をかわそうとして、 deflectを訳しまちがい。
下 p.184 「そうだ、そうだ」 「はいはい、そうですか」 「そうだ、そうだ」では否定の意味を伝えられないではないか。この代案もいまいちではあるけど。
下 p.208 (各種タブロイド判見出しのとこ) シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』 ただの見落としだろうなあ。

*1 TNX 2 Nahomi Soda. タレコミから反映が半年も遅れてごめんなさい。

 もっと内容に関わる致命的な誤訳もいくつかあるという噂なので、お気づきの方は是非情報をお寄せいただけるとありがたい。

 また、訳の問題ではないけれど、『心の仕組み』に対するかなり深い批判として、Jerry Fodor The Mind Doesn't Work That Way はおもしろかった。基本は、「まだまだわかんないことはたくさんあるので、ピンカーのあまりに楽天的な部分はちょっと割り引くべき(基本はまちがっちゃいないだろうけど)」という本。が、これってどう評価されているのかわからない。

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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)
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