Paul Krugman The Age of Diminished Expectations, 3rd Edition

あとがきと解説とか、そんなもの

ポール・クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』(原題「期待しない時代」第3版)メディアワークス、1998)

山形浩生
 

1. 総論

 この本は、1997年6月にアメリカのMIT Pressから出た、Paul Krugman The Age of Diminished Expectations 第三版の全訳だ。さらに、この版では削除されていた企業ファイナンスの章を、おまけで復活させてある。日本ではこれから大事になる中身だと思うから。ついでに、クルーグマンが1998年5月に書いた、日本の果てしない不景気についての試論もくっつけてある。ちょっとむずかしいけれど、この本の本編を一通り読んだら、言ってることはだいたいわかるはずなんだ。ここでの結論がいかに常識はずれな(でも筋の通った)議論か、ということも。

 著者ポール・クルーグマンは、マサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学教授で、気鋭の若手経済学者。この本の初版を書いた頃には、まだたった35、6歳だった。貿易理論や為替理論みたいな国際経済の分野では、このころからもう若手ホープとして鬼才を発揮し続けていて、一方でレスター・サローなんかの通俗エセ経済学者たち(でも、MITでは一応の上司だったんだけどねー)をからかいつつ、一般の読者向けに最先端の経済学と経済政策を楽しくわかりやすく解説してくれる、すごく勉強になってしかも楽しく読めちゃうという神業みたいな著作でも知られる。
 そしてこの本は、そのクルーグマンが初めてその神業を発揮した、初の一版向けの経済解説書だ。

 訳者としてこの本について述べておかなきゃなんない点は、次の3つ:この本の訳文について、この本そのものの意義について、そして著者ポール・クルーグマンの業績について。あらかじめ警告しておくけれど、これはかなりくどくて長くてうっとうしい文章になるので、読むのは体力と気力の充実しているときにしてね。


2. なんだね、このふざけた訳は?

 一見してわかるとおり、ぼくはこの本をすごくくだけた文体で訳している。それが原文の雰囲気に一番近いし、もとの本が想定しているような読者層――いろんな経済論議の要点はわかりたいけれど、それ以外にやることがたくさんある経済学者でない人たち――にいちばん届きやすい文体だと思うからだ。届きやすいというのはここでは、読んで内容を理解してもらえる、という意味。

 ただし文体がくだけていても、レベルが低いわけじゃない。日本では、多くの人はくだけた文体イコールがき向けの幼稚な内容だと誤解してしまう。「はーい、いいでちゅかー、いちたしゅいちわ、にでちゅよー」というような。実際、日本に腐るほどある「入門書」とか「必ずわかる」とかいう本は、ほとんどみんなこの手合いだ。
 が、この本はちがう。それどころか、ここで説明されているのは、理論的にはまさにいまの経済学の最先端だったりする。ある人はこの草稿を読んで、「訳文見てもっとバカな本かと思ったら、これってすごい高度なこと書いてない?」と言った。槇本よ、おぬしはえらい。その通りなのよ。そして「こういうのを読むような人は、こういう文体には反発するんじゃないか」と心配してくれた池田。うん、その気持ちはよくわかる。でも、この本の原書は、まさに「こういうのを読む人」(つまりは学者か経済屋さん)以外の人に、「こういうの」を読ませる(そしてわからせる)ことなんだ。

 そもそもこの訳文は、一見して思えるほどおちゃらけたもんじゃないのよ。これをいわゆる「超訳」だと思う人がいるかもしれない。原文はもっともっとまじめでお堅い代物なんだけれど、山形がウケ狙いで無理矢理こんな文体にしちゃったんじゃないか、ってね。
 でも、そんなことは(ほとんど)ないんだ。ぼくがやってることの9割は、たとえば「増大する」というかわりに「ふえる」といってるだけなんだよ。「貿易赤字の大幅拡大が重要課題として浮上してきた」と言うかわりに「貿易赤字がすごくふえて、それが大問題になってきた」と言ってるだけなの。「日本の貿易慣行は多大な反発に直面することになった」と言わずに「日本の貿易のやりくちは、すっごい嫌われちゃったんだ」と言うとか。この本の原題にある「diminish」は、経済学者が訳すと必ず「逓減」になる。でも、diminishは日常用語だけれど、逓減は経済学のギョーカイ内でしか通用しない、変なことばだ。素人にもわかるようになるべく簡単なことばで、という原著の趣旨にはふさわしくない。ぼくはよほどの理由がない限り「だんだん減る」と訳している。いずれも意味はまったく同じ。前者がまじめて信用できて、後者がおちゃらけで信用できないってのは、ただの権威主義でしかない。そしてどっちが広い読者に伝わるかといえば、圧倒的に後者だよ。

 さらにだめ押しで、これが原文の文体をほぼそのまま忠実に反映させたものだ、と言ったら、びっくりするかな。ちょっとは遊ばせてもらってるけれど、それでも世にでまわってるクルーグマンのほかの翻訳なんかよりは、この訳のほうがずっと原文の雰囲気に近いんだよ。
 これを証明するのはむずかしい。でもそうだな、たとえばこの人が多用してる軽いジョークやはなしことばに注目してみてよ。「貿易赤字」で出てくる「100%をちょっと上回るくらいまちがってる」というおちゃらけた言い回し。あるいは冒頭に出てくる「ギリシャ式、ジェットコースター式、空港式」なんていう経済書のふざけた分類。あるいは第一部のリード文に出てくる「人生で大事なことはわずかだけど、実際に気にするのはどうでもいいことばかり――たとえば地下室を片づけるとか」みたいなオチのつけ方。つまり原文は、ふつーの人が冗談混じりで気楽に使うような、口語の文体で書かれてるんだ。

 最近の文になると、これがもっとすさまじい。駄洒落と罵倒がてんこ盛りで、文体はさらにくだけまくり。
 たとえば、アジアの転落を予言したとされる(ちがうんだけどね)「アジアの奇跡という幻想」(『クルーグマンの良い経済学、悪い経済学』所収)にはこんなくだりがある。「こんな暴論を信じる気にはなれないかもしれないが、数字を避けて通ることはできないのだ」(邦訳 p.209)
 おかたい普通の文だよね。でも原文はいささかちがうんだ。「you may not want to believe this, buster, but there's just no way around the data.」
 翻訳では完全に捨てられてるこのbusterということばに注目。これは、ちょっと侮蔑をこめた呼びかけで、捨てぜりふや酒場の口論でよく出てくる表現なんだよ。これと、強調の just があることで、この文のニュアンスってのはぜんぜんちがってくるわけ。正しくは「信じたくないかもしれんがね、にーちゃん、このデータからはどうしたって逃げられないんだぜ」くらいの感じ。クルーグマンは、このくらいの言い回しを、たいがいの文でごくふつうに平気で使う人なんだ。
 そしてこの文の直後に出てくる、テレビドラマ「ドラグネット」のフライデー刑事の引用。日本で言うなら、まあ「遠山の金さん」みたいなもんだ。あるいは最近の文章ではBuffy the Vampire Slayer(「美少女戦士セーラームーン」だと思いねぇ)の引用まで出てきて、ぼくはのけぞったね。『中央公論』や『世界』に「この桜吹雪がだまっちゃいねーぜっ!」「月にかわってお仕置きよっ!」なんてのをちりばめた文が載ったところを想像してみてよ。まあ最近の『世界』は常盤貴子のインタビューをのせちゃうくらいだからわかんないけど。そのくらい原文はくだけてるんだ。そう、まさにこの翻訳なみに。

 でもくだけた文体は、ウケ(だけ)を狙ってるわけじゃない。読みやすさとわかりやすさを増すための仕掛けなんだ。『経済政策を売り歩く人々』とか、あるいはもっと専門的な『自己組織化の経済学』だっていい。みんなこれと大差ないすごく生き生きした文章で書かれてる。クルーグマンが実際に目の前に読者や聴衆をイメージして、それにどう語りかけようか、どうやって自分のメッセージを伝えようか、楽しみながらも吟味しているのがよくわかる。
 それがいまの翻訳では、どうしてどれも死んだ魚みたいなどんよりした文章になっちゃうんだろう。訳者にユーモアのセンスがないからかな。こういう文体で文を書いたことがないせいもあるだろうね。そして最大の原因は、既存の訳者たちが読者のほうを向いて翻訳してないってことなの。この人たちは、実際に目の前のだれかに何かを説明しようとして、なにかを伝えようと考えて翻訳してない。翻訳を、紙の上だけの単語の置き換えだと思ってる。ことばには、文体やニュアンスや躍動感があって、それも大事な伝えるべき「意味」の一部だってことがまったく理解できていないんだ。だからそこでのクルーグマンの努力が、全部殺されてしまってる。これはクルーグマンにとっても読者にとっても、不幸なことだなと思う。
 この本の訳はその点、ちゃんとモルモット(同僚たち)を使ってすべて読みやすさと理解度をテストしてある。そういう不幸な事態を招かないように、徹底的にQC済み。この意味で、これは異様に良心的な翻訳なんだよ。福沢諭吉や中江兆民このかた、ほかにだれがここまでしたね?

 それでもこの文体は……とおっしゃるあなた。あのさ、この本の初版を書いたときのクルーグマンって、何とたったの35歳だったんだよ。ぼくがいま34。ほとんど変わんないでしょ。で、ぼくはいまでも日々こういうしゃべりかたをしてるわけ。ぼくの友だちもみんな、こういうしゃべり方をする。じゃあ同年代の頃のクルーグマンにこういう口をきいてもらったって、なんか文句あるかっつーのだ。

 序文のサミュエルソンは? まあこれは愛嬌ってことで許してよ。本物のサミュエルソンはもっとお高いスノッブな人だから、こんな噺家みたいな口はきくまい……いや、きくかもよ。『経済学』序文の、びんに入ったメッセージを拾った男の子のエピソードを読むと、しゃれがわかる人なのはまちがいないんだから。(Note:編集者要望により、サミュエルソンの文体はずっとおとなしいものにしたため、この段削除。もとの訳は上のリンクからどうぞ。ぼくはこっちのほうが好きだなあ)

 そして最後にだめ押し。この訳がお気に召さないのなら、昔の訳をさがして読むよろしアルね。本書の初版にはすでに翻訳がある。『90年代アメリカ経済政策』(TBSブリタニカ、長谷川慶太郎監訳)。監訳者の名前を見た瞬間に信頼の瓦解を感じるのは人情だし、翻訳もそれなりのものでしかないけど、伝統的な小難しい翻訳に慣らされてしまってる不幸な人は、こちらを読んでいただければ幸甚。原文の中身は、特に第4部のファイナンスがらみの部分がたくさん変わってるのと、ヘルスケアの章がつけくわわったのが大きな変更点。あとはちょっとした加筆にとどまっている。


3. この本はなぜクールか

 本書がクールだってことは、あのポール・サミュエルソンも序文で断言してる。「試練をくぐりぬけて能力を実証してみせた研究家が書いたもので、強調すべき要点をちゃーんと選び出して、それを筋が通るようにまとめてくれて、しかも読んだ人に自信と理解をつけさせるってな本」。その通りなんだ。

 ホント、ぼくたちが暇つぶし以外で本を読むときに求めるのは、そういう本でしょ。なにがだいじでなにがそうでないかをきちんと選り分けて、しかもそれを、素人にもわかるように説明してくれる本。経済についての本質的な考え方や見方を教えてくれる本。経済学(いや経済に限らず)という学問がつくってきた、現実に対する思考の成果と力を、さわりだけでもわけてくれる本。

 もちろん経済入門と称する本は山ほどある。でも、こういうのの多くは、経済について教えてくれるものじゃない。インチキ扇情「ビジネス」書なんかそもそも論外だけど、それ以外でもほとんどは経済「学」について書いた本なんだ。「需要と供給で云々」ではじまって、それが実際の政策にどう影響しているのかはいつまでたっても見えてこない。むしろ経済理論を説明するためにいろんな現実の現象が引き合いにだされる感じだ。あるいは基礎概念解説書みたいなものでは「GDP成長率」と「内外価格差」と「地価」と「規制緩和」なんていう、レベルのまったくちがうものが、整理もされずに同列にずらずら並んでいるだけで、何が大事なのかわかりゃしない。
 さらに、「入門書」と称する本の多くは、えらく一方的な書き方しかされていない。著者の見解だけが「こうですっ!」と結論として述べられてて、反対意見が紹介されていても、ハナからバカにすべきものとして扱われてるだけ。もちろん、著者のわかることしか書かれていないし、あらゆることがさも重要でむずかしそう。
 そしてきわめつけは、現状がいいとか悪いとかは言うことがあっても、なぜそれが現状になってるか、あるいはどういう可能性があるかについては、何の説明もないこと。規制緩和がそんなにすばらしいなら、なぜそもそも規制があるの? 土地の流動化が大事なら、なぜそうなるようにしないの? 何が望ましくて、何が障害なの? それがわからなければ、ぼくたちは何もできない。

 この本では、何もかもがちがう。まず、本書は「経済学」の本じゃない。「経済」の本だ。経済のトピックがまずあって、「学」はあくまでそれを説明するツールだ、というのが貫徹されている。経済で見るべき物事の序列ってのが、有無をいわさず明らかになってる。いろんな問題について、学問の分野や政策の分野で戦わされている議論が公平に紹介されていて、同じ問題のいろんな側面や、そうした立場にいたる道筋がはっきりわかる。ひたすらおバカな議論と、クルーグマン自身は賛成しないけど傾聴すべき意見とがきちんと仕訳されている。さらにそれをとりまく政治的な立場までが説明されて、ほんとの経済政策の場で働いてる力関係もうまく示されてる。これを読めばわかるじゃん。なぜ事態がいまみたいになっているのか。この先、どういう展開があるのか。そこでぼくたちが注目すべきなのは何かってことが。

 そしてぼくがこの本で何よりも好きでだいじだと思うのは、わかってないことについては、もったいつけずにちゃんと「わかってないよ」とはっきり書いてくれることなんだ。だいじじゃないことは「だいじじゃないよ」と説明してくれることなんだ。

 ぼくはこの本を読んで、目からうろこが山ほど落ちた。そうなのぉ??!? 生産性って、どうしてあがったり下がったりするのか、わかってないの?!?! インフレって経済大崩壊への序曲じゃないわけ???! G7国際サミットって、そんなどうでもいい代物なの? 日米貿易摩擦ってのも、大騒ぎするほどのもんじゃないわけ? 保護貿易っていいものではないけど、悪魔の尖兵でもなかったのね?!? 欧州通貨統合ってのも、そんな怪しげな代物でしかないのぉ??!
 そんなの常識じゃん、とうそぶいたあなた。気取るのはおよし。だって世の中の論調ってぜんぜんちがうじゃないか! 情報投資で生産性バリバリってな話を、みんな腐るほど読まされてるんだぜ。G7はいかにも重要そうな扱いうけるじゃん。貿易摩擦も大騒ぎするではないの。あれはいったい何なんだ!(ちなみに本書は、ごていねいなことにそれも説明してくれるのだ。)

 この本は、結論だけを声高にどなったりしない。結論よりは、その結論にどうやって到達するか、その思考のプロセスを伝えてくれる。だからこそ、アメリカについての本なのに、その中身は日本でも十分に通用するんだ。
 クルーグマン自身の結論に、あなたは必ずしも賛成しないかもしれない。それでいいんだ。でもこの本を読み終えたあなたは、もういままでと同じ目では新聞や雑誌を見ないだろう。日経が何をどうあおろうと、「ユーロの脅威」なんて報道をまじめに読んだりはしないはず。どこでつっこみを入れればいいか、わかるようになってるはずだから。「新規産業分野育成」なんて話も、眉にたっぷりツバをつけて読むようになるだろう。「自由化」「規制緩和」も、それだけでは手放しで喜んだりしないだろう。不良債権問題での大蔵省の小手先対応にも、ちゃんと首を傾げられるようになっているだろう。そして世のインチキ経済ヒョーロンカが、いかにトンチンカンなことを口走っているかも、よっくわかるようになるだろう。ここまでのことをしてくれる本が、ほかに一冊でもあるか? クールってのは、こういう本のことをいうんだよ。


4. くるーぐまんせんせいのこと

 この訳の草稿を読んでくれたモルモット諸君に、クルーグマンの専門って何なんですか、と聞かれたことが何度かあった。うーん、それは山形の専門がなんなのかっつーのとおなじくらい(笑)むずかしいんだな。しかもそれは専門家に任せようと思って最近の邦訳の解説を見たら、きちんとした説明がぜんぜんない!

 とゆーわけで仕方ない。ぼくがやる。ぼくは経済学者じゃないから細かいとこはちょいとアレだけど、なに、大筋ははずさないよ((c) 黒木玄)。そしてこれをみれば、かれのやったいろんな仕事の内容が、かなりダイレクトにこの本に反映されていることはわかってもらえるだろう。
 

貿易に関するはなし

 なんといっても、クルーグマンはこれがメインだ。かれはNew Trade Theoryの旗手の一人としてその名を馳せた人なんだよ。
 ここでのかれの主張は、この本の第10章「自由貿易と保護主義」にまとまってる。そもそもなぜ貿易なんか起きるの? それまでの貿易理論は、各国には地理や資源面で差があるからだ、と答えていた。ある国はリンゴをつくるのに適してる。ある国は石油がとれ、ある国は飛行機づくりが得意。いちばん得意なものに特化してそれを交換するのが貿易だ、というわけ。
 これはこれで正しい。でも「飛行機をつくるのに適してる」ってなんだ? 特にソフトやサービス産業。映画はハリウッド産が多いけど、別にハリウッドじゃなきゃならない決定的な理由はないじゃないか。
 こういうのは、たまたま最初にそこで何本か映画が作られて、それで関連人材が集まってきて、それで映画がもっと作りやすくなって、また人が集まって……という、集積効果がある。地理条件や資源は同じでも、ちょっとした偶然による差がだんだん拡大して、その差が貿易を生むことも(も、だよ。これまでの理論が否定されたんじゃないよ)ある、というのがクルーグマンたちの理論だ。
 あたりまえの話だよね。でも、それまではこの「あたりまえ」をモデル化する方法がなかった。クルーグマンたちはそれを、すごく単純きわまりないモデルであっさり描ききって、新しい対象を経済学がとりあげる突破口を切り拓いたんだ。ここらへんの話はかれのRethinking International Trade (1990, MIT Press) に入ってる論文を読んでね。
 

為替がらみのはなし

 貿易を考えるのに、為替レートがだいじなのはあたりまえなんだけど、でも両方やってる人はほとんどいない。クルーグマンはその例外の一人。
 70年代半ば、投機屋さんの攻撃に耐えかねて変動為替制が導入された。これで投機屋さんたちの出番はなくなって為替は安定し、国力(そんな急に変わるもんじゃない)にあわせて緩やかに変化する……はずが、それ以来むちゃくちゃな変動を繰り返してるのはご承知のとおり。なぜだ!
 新聞では為替レートが動くたびに、やれナントカ筋に不安が広がったとかもっともらしい話がでるけど、あんなのは理由でも説明でもなんでもない。ただの後づけのいいわけ。いずれ落ち着く先がわかってるなら、なぜみんな、そんな一瞬ごとにびくびくするんだろう。
 これは、従来の経済学では説明できなかった。クルーグマンの答はこうだ。一つには、市場の統合が不完全であること(グローバル経済ってのが実はそれほどグローバルでないってのは、本書でも何度か指摘されてるよね)。そしてそれと関連して、企業が為替レートの変化にすぐには対応できない/しない。だって為替レートはあまりにしょっちゅう変わるから、「しばらく様子を見よう」というのが一番いい手だったりするものね。そしてその対応の遅れのため、最初のちょっとした変化は大きく増幅されてしまうんだ。この細部には立ち入らないけど、「レートが派手に振れるからみんな様子を見る→みんな様子を見るから派手に振れる」という堂々めぐりの構造の指摘――これは、クルーグマンの十八番だ。
 この研究をするなかで、かれは外国為替市場での投資家の動きが、短期的にも長期的にも合理的(経済学的な意味で)じゃないことを指摘する。つまりいまの為替相場は、いつもバブルでぶくぶくしてるんだ。だから、通貨危機はいつでも起こり得る。これと発展途上国の累積債務の問題とからめて、クルーグマンは通貨危機についてもいろいろ研究を発表している。
 こういう話については、Exchange-Rate Instability (1989, MIT Press。短くてやさしいよ)とCurrency and Crisis (1992, MIT Press) を読んでね。そしてもちろん、本書の「ドル」とか「ぐろぉばるファイナンス」とかの章は、こことダイレクトにかかわる内容だ。
 もちろん最近のかれは、アジアの1997年の通貨危機についていろいろ論文を出している。アジアで猖獗を極めてる、血縁がらみの腐った銀行システムが人々に甘い見通しを抱かせ(「どうせスハルトがなんとかしてくれるよ」等)、それがバブルを生んだのが原因、という理論。おもしろいよ。こういうのはかれのホームページで読める。
 

立地と都市に関するはなし

 これはかれの貿易論から出てきた方向性。貿易の話は、最初のちょっとしたちがいが、やがて大きなちがいを生んでそれが貿易につながる、という話だった。待てよ、だったらその「大きなちがい」というのを地上に落としてみれば、地域ごとの差ってのがなぜできるか(つまり国でも都市でも、なぜ特定箇所にいろんなものが集中するか)を説明できるじゃないか!
 これがかれの経済地理論だ。最初のちょっとした差が拡大するのと、たまたま歴史の偶然で生じた差が、地域差をうむのに非常に大事な役割を果たす、ということ。もちろんここでも、この手の話はみんな知ってはいた。実務レベルではもちろん出てくる。でも、理論的な枠組みがないと、しょせんそれは整理されないお話の固まりで、具体的な見通しを出すには弱いのだ。
 実は経済学(あるいは都市論)の中で、いろんなものがなぜ集中するかについて、ちゃんとした理論はあんましないんだ。たとえばなぜ証券会社はウォール街や兜町や日本橋に集まるんだろうか。フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションが大事だと言うけど、実際に集まってる企業を調べたら、そんなしょっちゅうツラつきあわせてるわけじゃない。それに、もし集積するメリットがホントにあるなら、それにあわせてもっと地価や賃料があがって、結局はそのメリットをうち消しちゃうはずではないの。なぜそうらならないの? 既存の「東京一極集中」に関する本を読むと、「集中してるからにはいいことがあるはずだ」と繰り返すだけで、そこのロジックをちゃんと詰めたものはほとんどない。
 クルーグマンもそこのところをまだきちんと詰め切ったわけではないんだけれど、それを可能にしてくれるかもしれない切り口を示している。最近ではこれをさらに発展させて、ほとんど同じ初期条件から、わずかな差がどんどん拡大して大都市がウニウニっと集積して盛り上がってくるようなモデルをかれは作っていて、こいつはなかなかおもしろい。そしてそれが、複雑系理論なんかとも関わる部分を持ってる、というのが近著The Self-Organizing Economy (1996, Blackwell) のテーマだ。
 この手の話は、まず手軽なGeography and Trade (1991, MIT Press) と、ちょっとむずかしいけどDevelopment, Geography and Economic Theory (1995, MIT Press) から入るのが王道。
 

アジアに関するはなし

 最近はこのネタで妙に持ち上げられてるけど、これはかれの専門じゃないし、研究成果があるわけでもない。唯一、「アジアの奇跡という幻想」で、アジアの成長は人や資本をガンガン突っ込んでるだけだから、このままだといずれ息切れするよ、という他人の研究を紹介したのが手柄かな。
 しかも1997年に実際に起きたのは、このエッセイで指摘されていたような話ではなかったのね。むしろかれの通貨や為替についての研究に近い話だった。というわけで、この件はそっちを見て。
 

複雑系のはなし

 あー、まず一言。「複雑系」ということばそのものには何の意味もないんだってことはよく理解してね。なんかの聞きかじりで「これからは複雑系です」なんて発言(いるんだ、こういうこと得意げに口走るヤツが)に対しては、冷たい目で「それがどーした」と言ってやってね。問題は、それで何ができるか、ということなんだから。
 さてThe Self-Organizing Economy (1996, Blackwell)とゆー本を書いたことで、クルーグマンは一部で複雑系経済学野郎にされちゃってる。でもかれにとって複雑系ってのは別に独立した分野じゃない。そもそも経済学自体が、もとから複雑系的な考え方を含む学問なの。
 ただしその中でも、上で述べた貿易理論や立地論や為替理論で、ものごとの規模が大きくなるほど活動コストが下がること(いわゆる収益逓増ってヤツ)や正のフィードバックの影響に注目して、それを明快にモデル化してきたのがクルーグマンの強みだったのは確かだ。これって世間で言う「複雑系」ってのと似てるじゃん、その中でも都市の成長とかバブルとか、雪だるま式に大きくなるいろんな現象に通じる自己組織化の原理って使えそうじゃん、というのを実際にモデルを作って説明してるのがThe Self-Organizing Economy の中身。
 講演ベースの本だから、原文は軽快で、世界の景気サイクルのフェーズロックとか、かなりめちゃくちゃな放言も入ってて楽しい。でも邦訳はすでに述べたけど、あまり感心しない(死んだ魚……)。それと訳者解説の「クルーグマンの理論の最大の問題は時間の概念がないことだ」なんてのは、まるで見当はずれだと思うね。そんなの現実の都市で調べればすぐ計算できそうなもんだ。問題はむしろ、その条件探しだよ。その「真ん中くらいに強い影響力を持つ条件」「二周くらいする条件」って、具体的になんなの? その決定的な立地要因や集積要因をいくつか抽出してみせてよ。時間軸なんかぼくが見つけてあげるからさ。

 蛇足ながら(なーんて、いたるところ蛇足ではあるが)、クルーグマンは軽薄な痴的流行がむかしから大嫌いな人で、そういうのは機会あるごとに徹底的にバカにしてけなしてきた(パチパチ)。ゼロサム社会とかグローバル化とか情報化とか、ニューエコノミーとか、アジアの奇跡とか。かれはこれまでの堅実な学問の力を信じているし、それを否定するものは容赦なくバカにして嘲笑し、ボコボコにけなす。
 「複雑系」だって例外じゃない。最近になってかれは、同じく「複雑系」経済学者として知られるブライアン・アーサーをこっぴどくこきおろした文を書いている。曰く、「複雑系」経済学といっても、それはこれまでの経済を否定するものじゃない。いままでの経済学の上に築かれてるもので、それをほんの一歩進めるにすぎないんだ、だからだれか(アーサーとか)が一人果敢に旧態然とした経済学エスタブリッシュメントに反旗を翻して「複雑系」経済学をうち立てました、みたいな図式はやめんかぁっ!
 この文自体は、必要以上にむきになってる観もあったけれど、それでもかれの憤りはよくわかるのだ。こんなこともあって、これからしばらくは「複雑系」だの「自己組織化」だのを前面にうちだした仕事は減るんじゃないかな。かれの仕事すべてに、これからもそうした要素が含まれ続けるのはもちろんなんだけれど。

 さて、クルーグマンの論文すべてに共通する特徴は、この本からもわかると思う。かれはいつも、一般常識的には当然だけれど経済学ではほとんど取りあげられてこなかった現象を選び出す。そしてすごく簡単なモデルをつくり(クルーグマンに対する批判の多くは、「あいつはなんでもかんでも単純にしすぎる」というものだ)、それまでの経済常識とかなりちがう結論を引き出す。そしてそれがすべて、とっても大きな政策的意味を持っているんだ。
 かれはケインジアンだ。人も市場も完全には合理的じゃないし、情報は不完全で、だから市場が機能しなくなって不況もおきる。だから、市場原理はすばらしいけど、市場に任せれば万事オッケーではないし、民間がつねに高効率ですばらしいわけでもない。ちゃんとした規制は絶対に必要だし、財政政策や公共事業みたいな経済政策ってのは(ちゃんとやればある程度は)役にたつし必要だという立場。だからかれにとって、(結果的に)政策決定にかかわるような研究をすることは重要なんだ。
 かれの学問的な話については、こんなもんだろう。
 

その他雑文

 クルーグマンのもっと気軽な文章ってのはいろいろあって、とっても楽しい。主なとこは『クルーグマンのよい経済学 悪い経済学』(日本経済新聞社)や最新作Accidental Theorist(1998, W. W. Norton. どこが版権とったのかな)で読める。なかでも注目したいのが、『よい経済学 悪い経済学』に入ってる「技術の復讐」ってやつ。この文でこの人は、人間が世界の主役でなくなる日を本気で考えている。「『知的』な仕事なんてコンピュータでもじゅうぶんにできる。人間にしかできない仕事ってのは、実は掃除とかメンテナンスとかの肉体労働的な雑用だ!」半分はホラ話としてだけど、半分以上はまじめに。スタニスワフ・レムやウィリアム・ギブスンが直感でつかんだのと同じ未来を、かれは経済学者としての視点で見通してる。なにげなく書かれているこの文章の重みを、あなたはどう受け止めるね。ぼくたちはいま、霊長類ではなくなりつつあるんだ。いずれこの時代を振り返って、だれか/何かが言うだろう。車は人間に運転と整備をさせ、コンピュータは人を使って計算力をあげていった、機械が人間という家畜を獲得したのが20世紀末から21世紀だったのだ、と。
 今後数十年で、かれのこの洞察がもっともっとだいじな意味をもってくる。いちばん近々生じる具体的な帰結としてかれがはっきり述べているのが、高等教育の価値低下であり、肉体労働の復権だ。ゲーリー・ベッカーなら何と言うかな。

 あと、かれは公式ホームページを持ってる。1997年以降のかれの書いた文章は、ほぼすべてここで読める。自伝めいた文章もいくつかあって、なぜ経済学者を志したか、なんて話が出ているんだが……実はかれはSFファンで、アイザック・アシモフの『ファウンデーション』シリーズが大好きだったそうな。「だからぼくは、10代の頃は実は心理歴史学者になりたかったんだけれど、そんなものは(まだ)なかった。仕方ない、一番近いものってことで、経済学者になったんだ」
 おお! かれもまたハリ・セルダンを奉じる同志であったか! と、同じくSF少年だったぼくは、感涙にむせぶのである(とはいえぼくはひねくれ屋だからミュールが好きなのだ)。意味がわからない? ふん、SFファンでなかった己の不徳を恥じるがよいのだ。わはははは。


5. おまけについて

 さて、おまけでつけた「日本のはまった罠」について一言。いま、日本で人が経済書なんかを手にするいちばんの理由は、いまのこの不景気について知りたいからだと思う。これをどう考えればいいのか、どう脱出すればいいのか。

 クルーグマンのいま時点での結論が、この論文になる。すごく単純化された、簡単なモデル、軽い文体、そしてそのモデルから導かれるはっきりした説明と、それが持つ異様なほど意外な結論というパターンはここでも健在だ。「日本は本気でインフレを目指すべきだ!」
 これが現実問題としてどんなに突拍子もない提案か、この本を一通り読んだあなたにはわかるはず。一方で、インフレには極端な害はない、というのもわかってるよね。うーん、ホントかよ……でもその是非はさておき、こういうことをまじめに言えてしまう知的な確信ってすごいよね。ふつうの人なら、思ってもこういうことはこわくて口にしないもん。

 これは本編よりも、「ギリシャ文字」式の文だ(それでもこの程度だけど)。だから訳もちょっと固めにしておいた(アルデンテね)。でも、本編を一通り読んで理解してれば、じゅうぶんにわかるはずなんだ(わかんなければ、「インフレ」の章と「連邦準備銀行」の章とを読み直してからもう一回挑戦してみて)。

 数式が出てくるので、それだけで逃げ腰になる人もいるだろうけど、こわがらずに見てみて。数式は人を惑わすためにあるんじゃない(場合が多い)。ある考え方のエッセンスを取り出すための方便にすぎないんだ。
 わかんないのは、目玉だけで式を追っかけようとするから。手で書いてみて。自分でその数式を組んでみて。「えーと、お金が全部でMあって、それが価格と比例するんだから……」そこで言われてるのが、ほんとに簡単なことだってのがよくわかるはず。式とか図面とかプログラムとか文とか、自分で手を動かしてからだでおぼえないヤツには絶対つかめないけど、その手間を惜しまなければ、必要なのはほんのちょっとしたコツだけだ。それにこの論文では、数式をふつうのことばで言い直すとどういうことになるのか、というのもちゃーんと書いてある。

 クルーグマンだって、常に正しいわけじゃない。去年かれが書いた「日本さん、どうしちゃったの?」というエッセイがあって(日経に載ったはずなんだけど、見つからない)、ここではかれは、「日銀がバブルなんかにビビらずに、もっと金を刷れば?」という話をしてた。この論文は、そのエッセイのまちがい(というか不十分さ)をきちんと反省した上で書かれてる。だから、結論だけ見ないでね。そこに至る考え方をきちんと理解してね。
 一方で、それ以外にいま各方面から出てる景気対策なんてのが、ほとんど無意味な代物だというのも、まあほぼ確実みたいね。やれやれ、すると当分この調子、うまくいってもインフレ、ということはぼくたちの防衛策としては……



 

7. おわりに

 この本の編集は、メディアワークスの穂原俊二氏が担当された。こんな本を出すってのは、いろんな意味で英断。感謝します。また、最初の読者/モルモットとなって、いろいろコメントや賛辞をくれた(そしてところどころ友情出演してる)同僚たちにも感謝。なかでも、ぼくが不詳のヘルスケア分野について解説してくれた山田謙次氏には特にお礼を。ありがとうございました。

 いまでこそわかったような口をきいているけれど、実はぼくの経済の知識なんてこの本に少し枝葉をつけただけの泥縄みたいなもんだ。そりゃ限界費用がどうしたとか効用最大化が云々とか、エッジワースボックスでパレート最適ってな話くらいは知識としては知ってた。インフレとかマネーサプライがうだうだ、という話も、まあわかる。ミクロの基礎はなんとあの西部邁(当時はいまほどイカレてなかった)の講義で教わったし。
 でも、それをちゃんと現実に対応させて理解できるようになったのは、この本のおかげ。初版のゾッキ本をまったくの気まぐれで買ったんだけど、われながらいい嗅覚をしてたな、と思う。経済がこんなにわかりやすくておもしろいとは! そして現実に対してこれだけの説明力を持てるとは! 経済学なんて科学ワナビーのインチキ学問だと思ってたぼくにとって、これは衝撃だった。しかも経済に関しては、ほぼこの一冊だけでMITの口だけ達者なくされMBA予備軍どもと互角以上にわたりあえた。ということは、まあたいがいの相手には通用するってことだ。

 だからこれは役にたつのはもちろんなんだけど、でもそれにもまして、読んでいて楽しいじゃないか。これだけ「なるほど!」という解放感が味わえる本ってないじゃないか。ある雑誌がそのむかし「楽しい知識」を標榜していたけど、ぼくにとってはこの本こそが楽しい知識だ。みんなが、ぼくがはじめてこの原書を読んだときくらい楽しくこの本を読んでくれると、ホントにうれしいな、と思う。さらに、いずれ本書でとりあげられたいろんな事象が日本でも起こる。その時に、ここでの議論をもう一回考え直して、本当に問題なのは何か、本当に取り組むべきなのはどういうことなのかを理解して、自分なりの貢献をしてくれれば、これはもうホントに望外のシヤワセ。
 (ついでながら、こいつを読んで本気でマクロっぽい経済学を勉強しようって気になったら、マンキューの『マクロ経済学』(東洋経済)あたりを読んでね。あとはファイナンスっぽい話も少し勉強すると、本書の第4部は抜群にようわかるようになるよ。これは井出&高橋『企業財務入門』(日本経済新聞社)あたりが定番かな。もっと軽いのがお望みなら、ぼくのホームページで簡単な講義を連載中だから、それでも見てみてよ。

 さらにこれはもう誇大妄想に近い、極端にでかい話になるけど、市井の人々はこの本を通じて、学問ってものの役割をちょっと考え直してみてほしいな、と思う。きいたふうな口をたたいてかっこつけるためのものでもなく、単なる痴的なおしゃべりのネタとしてでもなく、いまここにある現実を理解して、変えていくためのツールとしての学問ってものを、少し見直してもらえれば、と思う。一つには、自分が学び考えるという意味での学問、そしてもう一つは、すでにそういう蓄積がなされている学問分野に対する敬意という意味で。お願いだから、この本を読んで経済がなにもかもわかったような気にはならないでね。ここにいたるまでの知的な伝統と蓄積は、決してバカにしてはいけない(もちろん、それにたかってるだけの寄生虫タコ学者は、容赦なく笑い者にしてひねりつぶすべし)。

 一方のアカデミズム(特に文系!)の人も、ちょっとわが身をふりかえってみて欲しいのよ。学問の世界の中での完成を目指すのもいいんだけれど、たまには一歩そこから引いて、考えてみてほしいんだ。自分の分野は、世界に対してどういう意味を持ってるのか。その中での自分の仕事ってのは、どういう位置にあるのか。そしてそれを世の民草に、これくらいわかりやすく説明できるだろうか。
 アカデミズムの人にこれを言うと、そんなのは邪道だと言って一蹴される。でもその努力をしない分野は必ず自閉して、腐る。それはいちばん大事なコミュニケーションに関わるところだから。外に対して伝わらないメッセージは、内部でも伝わっていない公算が高いのよ。伝わらないのは読者が悪いと考える学者と、その裏返しでわかんないものをわかんないと言うことが恥だと思ってる弟子どもが、ジャーゴンとじゃれるだけでお互いにわかった気になってる――そういう場面はうんざりするほど多い。そんなたこつぼ業界が、どうして国民に対して文教予算をよこせの科研費をよこせのと言えるんだい。

 まあ、たかが翻訳にそこまで期待するのは太い考えだけど、でもそんなことも少しくらいはあっていいかな、という期待は(この期待しない時代にあってすら)なくもない。
 というわけでその期待をこめて、この本にはクルーグマンせんせい直筆のサイン(のコピー)もつけちゃおうではないの。「With highest expectations: 最高の期待をこめて」だってさ。わっはっは。ちなみにこのサインをしたおかげで、かれは1993年のある日、ボストンからワシントンかどっかに飛ぶ飛行機に乗り損なったはず。あの折はホントにすみませんでした。この翻訳で、ちょっとは罪ほろぼしにでもなれば幸い。

 じゃ、みんながむばってね。
 

第3回公判を目前に控えた1998年5月
バンコク/香港/品川にて
山形浩生(hiyori13@mailhost.net)
 

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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)