山形浩生
ここから話はいかがわしくなってくる。まず、この「匿名の政府筋云々」は、インチキである。本書は偽書であり、政治風刺のブラックユーモアだというのが定説である。後に、本書のもとの序を書いたレナード・C・リュインが著者として名乗りをあげており、状況的に見ても各方面の証言から考えても、これは妥当な説のようだ。このあたりの事情は、序文や補遺の書評などに詳しい。しかし一部ではまだこれに疑問を唱える人々もおり、本書が本当に政府の灰色文献である可能性も完全に消えたわけではない。また、リュインも執筆にあたって、ガルブレイスやワスコウなどかなりの大物にブレーンとして参加してもらっており、民間有識者の委員会というのはあながちウソではない。
その「著者」のリュインは、政治風刺を得意とするライターだが、決して有名な人物ではない。過去15年にわたり、日本で本書について触れているおそらくは唯一の書物だったジュディス・メリル『SFに何ができるか』(晶文社)でも、「リュインなる人物が序文を書いている」と書かれているだけ。メリルは乱読の女王のような人だし、ベトナム反戦などとも関わりがあったから、この方面の物書きにはそこそこ詳しいはずだが、彼女ですら特にピンとくる名前ではなかったようだ。
一方でもちろん、冷戦は最高潮に達しており、いつ核ミサイルが飛んでくるやもしれぬ状況ではあった。タイトルにもなっている巨大核シェルターのアイアンマウンテンは、実在するらしい。また当時は、各地の地域的な戦争や紛争はすべて米ソ中の代理戦争である、というのが主流見解だった。ベトナムへのアメリカの介入も、ソ連の北ベトナム支援の対抗上という面が大きかった。一方で、一時は第三次世界大戦突入必至と思われたキューバへのソ連のミサイル配備が外交的解決を見たことや、共産主義中国の原爆保有に伴ってアメリカが対中外交努力を真剣に始めたことなどから、一部では外交による超大国同士の完全な均衡による世界平和達成も真剣に議論されつつあった。
もう一つ留意点として、当時一世を風靡したハーマン・カーンらシンクタンク研究者や、マクナマラ国防長官などの戦略思考家の思考スタイルと文体がある。カーンの著書は、今は日本でも本国アメリカでもほとんど絶版だが、非常におもしろい。いま読むと、かれの予測はかなりあたっている。ソ連崩壊も「たぶんないが真剣に考慮すべき」と70年代に指摘しているから大したものだ。かれの文体はまさに本書のような、数学モデルと歴史的事例からの類推に基づく最悪事態想定シナリオ方式であり、価値中立的で時に冷酷なほど冷静な記述に貫かれている。著者によれば、本書はこうした思考法や文体の破産を示すべく、それを極限にまで進めてパロディ化したのだという。
が、シンクタンク式戦略思考は本当に破産しただろうか。心情左翼の著者たちは、左翼は大した勢力にならない、対抗文化は自滅する、といったカーンの発言を不愉快に思っていたはずだから、これで小馬鹿にできたつもりで大喜びだったろう。しかしシンクタンク式戦略思考はいまなお政策決定などで健在なのだ。だいたいなぜリュインの他の著書は忘れ去られ、本書だけが刊行から三〇年を経ても消え去らないのか。それは本書が極端なほど忠実にシンクタンク式思考を展開したが故に、はからずも戦争と平和の本質をえぐり出してしまったためではないのか。その結論はさておき、本書ほどの広がりと深みをもって平和を語り得た調査研究は、他にほとんどない。つまり著者や発行者の意図はどうあれ、本書はむしろ、こうした思考方式の有効性を証明しているとすら言えるのだ。
そう興奮する前に、まず本書で扱っている「戦争」の概念がきわめて広いことには注意していただきたい。あらゆる組織的な暴力システムはすべて、軍備および戦争の一部として扱われている。警察も戦争の一部であり、今の国連軍もPKOも軍事システムの一部である。平和は、これらすべてが消失した状態と定義されている。したがって、本書の議論はすさまじい極論である。が、それは論駁しがたい、正しい極論なのである。
「平和主義」に逃げこむのは簡単である。それは「平和は尊い」「人命は尊い」とお題目のように唱え、思考停止に陥ることだからだ。が、それでは何も解決しない。「人命は尊い」→「だから人々の生きる環境を守らなくてはならない」→「環境を守るためにはそれを破壊する人間を殺してもいい」というに等しいエコテロリズム的な倒錯がまかり通る現在(そしてそれを実践する連中まで登場する現在)、口当たりのいい前提は無意味である。本書の議論が極端である――なるほど。で、あなたはどの程度の「極端」まで認める気があるのだろうか。極端というなら、それをはかる尺度は?
「人命は尊い」という前提も、早晩変質をよぎなくされるだろう。戦争では人が死ぬ。それは事実。が、平和でも人は死ぬのである。だって、人はどのみちいずれは死ぬのだもの。今生きているぼくもあなたも、戦争があろうとなかろうと、おそらくは22世紀を見ずに死ぬ。問題は死そのものではなく、いつ死ぬかということだ……といいたいところだが、これもちがう。50 才で生命維持装置につながれて意識のないまま 150年生きるのと、70才まで好き放題生きて往生するのとどっちがいいか。たいがいの人間は後者を選ぶだろう。だから問題は、人が死ぬことではなく、寿命ですらない。大事なのは人が死ぬまでの間どう生きるかという生き様であり、そしておそらくはさらに、人が自分の死に方を選ぶ権利である。いずれ自殺がもっと日常的な選択となり、その幇助も立派な産業として成立するだろう。社会の高齢化の問題もその中で変質するし、戦争(あるいはその類似物)が何らかの役割を果たす場面も登場するだろう。本書はそういった価値観の変質まで射程に入れている。
だから本書に対する反駁は、非常にむずかしい。一つには、戦争・平和定義の極端さを指摘することだが、これは本質的な批判ではない。定石は、本報告の大前提の攻撃だろう。本書は「社会の安定」を何よりも重視するという前提のもとにすべての議論を進めている。社会の安定を最優先するのは、つまりは全体主義である。だから本書の議論は全体主義の論理だ、という批判は成り立つ。だがあらゆる社会は大なり小なり全体主義なのだ。人は集団として生きる道を選んだ。ならば個人の自由は無制限には認められない。どこかで個人が譲歩し、妥協しないと社会は成立しないのだ。その譲歩の範囲を狭めれば自由主義・個人主義となり、広げれば全体主義となる。が、白黒分ける境界線があるわけではない。したがって「全体主義だから」という決めつけは有効な批判にはならない。
すると、あとは各論の個別撃破しかないのだが……しかし私見では、それは不可能だろう。細部の疑問点はあるし、時代の制約も一部にはみられる。しかし恐ろしいことに、全体として本書の議論はまったく正しいのである。すると……やはり人類はこれからも戦争におびえつつ生きるしかないのだろうか? 平和は結局は実現不可能なのだろうか?
残念ながらその通り。不可能なのである。しかし実は本書の議論から、結論をいっさい否定することなしに、もっと常識的な方向性を導くことができる。著者たちは意図的にそれを隠している。ぼくは意地悪なので、それがなんだかここでは教えてあげないが、現実の世界もその方向に向かって(苦しみながらも)進みつつあるとは述べておこう。ヒント:本書で検討されているほど徹底した「平和」をあなたは本当にお望みだろうか? そこらへんを足がかりに再読していただけると、答えが見えてくるかもしれない。
そもそも本書の(というか本書の報告書部分の)想定読者は、1996-97年の日本公邸占拠事件におけるペルーのフジモリ大統領のように、国の政治的立場を守るためには他国の主権を蹂躙し、敵を皆殺しにし、必要なら人質なんか全員見殺しにしたってかまわない(あの事件で人質の大半が助かったのは、ひたすら運が良かっただけだ)、他国の主権を蹂躙することも辞さないという決断を下せる人々である。そして、国や社会の存続のためには、その構成員の一部を危険にさらすような冷酷な決断が時に必要なのだということを知る人々である。ペルーでは無策だった日本ですら、時には自衛隊にカンボジアで死のリスクを負えと命じざるを得ないのだ。
それが理解できずにこれを読んで怒る人は、序文にある「政治的洗練」の水準が低い人々である。気休めだが、これは必ずしもあなたの頭が悪いということを意味するわけではない。人には向き、不向きがあって、あなたは不向きな人だというだけである。それはたとえば、運動能力や反射神経や状況把握力が低い人は車の運転に向いていないのと同じ話であって、ほかの場面におけるあなたの技能をいささかも貶めるものではない。が、本書が想定している対象読者ではない。ただ、そういう政治的能力の不自由な人々でも一人前に一票を投じ、微少とはいえ政治的権力が行使できる現在の「民主主義」、特にその中の普通選挙という制度について、ぼくは個人的に大きな疑問と危惧をいだく者の一人ではある。
とはいえ、一部の戦争研究に本書と共鳴する内容は見いだせる。かつてシカゴ大学で戦争の包括的な学際研究が行われた(Wright, A Study of War, Chicago: The University of Chicago Press, 1942)。この研究は、本書と無数の共通点を持つ。「戦争が悪だという考えが多勢を占めるようになったのは、ごく最近である」(!!) 戦争の原因や広範な影響範囲の総合的検討など、視野の広さと議論の自由闊達さには驚くべきものがある。
また唯一、戦争と平和について本書の先を見据えた議論を行った人として、ナチスのイデオローグとして不当に貶められているカール・シュミットがいる。かれの『パルチザンの理論』(ちくま文庫)は、本書の真剣な読者であれば是非とも目を通すべき名著である。戦争は絶対になくならない、というのがかれの基本的立場だ。どのみち戦争は起きるんだから、その影響範囲をせばめることを考えよう、というのがかれの議論といっていい。全体をつらぬく人間不信、国家の最優先、そしてその中で人の攻撃性を最大限に抑える手法の検討。安手のヒューマニズムや感傷に曇らされることのない骨太の理論構築は類をみない。これに対し「全体主義の議論だ」という批判が、シュミットの主要な紹介者でもある田中浩などから提出されているのは驚くべきことである(『合法性と正当性』未来社 訳者あとがきを見よ)。これが批判として無意味なのはすでに述べた通りである。
しかし戦争・平和をめぐる言説となると、一転してお寒い状況となる。
現在の日本で、戦争が意識されることは非常に少ない。最近の数少ない「戦争」がらみの話題といえば、沖縄の基地問題や「従軍慰安婦」問題、あるいは少し前なら自衛隊の海外派遣問題くらいだろう。だがこのいずれも、本質としての戦争からみれば周縁的な問題でしかない。わが国の戦争をめぐる言説は、いまだに第二次世界大戦の敗戦処理問題にのみとらわれた、きわめて硬直した状況に陥っている。防衛庁くずれの書くものはどれも兵器解説や戦術論ばかり。一方では十年一日の平和愛好戦争反省本。
またいま一つの戦争本は、保守反動右翼が再軍備論を展開したいがために「日本は平和ボケ」論をぶつ、つまらぬお説教本である。最近では日下公人『人間はなぜ戦争をするのか』(クレスト社)がその典型で、日本人は戦争を知らないから戦略思考ができないと能書きをたれつつ、北朝鮮が原爆を撃っても交通事故の死者二、三年分の数万人しか死なないから大丈夫、日本も核装備と報復攻撃で脅せばいいといった愚昧な議論が展開される。北朝鮮は報復云々で引き下がるほど正気かね。それに原爆を一次被害の死者数だけで語ってどうすんの? 他人さまの無知を言えた義理かい。コストも便益もまったく異なる交通事故の死者数なんか、何の比較にもならない。「戦略」がどうのと言うくせに、原爆一発だけ取り出してどうこうする無意味さにも気づかない。別の箇所ではホロコーストはユダヤ人抹殺が目的じゃなかったという説(絶句)まで得意げに引用され、最後は「こうすれば日本は第二次大戦に勝てた」の羅列。
やれやれ、終わってからなら何とでも言える。そんなのは戦略でもなんでもない、ただの大学戦史研究会のコンパ談義だ。情報は常に不完全で、あらゆる戦略はそれを前提に様々なケース想定の中で手札を用意するんだが(本書の構成をみよ)、日下はそんなことは考えも(考えられも?)しない。戦争自体に対するうんちく以上の洞察など、何一つ期待すべくもないし、実際にもない。蛇足ながら小林よしのりは、こういう低級な書物を引用すると『ゴーマニズム宣言』でせっかくきちんと展開している従軍慰安婦論争の足を引っ張るおそれがあるので、注意したほうがいい。保守反動右翼だってピンキリなのである。
アカデミズム側からの戦争・平和論はどうか。たとえば猪口邦子『戦争と平和』(東京大学出版会)。「政治学のスタンダードレファレンス」として編集された、現代政治学叢書の一冊だが、異様にまとまりのないこの本で、多少なりとも整理された部分を極端に要約すると、この世には覇権なるものが脚をはやしてうろうろしており、その覇権がときどき垂れ流すウンコが戦争だ、というのが論旨である。だが個々の戦闘ならともかく「戦争」という大きな現象はこれでは説明できない。覇権とは、要するに戦争遂行能力の大小である。したがって覇権を軸に戦争を語るのは、戦争で戦争を語る堂々巡りでしかない。だから結局この書物はなんら有益な知見をもたらすことなく口ごもるばかり。コンドラチェフ周期の議論などおもしろい部分もあるが、全体としての視点や構築性は皆無。ディテールの羅列に終始し、環境だ人権だといたずらに手を広げたまま、収拾がつかずに幕を閉じる。
これがスタンダードレファレンスなら、戦争に関するわが国の政治学の水準は絶望的である。だが、この人の旦那の猪口孝は戦争に関してあなどれない存在だ。『国家と社会』(東京大学出版会)では、社会統括動員装置としての戦争(暴力装置)にも明晰な分析が加わり、本書と共通する視点が多々みられる。共編著『冷戦後の日米関係』(NTT出版)も、政策ツールとしての人権の考察も含め、現代の戦争についてきわめて示唆的な好著だ。戦争と平和をめぐる真に有益な思考は、戦争やその付随現象だけを見ていては得られないらしい。本説冒頭の岡崎の研究などもふくめ、もっと広い、戦争を明示的に扱っていない領域に知見を求めなくてはならない。これは本書の「特別調査グループ」でもそうだったし、現代の日本においてもまた真理であるようだ。
しかし、無駄を承知で考えてみると、まずは消去法で、官庁系の人間は、少なくとも公式的にには参加してもらえない。あまりに実際的な利害がからみすぎるため、思考が制限される傾向にあるからだ。これはきわめて残念なことである。最近の官僚バッシングがどうあれ、かれら(少なくともその一部)が異常に優秀な人材であることは否定しがたい。
多くの「軍事」評論家たちも論外。かれらはせいぜいが兵器評論家か戦術評論家であり、有益なインプットをもたらしうるとは考えがたい。これは自衛隊・防衛庁あがりの多くの人々にもあてはまる。これもまた残念なことではある。
現代思想系の学者もほとんど役にたたない。ドゥルーズ=ガタリが「戦争機械」を云々したために、現代思想系学者群はとかく戦争について聞いたふうな口をききたがる。しかしいずれも戦争・戦闘をリアルに捕らえる能力をまったく欠いており、かれらの著作で扱われる「戦争」とは、石器時代の槍のつつきあいとテレビゲームのごった煮以下の、うわっついたママゴトである。すぐれた戦争思考家ポール・ヴィリリオを日本に紹介している市田良彦は、たかが旧ユーゴの内戦くらいで取り乱して黙ってしまう。浅田彰あたりなら、あるいは興味深い知見を示してくれるかもしれない。蛇足ながらドゥルーズ=ガタリの「戦争機械」とは、戦争が自律性を持っているという指摘であり、だからそれに対して戦争・平和といった二分法による価値判断をくっつけても無駄だよ、という議論だと思えばいい。本書とは、実はかなり親近性のある議論だ。
一方、前出の猪口孝は是非とも入れよう。かれなら座長が務まる。さらに同じく前出の岡崎哲二。日本経済における情報やインセンティブの役割について刺激的な研究をしている青木昌彦。前出の大室幹雄は、支那の古代都市を専門としつつも、戦争および戦争状態について深く鋭い洞察を行っており、その左翼リベラル的傾向に基づくペシミズムさえどうにかなれば、メンバーとして検討に値する。これは薬物の使用でなんとかなる話ではなかろうか。変わり種で村上龍などはどうだろう。『愛と戦争のファシズム』(講談社)の頃のかれならば問題はない。ただし最近のかれは、近作『五分後の世界』『ヒュウガ・ウィルス』(ともに幻冬舎)に歴然とあらわれているように、妙なナショナリズム的ロマンティシズムに陥っている。対応には慎重を要する。
さらに自然科学系(特に生物学)と医学系がほしい。リスク科学の松原純子あたりどうだろう。あとはゲーム理論屋と、集団心理の専門家は必須。
こんな委員会であれば、是非とも運営を手伝いたいものだと思う。が、この面子ではまだまだ足りない。財界人や企業系のメンバーが二人は必要だ。土木系や法学(特に法哲学)系もいる。まずは、今ままであがった連中で、グループメンバー選定会議から始めるのがいいだろう。構築的で分析的で、極論を平気で言えて、現実的でありながら抽象的な議論をつきつめるおもしろさも知っていて、ヒューマニズムだけでは世の中まわらないのを知ってる――平和が必要としているのは、そのような人間である。
訳者が本書の存在を初めて知ったのは、前出のメリル『SFに何ができるか』を高校時代に読んでのことだった。以来、読みたいと思いつつも入手できずにあきらめていたのが、突然九六年に再刊されていたのを出張先のボストンで発見。その夜のうちに読み終えて、あまりのおもしろさに帰りの飛行機の中で三回は読み返したのは懐かしい思い出だ。それをこの手で翻訳できて、ぼくは大満足である。その機会を与えてくれたダイヤモンド社の魚谷武志氏には心から感謝を捧げる。ありがとう。また、書評の転載を快く認めてくれたCUT編集長の佐藤健氏にも感謝する。
一九九七年六月八日品川にて