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ベニート・ムッソリーニ Interview

by エミール・ルードヴィッヒ、訳:山形浩生 <hiyori13@alum.mit.edu>
(Talks with Mussolini、1933 年)



 だれかがわたしにマキャベリのデラックス版をプレゼントしてくれた。これはファシスト国家出版委員会が、いささか追従気味にムッソリーニ首相に献呈して出版したものである。とはいえ、独裁国家がマキャベリの理論に密かに従いつつ「マキャベリ的」ということばを罵倒語として誤用するよりは、専制君主の指導者に対する借りをこのような形ではっきり認めるほうがいいのは確かだろう。フリードリッヒ大王がまだ皇太子だった頃、かれは非常に道徳的な「反マキャベリ」を書いている。後にかれはもっと率直になって、マキャベリの原理にはっきり従って政治を行ったのだ。

「マキャベリ『君主論』にはかなり早くから親しんでいましたか」とわたしはムッソリーニに尋ねた。

「父が晩によく朗読してくれましたよ。みんなが鍛冶場の火で暖をとり、我が家のブドウ園でつくった並ワインを飲んでいるときにね。非常に感銘を受けました。四〇歳になって再読してみましたが、昔受けた感銘は一層強まりました」

 「おもしろいのは、マキャベリのような人物は一時的にはやり、しばらくは忘れ去られ、そしてまた復活することです。ほとんど季節が巡るような変化が見られますね」とわたし。

 「おっしゃることは国にも当てはまります。春があり、冬があり、それも一回ずつではありません。いずれは滅びるのですが」

 「今のドイツを冬が支配していることについて、わたしがあまり心配していないのも、国の生命には季節が繰り返すものだからです」とわたし。「百年以上前、ドイツが邪悪な時代に陥っていた頃、ゲーテはドイツの『退廃』を口にする者をあざ笑いました。われわれの時代の政治家で、特に注目した政治家はいますか?」

 ムッソリーニは即答した。「ビスマルクです。政治的現実の観点から、かれは今世紀最大の人物でした。マンガでは、はげ頭に毛が三本とでかい足の人物として描かれていますが、かれをそれだけの人物と思ったことはありません。あなたの著書を読んで、かれがいかに柔軟で複雑な人物であったか再確認できました。ドイツでは、カヴォールについてはよく知られているのでしょうか」

 わたしは答えた。「いや、ほとんど。マツィーニのほうがずっと有名です。最近、マツィーニがチャールズ・アルバートに送ったすばらしい手紙を読みました。たぶん 1831 年か 32 年に書かれたものだったと思います。チャールズ・アルバートは、マツィーニが国境を越えたら即座に逮捕するように命令を出しましたが、あれは支持なさいますか」

 ムッソリーニは言った。「あの手紙は、史上最もすばらしい文書の一つです。チャールズ・アルバートの人となりは、まだイタリア人にはまだはっきりしていません。しばらく前にかれの日記が刊行されて、おかげでかれの心理がかなりわかるようになりました。最初はもちろん、かれはリベラル派に近い立場をとっています。そして 1832 年——いや、 1833 年でしたか——サルジニア政府は、裁判所の判決に背いてマツィーニを死刑にしました。これは非常に特殊な政治的状況で起こったことです。

 この答えは非常に警戒が強いように聞こえたので、現在と過去を比較しようというわたしの明言されないながらも絶えざる決意に基づき、もっとはっきりと尋ねる必要があるとわたしは感じた。

 「当時は『若きイタリア』が非合法出版されていました。どんな検閲を強いてもあのような出版物は登場すると思いませんか? あなたなら、マツィーニを投獄したでしょうか」

「もちろんしませんとも」とかれはきっぱり述べた。「なにか考えを持っている人がいたら、わたしのところにきてちゃんと議論すればいい。でもマツィーニがあの手紙を書いた頃は、かれは論理よりも感情に支配されていました。ピエドモントは当時人口が 400 万しかなかったし、3,000 万もの人口を持つ強力なオーストリアに対して戦線を張るのは絶対に不可能だったんですから」

 わたしは話をもとに戻した。「まあ、マツィーニは投獄されました。その後まもなく、ガリバルディが死刑となりました。二世代後には、あなたも投獄されています。ここからの結論としては、支配者は政治的な反対者を処罰する際にもっと熟考したほうがいい、ということではないでしょうか?」

「とおっしゃいますと、ここイタリアでは熟考されていないとおっしゃりたいわけですな?」とかれは、少し色めき立った様子で尋ねた。

「あなたは死刑を復活させましたね」

「文明国はどこでも死刑を実施しています。ドイツだってそうだし、フランスやイギリスも同様ではないですか」

「しかしながら、死刑廃止論が生まれたのは、このイタリアの、ベッカリアの頭脳の内部でのことでしたね。それを変えたのはなぜです?」

「なぜならわたしもベッカリアを読んだからです」とムッソリーニは、あっさりと何の皮肉もこめずに答えた。そして、非常に重々しくこう続けた。「ベッカリアの書いていることは、ほとんどの人の信じるところとは逆です。それにイタリアでは、死刑を廃止してから凶悪犯罪が激増しました。イギリスと比べると、その頻度は五倍です。この件についてのわたしの判断は、社会的な配慮のみに基づいています。全身を救うためなら、壊疽の腕は切断した方がいいと述べたのは、聖トマスでしたっけ? それにわたしは、最高度の慎重さと周到さで進めます。死刑が適用されるのは、よく知られた例外的に凶暴な殺人の場合のみです。しばらく前に、チンピラが二人、若者に暴行を加えて殺しました。犯人は二人とも死刑を宣告されました。わたしは裁判を詳細に追っていましたが、最後の瞬間になって強い疑惑が生じました。犯人の一人は常習犯で、犯行を認めていました。もう片方は、ずっと若くて無罪を主張しており、前科もありませんでした死刑執行の六時間前に、わたしは若い方の犯人の死刑執行を延期しました」

「それは『独裁制の利点』の章にでも入れておくといいでしょうね」とわたし。

 かれの反応は当意即妙であり、ちょっとからかうような調子すらうかがえた。

 「独裁制の代替物といえば、だれも止める者のいない、自動的に進み続ける国家装置でしょうに」

 「この係争中の話題は避けて、ナポレオンの話をしましょうか」

 「どうぞ!」

 「これまでの会話を聞いても、あなたがナポレオンをお手本と思っているのか、反面教師と思っているのかはっきりしないのです」

 かれは椅子に深くすわりなおして、ちょっと陰気な顔をすると、抑えたような調子で述べた。

「反面教師です。ナポレオンをお手本と思ったことはありません。だって、いかなる面でもわたしはかれと比較にならないからです。かれの活動はわたしとは非常にちがっています。かれは革命をおさえましたが、わたしは革命を起こしました。かれの一生の記録は、いろいろな間違いに気づかせてくれましたが、それらは決して容易に回避できるものではありません」とムッソリーニは、その間違いを指折り数え始めた。「縁者びいき。教皇との対立。財政や経済生活の理解欠如。自分の勝利の後で株価が上がったことしか見ようとしませんでした」

 「かれを没落させたのはなんでしょうか。教授たちに言わせると、イギリスという岩に座礁したのだということになりますが」

 「それはナンセンスです」とムッソリーニは答えた。「ナポレオンが没落したのは、かれの人格に矛盾があったからです。長期的に見れば、人が没落するのはすべてそのためです。かれは皇帝のガウンが着たかった! 王朝を創始したかった! フランスの第一統領になった頃が、かれが一番偉大だった頃です。凋落が始まったのは、帝国制を取り入れてからです。ベートーベンが「エロイカ」の献呈をやめたのはまったくもって正解でした。戴冠したせいで、あのコルシカ人は戦争を続けていなくてはならない状態に縛られてしまったのです。クロムウェルと比べてごらんなさい。後者は発想もすばらしかった。国家も強大な力をもっていたし、それでも戦争はなし!」

 わたしはきわめて重要な論点に話をもっていった。

 「すると、絶対権なしでも帝国はありうるということですか」

 「帝国には六種類くらいあります。帝国の紋章なんか、実は必要ないんです。というか、むしろ危険です。帝国が拡大すればするほど、その組織的なエネルギーは発散してしまいます。同時に、帝国主義への傾倒は人間の本質的な傾向でもあります。権力の発現というわけです。今日われわれは、ドル帝国主義を目にしています。宗教的帝国主義もあり、芸術的帝国主義もあります。いずれの場合にも、これは人間の本質的エネルギーの発露なんです。人間は生きている限り、帝国主義者なのです。死ねば、その時点でかれにとって帝国主義は終わります。

 この瞬間のムッソリーニは、極度にナポレオンに似ており、1815 年のルフェーブルの彫刻そっくりだった。しかしすぐにその表情はやわらぎ、もっと静かな調子でかれは続けた。

 「もちろん、あらゆる帝国には絶頂期があります。帝国はつねに非凡な人物がつくりあげるものなので、その内部に衰退の趣旨を抱えているものなのです。非凡なものすべてと同様、それは短命な部分を持っています。一世紀、二世紀続くかも知れませんし、十年続かないかもしれない。権力への意志です」

 「それは戦争のみによって継続するものなのでしょうか」とわたし。

 「それのみではありません。この点は疑問の余地がない」ムッソリーニはちょっと説教臭くなった。「王冠は、維持のために戦争を必要としますが、専制政治はそれなしで続くこともあります。国家の力は無数の要素の結果であり、そのすべてが軍事的なものではありません。それでも確かにこれまでは、一般的な見解について言えば、国家の地位はその軍事的な勢力に大きく依存してきました。今日にいたるまで、戦争遂行能力はあらゆる国家エネルギーの総和として考えられてきましたから」

 「昨日に至るまではそうです」とわたしは訂正した。「しかし明日はどうなるでしょう」

 「明日ですか?」とムッソリーニは疑わしそうに反復した。「確かに戦争遂行能力は、もはや権力の信頼できる判断基準ではありません。したがって明日のためには、なんらかの国際的権威が必要となるでしょう。少なくとも大陸の統一が。いまや州の統一が実現されたので、大陸の統一を行おうという試みがなされるでしょう。しかし少なくともヨーロッパに関する限り、これはとんでもなく難しい。各国が独自の相貌、独自の言語、習慣、タイプを持っているからです。各国ごとに、こうした特性の一部(たとえばそれを全体の x% としましょうか)は完全に独自のものであり続け、これはいかなる形の融合にも抵抗を行うでしょう。アメリカではまちがいなく事態はもっと簡単です。かれらの 80 と 40 の州は、同じ言語をしゃべり歴史も浅く、連合を維持できます」

 「しかし、各国は純粋にヨーロッパ的な特性も y% ずつ持っているはずでしょう」とわたしは口をはさんだ。

 「それは各国の力の外にあります。ナポレオンはヨーロッパに統一をもたらしたがった。ヨーロッパ統一がかれを導いた野望でした。今日、そうした統一は可能になったかも知れませんが、それでもシャルルマーニュやチャールズ五世が試みたように、理想的な平原である大西洋からウラル山脈までの範囲のみです」

 「あるいはひょっとしたらポーランドのヴィスワ川まで?」

 「そうですね、ヴィスワ川までかもしれません」

 「あなたとしては、そうしたヨーロッパはファシスト支配のもとに置かれるとお考えですか」

 「支配とはなんですか」とムッソリーニは切り返した。「ここイタリアでは、ファシズムはごらんの通りのものです。その一部の要素は、他国も採用するかもしれませんね」

 「あなたは多くのファシストよりも穏やかだという印象をずっと受けてきました。ローマの外国人が聞かされる代物ときたら、あなたも驚くことでしょう。絶頂期のナポレオン政権下でも同じだったのかもしれませんが。アプロポスよ、なぜ皇帝は決してその首都と完全に婚姻のちぎりを結ばず、パリのフィアンセにとどまり続けたのか教えてはくれまいか?」

 ムッソリーニはにっこりして、フランス語でこう答えだした。

「Ses manieres n*etainent pas tres parisiennes. ひょっとしたら暴力的な気質でもあったのかもしれません。それにかれは敵が多かった。ジャコバン派は、革命を潰したナポレオンを憎んでいました。王権擁護の正当主義者は、かれが政権略奪者だったので憎んでいました。信仰篤き者は、かれが教皇に刃向かったから。かれを愛していたのは一般庶民だけでした。庶民はナポレオン支配下でたらふく食えましたし、それに庶民は教育の高い階級にくらべて名声にまいりやすいですから。名声とは論理に属するものではなく、感情に属するものであることをお忘れなく」

 「ナポレオンに好意的なおっしゃり方ですね! かれに対するあなたの敬意は、ご自身の権力保持期間中も衰えてはいないようですね。いまやかれの立場を個人的体験に基づいて理解できるようになったのに」

 「ええ。むしろ敬意は増しました」

 「かれがまだ若き将軍だった頃、かれはこう語りました。空の王位はいつも、自分に奪ってくれと誘惑しているように思える、と。これについてはどう思いますか」

 ムッソリーニは、皮肉な気分の時によくやるように大きく目を開けたが、同時ににっこりした。

 「ナポレオンが皇帝だった頃にくらべて、いまは玉座もずっと魅力を失いましたよ」

 「確かに。もはやだれも王になりたがったりはしません。しばらく前に、エジプトのフワド国王に『王は愛されねばなりませんが、独裁者は恐れられねばなりません』と申し上げたところ、国王はこうおっしゃいました。『わたしも独裁者になりたいものだ!』史上、愛された独裁者の例はありますかな?」

 ムッソリーニは、答えの前に必ず表情を変えるのだが(ただしかれが自分の考えを隠したがっているときはその限りに非ず)、またもや非常に真剣な様子となった。力のこもっていたその表情は和らぎ、いつもより若く見えた。間をおき、そしてさらにためらうような口調で、かれは口を開いた。

 「ユリウス・カエサル、ですか。カエサルの暗殺は人類にとっての不幸でした」そして静かに付け加えた。「わたしはカエサルが好きです。戦士の意志と賢者の天才を兼ね備えていた点でユニークでした。その根底において、かれは常にすべてをその永遠の姿のもとに見た哲学者だったのです。かれが名声に情熱を傾けたのは事実ですが、だからといってかれは人類から切り離されはしなかった」

 「すると結局のところ、独裁者も愛されうるのですね?」

 「ええ」とムッソリーニは、新たな決意をこめて答えた。「ただし、大衆が同時にかれを恐れていなくてはなりません。群衆は、強い男を愛します。群衆は女と同じなのです」

 「大人物の研究で、わたしが必ず調べることがあります。自分の生まれ育った集団を離れたときのかれらの行動という側面です。一方では旧友たちとの関係において己をどのように処したか、そしてもう一方では新しい地位によってかれらが被った孤独に対する対処。この中に、その人となりが片鱗とはいえ現れてくるのです。人は人間としての優しさと権威との対立のさなかにあって、どのようにふるまうものか? 赤道から北極に行くような、非常に極端な豹変ぶりを示すのではないか? かつての同志がこの広間に入ってきたら、何が起きるのでしょうか。古い議論を蒸し返すことなく、どのように態度を変えるのでしょうか。かつてあなたはこう書いています(名言だと思います)。『われわれが強いのは、友人がいないからである』と」

 ムッソリーニはわたしの向かいにすわったまま、身動きもせず、身振りも見せなかった。しかしながら、かれの表情には何か尋常でない、ほとんど子供じみたものが伺え、わたしが触れた話題が、かれを深く突き動かしていることがわかった。しばらくしてやっとかれが答えた時にも、そのことばが実際の感情よりは冷たいのは明白であり、かれが感情や思考をすべてあらわにしていないことは明らかだった。

 「わたしは友人を持てません。わたしには友人はいません。まず一つにはわたしの気性のせいです。そして第二には、わたしの人間の見方のためです。だからわたしは親密さと議論を両方とも避けます。旧友が尋ねてきても、会話はわれわれ双方にとってつらいものですので、長続きしません。かつての同志の進む道を、わたしは遠くから眺めるだけです」

 「かつて友人だった人物が敵となり、そしてそうした人物があなたを中傷したらどうでしょう」とわたしは、自分の個人的体験を思い出して答えた。「旧友のなかで、あなたに忠実だったのはだれですか? かつての友人で、今は攻撃されるのがつらいという人物はいますか」

 かれは相変わらず身動きしなかった。

 「もしかつての友人が敵にまわったなら、わたしが知りたいと思うのは、かれらがわたしの公共の生活における敵かどうかということです。もしそうなら、わたしは戦います。そうでなければ、関心はありません。かつての協力者が、フィウム用の金を隠匿したとわたしを紙上で攻撃した時は、わたしの人間嫌いも強まりました。もっとも忠実な友人たちは、わが心の神殿に祭られていますが、一般にみんなわたしと距離をおいています。それはまさに、かれらが忠実だからなのです。かれらは利益や昇進を望んだりしませんし、わたしをここに尋ねてくるのもきわめてまれです——しかもほんの短期間」

 「そうした人々や、ほかのだれにでもに命を預けられますか? あなたはその一部を Gran Consiglio の終身議員に任命しておられますね」

 「三人だけだし、任期三年です」とかれは、そっけなく答えた。

 「あなたのお立場がそういうことであれば、わたしとしては、あなたが最も孤独を感じていたのがいつか尋ねさせていただきたいと思います。ダヌンツィオがそうであったように若き日々のことだったでしょうか、それとも外見的には党の同志たちと密接につきあっていた頃でしょうか、それとも今日?」

 「今日です」とかれは一瞬のためらいもなく答えた。そして一瞬間をあけて答えた。「とはいえ、ごく初期においても、わたしに影響を与えたような人物はおりません。根本的にわたしは常に一人でした。それに今日、牢屋には入っていないものの、実質的にはわたしは囚人同然です」

 「どうしてそんなことが言えるんですか」とわたしは身を乗り出して尋ねた。「あなたはこの世で一番そんなことを言う資格のない方ではありませんか!」

 「なぜ?」とムッソリーニは、わたしの興奮ぶりに気圧されて我に返ったようだった。

 「なぜなら、この世であなたほど自由に振る舞える人間はいないからです!」とわたしは応じた。

 かれはなだめるような身振りをして答えた。

 「わたしが己の運命に文句を言いたがっているとはお考えめされますな。しかしながら、ある程度までわたしは先の自分の発言を繰り返します。通常の人間的な事象との接触、群衆のただなかの匿名の生——わたしのような地位にある者にとって、これは禁じられているのです」

 「ちょっと散歩に出ればすむ話でしょう!」

 「仮面でもかぶらないとダメです。かつてわたしが——仮面なしで——ヴィア・トリトーネ沿いに歩いたところ、即座に三百名の群衆に取り囲まれて、一歩たりとも進めなくなりました。そうはいっても、自分の孤独が退屈だとは思っていません」

 「もし孤独がお好きなら、ここで毎日毎日直面しなければならない無数の顔をどうやって我慢しているのですか?」とわたし。

 かれはこう答えた。「わたしはその顔に、かれらの発言内容しか見ないのです。わたしはかれらが、自分のもっとも奥深い存在に触れることを許しません。人間を見ても、この机やその上にのった書類と同程度にしか心動かされないのです。そのすべての中にあって、わが孤独は指一本触れられることなく保存されます」

 「もしそうなら、自分の精神的なバランスを失うのがこわくはありませんか。絶頂期のカエサルが、フォーラムにおける討議での勝利を味わいつつも、馬車に奴隷をおいておいて万物の無意味さを絶えず思い出させていたのをお忘れですか」

 「もちろん覚えています。若い奴隷は皇帝に、かれが人間であって神ではないということを思い出させなくてはならなかったのでした。しかしながら、近年ではそうしたことは不要です。少なくともわたしの場合には、自分を神だと思いこみたがるような気分は抱いたことがありませんし、自分が死すべき運命の人間であり、死すべきものに然るべき弱さや情熱も持ち合わせているということは十分に認識しています」

 かれは明らかに感情のこもった話し方をしていたが、こんどはもっと落ち着いた調子でこう続けた。

「あなたはずっと、わたしに反対者がいないことから危険が生じるのではないかとにおわせ続けていますね。そういう危険は、もしわたしがもっと静かな時代に生きていたなら、実際にあり得たでしょう。しかし今日、反対というのは解決されねばならない問題にこめられており、解決を要求し続ける道徳的経済的問題の中にあるものなのです。これだけで支配者は眠れぬ夜を過ごすこととなります。さらに、わたしは自分自身の中に反対派を作り出している!」

 「まるでバイロン卿のせりふですね」とわたし。

 「バイロンとレオパルディはよく読みました。そして、人間にうんざりしてきたら、航海に出ます。もし何でも好きなことができるなら、ずっと海に出ているでしょう。それが不可能なら、わたしは動物に慰めを見いだします。動物の精神生活は人間に近いものですが、しかし動物は人間から何かを引き出そうとはしません。馬も犬も、そしてわたしがいちばん好きなネコもです。さもなければ野生動物をながめてすごします。かれらは自然の本質的な力を宿している!」

 この発現はあまりに人間嫌いに聞こえたので、わたしはムッソリーニに、支配者という者は人間に対する好意ではなく、憎悪に動かされるべきだと考えているのか、とたずねた。  かれは力をこめて答えた。「まったく正反対に、支配者は 99% の好意が必要であり、憎悪は 1% しか要りません」

 この発言には、それがムッソリーニのものであることを考えると、驚かされてしまった。だから誤解していないことを確かめるべく、わたしはききなおした。「するとあなたは本当に、同朋たる人類は憎悪よりは共感がふさわしいとお考えなのですか」

 かれはあのよく見せる、何を考えているのかわからない表情を浮かべてわたしを見つめ、静かにこう語った。

 「共感をもっと、やさしさをもっと。やさしさをずっとずっとたくさんです」

 このつぶやきを聞いて思い出したのだが、ムッソリーニの演説を読んでいて、一度ならず博愛主義のオンパレードのようなものに驚かされたことがあった。なぜこの傭兵隊長が、コミュニティの利害をかくも強調した発言を行うのか? わたしは聞かずにはいられなかった。

「何度も何度も、きわめて能弁な表現を使って、あなたはご自身の人格の拡張こそが人生の目的であるとおっしゃっていますね。『わたしは自分の存在を傑作にしたい』『自分の人生を劇的に有効なものとしたい』。ときにはニーチェのモットー、『危険な生き方を!』を引用したりしておいでです。すると、なぜかくも誇り高い人物が『わたしの最大の目標は公共の利益を拡大することである』などと書けるのでしょうか。ここには矛盾があるのではないですか?」

 かれは不動だった。

 「特に矛盾とは思いません。非常に論理的でしょう。コミュニティの利益は劇的なものです。それに奉仕することによって、わたしは自分の人生を何倍にも拡大するのです」

 わたしは驚いて、有効な応答を思いつけなかったが、ムッソリーニ自身のことばを引用してみせた。「『わたしは常に人生に対して博愛的な観点で見ていた』」

 「それはまちがいありません。だれも自分自身を人類から切り離すことはできない。そこには非常に具体的なものがある。自分を産み落とした腹を持つ人種の人間性というものが」

 「つまりはラテン人種ということですか。フランス人も含まれますね」とわたしは口をはさんだ。

 「今回の一連の会話のなかで、純粋な人種などというものはないと宣言したはずです! そんなものがあるという信念は、ただの幻想、感情にすぎません。しかしだからといって人種がないことにはならない」

 「もしそうなら、人は自分で人種を選べることになる」

 「そうですね」

 「では、わたしは地中海人種を選びます。そしてこの点でわたしにはニーチェという強い味方がおります」

 ニーチェの名前はムッソリーニに何かを連想させたようで、ドイツ語でかれはニーチェのもっともほこりたかい一節をつぶやいた。「わたしが幸福のために戦っているように見えるか? わたしは自分の仕事のために戦っているのだ!」

 わたしは、この考えが実はゲーテからきていることを指摘した。そして、人格は運命の衝撃によって形成されるものだというゲーテの考えにムッソリーニも同意するかと尋ねた。  かれはうなずいて同意した。「わたしが今日のわたしであるのは、体験しなければならなかった危機や、耐えねばならなかった困難のおかげなのです。ですから、人は常にすべてを賭けなくてはならない」

「そうすることで、無用なリスクを負って自分自身と自分の仕事を破壊するリスクをも冒しているわけですね」

 「人生には代償があります。リスクなしでは生きられません。今日もまたわたしは新たな戦いを始めます」とムッソリーニは平然として答えた。

「もしその見方に忠実であるなら、あなたは自分の警護に気をつかったりはしないのでしょうね」とわたし。

「しませんよ」とムッソリーニは答えた。

「なんですって! あなたの命を奪うためなら、自分の命すら犠牲にしようという敵が一部にいることは、何度も認識されているではないですか!」

「ああ、何を考えておいでかわかりましたよ。わたしも世間のうわさは知っています。警官千人に見張られていて、毎晩寝場所を変えるとかね。でも実際は、わたしは毎晩ヴィラ・トルロ−ニャで眠るし、気が向けばいつでも車や馬ででかけます。始終自分の安全のことばかり考えていたら、侮辱されたような気分になるでしょうから」

 わたしは最後の質問を投げた。「教えてください。名声への欲望は、あなたの人生においてどんな地位を占めているのでしょうか。支配者にとって最大の欲望は名声ではないでしょうか。死を逃れる唯一の方法が名声ではないでしょうか。少年の頃よりあなたの目標だったのは、名声ではありませんか。あなたの仕事のすべては、名声への欲望に突き動かされていたのではありませんか」

 ムッソリーニは動じなかった。

「少年時代のわたしの前に、名声はそびえてはおりませんでした。そして、名声への欲望がもっとも強い動機だというあなたの考えにも賛成できません。もちろん、名声があれば自分が完全に死に絶えることはないのだと感じるのは、多少の慰めではあります。しかしわたしの仕事が名声だけを求めて行われたことは一度もありません。名声の最高峰は不死性です」とかれは、彼方の手を下しようのない未来に向けて、払うような仕草をしてみせた。そしてこう付け加えた。

「が、それは——あとからやってくるものです」


訳者コメント:ベニート・ムッソリーニ(1883-1945)は、言うまでもなくイタリアの独裁者。はじめはジャーナリストとして社会主義新聞アヴァンティにたずさわるが、第一次世界大戦での兵役の後、右翼新聞ポポロ・ディタリアを創刊、愛国主義者集団ファシスティを主宰。1921 年に国会議員に選出されて、黒シャツをトレードマークとするファシスト党を創設した。翌年、黒シャツの支持者たちを率いてローマへ行進して国王に気に入られる。1928 年にはイタリア国会を廃止。ヒトラーのドイツと枢軸を形成してスペインのフランコを支援。アビシニアとアルバニアをイタリアに併合して 1940 年には第二次世界大戦に参戦したが、各地で敗北を喫して支持率低下、監禁されるが、ドイツのパラシュート部隊によって解放され、北アフリカでドイツの傀儡となる。1945 年のドイツ軍撤退と同時にパルチザンにコモ湖のほとりでとらえられ、銃殺となる。

イギリスの外交官チャールズ・ペトリエ卿によるムッソリーニ評:

あのパラッツォ・ヴェネツィアの広大な部屋を横切るわたしにかれが与えた印象は、しかめっつらの近寄りがたい独裁者のものではなく、洗練され、世慣れた人物であり、通常の会話のやりとりに喜んで応じそうな感じだったという。特にかれは、デ・ヴァレラやネヴィル・チェンバレンを思わせる魅力的な笑顔を持っていた。わたしはかれが、何かを無理強いしようとするのを見たことがないが、しかし話した時には自分の博識さに自信を持っていた(中略)ムッソリーニの最大の特徴は、肉体的にはその目であり、人格的には重要なものから些末なものまで、あらゆる質問に親身に対応するすばらしい能力だった。かれはまっすぐ質問の核心に迫り、会話相手の考えを整理してくれるような話し方をして、一見するとどうしようもない困難を、適切な規模にまでまとめなおしてくれた(中略)ムッソリーニの最大の長所を挙げるとするならば、それはかれの百科全書的な知識量である——出来事や書物、そして晩年まではイタリアの同胞たちに関する知識。権力が最高潮に達していたときに、かれはこう言ったとされる。総統(ヒトラー)と自分のちがいは、自分が二流国の一流指導者であるのに対し、総統は一流国の二流指導者だということだ、と。もしムッソリーニがこれをもっと強く意識していたなら、その後の展開もかなりちがっていたかもしれない」

 本書の会話は、ローマのパラッツォ・デ・ヴェネツィアで、1932 年 3月 23 日から 4 月 4 日にかけて、この両日を含めてほぼ毎日、一時間ずつ行われたものである。内容は、ムッソリーニのチェックを受けているが、修正要求はなかったらしい。

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