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要約 ケインズ『雇用と利子とお金の一般理論』(ポット出版)解説

generaltheorysummary

山形浩生 (2011、初出要約 ケインズ『雇用と利子とお金の一般理論』(ポット出版))

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目次

はじめに

  1. ケインズってだれ?
  2. ケインズは『一般理論』で何をしようとしたのか?
  3. 一般理論の主張とその活用
  4. ケインズ経済学の興亡
  5. リーマンショックとケインズの復活
  6. 『一般理論』と経済学の未来
  7. 謝辞

はじめに

  というわけで、『一般理論』を一通りまとめたから、あとはみんな読んで勉強してね……といいたいところだが、みなさんの横着ぶりはよく知ってる。それに、『一般理論』は当時の経済学者を主な読者として、当時の世界経済の状況の中で書かれたものだ。その中で、いろんなことをやろうとしているので、結構とっちらかっていて、パッと通読してわかるものじゃない。

  そのうえ、ケインズ経済学は、その後いろいろ歴史的にもまれている。本書が出たあとの話も書いておく必要があるだろう。そして、それをなるべくバイアスのない形でやっておく必要がある。実はケインズの専門家に解説をお願いすると、その人の志向にひきずられてかなりバイアスが生じかねないし、狭い業界的な配慮も入り込みかねない。というわけで、ぼくが少しやってみよう。

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1. ケインズってだれ?

 そもそものケインズについては、伝記や解説書はやまほど出ているので、詳しくはそちらを見てほしい。どれでもいい。でもかれについて本当に知っておくべきことはごくわずか。

 ジョン・メイナード・ケインズ (1883-1946) は、イギリスの大経済学者だ(知的業績のみならず、身長190センチ超のホントに大経済学者だったとか)。マーシャルの弟子として当時の主流経済学を身につけ、第一次世界大戦後には官僚としてパリ講話会議に参加、ドイツに過大な戦後賠償を課すことが誤りだと指摘した。投機家として大損したり大もうけしたり、享楽的な遊び人の面も持ち、政治的なたちまわりもうまく、弁が立ってあれこれ論戦も繰り広げて、エピソードには事欠かない。

  でも、かれについて本当に知るべき唯一のことは、ここに紹介した『雇用と利子とお金の一般理論』を執筆して、経済学にまったく新しい考え方を持ち込み、理論面ばかりかその後の世界経済運営まで一変させてしまった、ということだ。

 で、この『一般理論』には何が書いてあるのか?

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2. ケインズは『一般理論』で何をしようとしたのか?

2.1. それまでの経済学とは:基本は放置プレイの古典派経済学>

 「はじめに」を読んでもわかるように、この『一般理論』はそれまでの古典派経済学に対する反論、またはその拡張として書かれている(古典派と新古典派の区別はここでは重要でないので無視)。ケインズはその古典派の伝統の中で教育を受け、それを熟知していたが故に、その欠点もよくわかっていた。では、それまでの(そして今もある)古典派経済学って何だろうか?

  古典派は、経済学の開祖とされるアダム・スミスが考案し、その後リカードが定式化したものだ。こんな本を読もうという人ならご存じかもしれない。アダム・スミスは「見えざる手」という話をした。市場の取引があれば、人々が自分の一番得意なことに集中して、自分の利潤を利己的に追求することで、万人にとっていちばんよい結果が出る。価格メカニズムを通じて需要と供給が均衡し、あらゆるものが無駄なく使われる、という話だ。

  そして、ここから出てくる経済学の処方箋は基本的に一つ。すべてを強欲な人々の利潤追求と強欲さにゆだね、それらが相互作用する自由な市場の働きにまかせなさい。政府は基本は何もするな。余計な規制はかえって社会をだめにする。市場に任せるのがいちばんいい!

  さて、これを弱肉強食だとか嘆かわしい強欲肯定で倫理がないとか、いささかピント外れな文句を言う人もいる。だが、市場に任せたほうがいいという議論は、ほとんどの場合には正しい。その意味で、経済学という学問は、実は出発時点で答えが9割は出てしまっている。その後の経済学は、残り一割の、市場がうまく機能しない例外的なケースをあれこれつつきまわしているだけだとさえいえる。

  他の学問でもそういうことはある。世の中のほんどはニュートン力学で用が足りる。アインシュタイン理論を持ち出す必要のある場面なんかこの地上にいる限りほとんど生じない。

  だが経済学だと、物理学とはちがう面がある。人々が経済学にすがりたいのは、まさにその自由放任ではすまない場合だ、ということだ。人々が求めているのは、何もしないことの正当化では(必ずしも)ない。中古車がなぜかまったく売れない。それはなぜだろう? ある地域で、不動産がやたらに売れ残っている。なぜだろう? 失業者が大量にいて、いっこうに減らない、なぜだろう? 放任で事態が改善されないからこそ、経済学の知見が求められる。

  そしてその最大のケースが、不景気とか不況とか呼ばれる状況だ。

2.2. 不景気って何?

 不景気の正式な定義というのはある。経済が数期続けてマイナス成長したら不景気だ。でも、そうした形式的な定義よりも重要な不景気の特徴がある。

  不景気を特徴づけるのは、大量の失業だ。失業というのは、人だけじゃない。不景気では、モノが売れない。大量の商品が消費されずに倉庫にたまる。工場の機械はストップしたまま。家やオフィスは借り手や買い手がつかず、空き家のまま。そしてもちろん、多くの人が雇用されずに失業する。

  なぜ市場が機能しないんだろう。古典派はこれが説明できない。売れなければ値段が下がって需給はすぐにマッチし、不景気が長い間続くなんてことはあり得ないはずだ。でも、実際に不景気は長いこと続く。その不景気について古典派経済学が主張できた処方箋は、極論すればおおむね次の三つになる。

  1. 待て。あれこれ調整に時間がかかってるだけ。長期的には市場メカニズムが機能して、いずれ完全雇用に戻る。
  2. 規制をなくせ。政府が市場の自由な働きを妨害してるんだろう。規制を緩和しろ。
  3. 組合やカルテルが悪い。市場の価格調整メカニズムを妨害してる連中がいる。賃下げを阻止する労働組合とか、商品価格をつり上げようとするカルテルとか。そういうのをつぶせ。

  なんだか、全部最近の日本の処方箋として声高に言われてるものに思えるだろう。でも、これはどう見ても十分な答えではかった。

  いま失業して苦しんでいる人々は、待てといわれて、はいそうですかとは言えなかった。こういう話が大きく問題になるまでに、その人たちはすでに数年も苦労を強いられている。「いずれ」っていつよ? またそれに突き上げられる政府だって、待てなくはないがいつまで、というのがある。古典派はそれに答えられなかった。

  また規制にもいろいろある。どの規制が重要なのか? それに不景気の常として、昨日まであまり問題でなかった規制が、なぜ今日は突然影響するのか? これもわからない。組合やカルテルだって話は同じだ。それに、価格調整はいろんな形で起こる。たとえば経済がインフレになれば、賃金は同じでも価格調整は起こる。でも組合はそんなのには反応しない。なんか変では?

  特に1930年頃の、ウォール街大暴落を発端とする世界大恐慌ではこれが顕著だった。失業はどこを見ても続き、職をくれるなら半値でも働く、なんて人はどこにでもいた。どっかの悪い組合やカルテルが価格をつり上げてるなんて話ではない。待っている間に企業は倒産し、人々はどんどん自殺する。

  これに対して、「陳腐化した企業がどんどん破産して退出するのはいいこと、ゾンビ企業はつぶれて優秀な企業だけ残ればいいのだ」なんてことを言う人もいた(今もいる)。でも、企業はさておき、人は? だめなやつは首をくくって当然、ゾンビ労働者はあの世に退出願って優秀な人だけ残れ、なんてことはいえない。

  ケインズは、そうした古典派経済学の無力を理解していた。実際に新古典派理論でまったく説明のできない大量失業が長いこと起きていて、それがいっこうに解消しないのも見ていた。一方でかれは、新古典派理論を十分に身につけており、それが時に正しいことも知っていた。古典理論に不足しているものは何だろう。現実をきちんと説明でき、しかもそれに対する有益な処方箋も下せるような理論は何だろうか? 人々がすでにかなり長いこと苦しんでいるのに「長期的にはよくなる」しか言えないのでは意味がない。そういう主張をする古典派経済学者に対し、ケインズは「長期的には、われわれみんな死んでいる」とやりかえした。みんなが死ぬ前に何かしないと。ケインズはそれを考案しようとした。

  その結果がこの『一般理論』だった。

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3. 一般理論の主張とその活用

3.1. 一般理論のキモ:財や労働の需要が、お金の需給に左右される!

 で、この『一般理論』の中身だが、せっかく要約したんだからここは是非とも本文をお読みいただきたいところ。が、横着な方のために、クルーグマンによる本書結論の要約を以下に挙げよう。

  1. 経済は、全体としての需要不足に苦しむことがあり得るし、また実際に苦しんでいる。それは非自発的な失業につながる。
  2. 経済が需要不足を自動的になおす傾向なんてものがあるかどうかも怪しい。あるにしてもそれは実にのろくて痛みを伴う形でしか機能しない。
  3. これに対して、需要を増やすための政府の政策は、失業をすばやく減らせる。
  4. ときには お金の供給(マネーサプライ)を増やすだけでは民間部門に支出を増やすよう納得してもらえない。だから政府支出がその穴を埋めるために登場しなきゃいけない。

  いま、これはそこそこ常識的な話だ。でも当時の古典派経済学では、どれもほとんど考えられない話だった。

  おさらいをしておくと古典派理論では、需要不足なんてのは起きないはずだった。供給が余ったら、価格メカニズムを通じてすぐに市場がそれを調整し、需要が発生する。稼いだお金はいずれ消費されるか、預金されて銀行を通じて投資にまわるはずだ。

  これはセイの法則と呼ばれ「供給は需要を作る」と表現される。でもケインズは、これを踏みつぶした。何かを作ってもそれが必ず何らかの形で売れる/使われるとは限らない。極端な話、何かを作ってそれを死蔵したら?

  それが特に重要なのはお金の場合だ、人は稼いでも、その所得の一部を現金のまま手元に置いておきたがる。つまり消費もされず、投資もされない所得が必ずあるのだ。だったら、セイの法則はあてはまらない。

  そしてケインズが(特に一般に理解されているケインズ経済学が)指摘したことは、そのお金の市場が財の市場 (需要)を制約する、ということだ。投資案件があっても、それがお金の需給で決まる金利水準より儲からないものなら、投資は行われない。そして、人々が手元に持ちたいと思っている現金の量よりも世の中に出回っている現金の量が少なければ、その現金で取引できるだけのモノしか買えない。したがって、それだけのモノ生産や投資に対応するだけの人数しか雇えない。それは世の中に実際どれだけ労働者がいるかという話とは関係ない。だから水準次第では、総需要の不足が起き、つまりは失業が起きる。

  これはモノの需給や労働の需給で価格や賃金が変わり、それによって需給が一致する、という古典派の理論とは、まったくちがう議論だった。だがまさに当時、長引く大量の失業者の存在はケインズの見解を裏付けるものとなっていた。

  また古典派が政府に対して出せる失業対策の提言は、我慢しろ、規制をなくせ、というものだった。政府が市場の働きをゆがめてはいけない、長期的には市場がすべてを解決する、と。でもケインズの理論は、政府がお金の供給を増やしたり、公共事業を行ったりすることでもっと積極的に失業をなくせると説明する。

  異論もあるが、一般には第二次世界大戦がまさにそうした巨大な公共事業として機能し、ケインズ理論が裏付けられた、とされる。確かに経済は、ケインズの言う通りに動いたように見えた。

3.2. IS-LM理論

 だが、そのままではケインズ理論はさほど広まらなかったかもしれない。『一般理論』はいささかとっちらかっている。消費や需要の話があり、雇用の理論があり、投資の理論があり、金利の理論があり、お金とは何かという理論があり、でもその相互関係はわかりにくい。結局この理屈でどうしろと? アレはダメ、コレはダメというのはわかったけれど、全体としてはどういう組み立てなの? お金を増やせとか公共投資をしろという以外に何をしろと? 『一般理論』を読んだだけではなかなかわからない。

  それを使える形にしたのが、ヒックスがこの『一般理論』について古典派との比較で概説論文「ケインズ氏と古典派たち」(1936) を書くときに、お手軽に作り上げたIS-LM分析だった。

  IS-LM分析を簡単に説明すると、さっき述べた通り、経済というものを個別の需要供給の寄せ集めと考えるのをやめよう、という話だ。モノ(財)の市場とお金の市場があって、それが金利を通じて相互作用しているのだと考えよう。そうすれば、他の市場(たとえば金融市場)の状況次第で、モノの市場が完全雇用以外のところで均衡することがありえる。

  まず、実際のモノのほうを見よう。ちなみに、モノの市場は、それを作るための労働の市場とほぼ同じだと考えていい。社会の総所得=総生産は、社会が消費する分と、投資する分と、公共投資で決まる。消費は、総生産一定比率(消費性向)だ。これは10章に出てきた。投資は、投資収益の高いものから実施されて、金利に等しい案件まで実施される。貯蓄して利息をもらうよりも投資した方が儲かるからだ。だから金利が低くなれば投資は増えるし、高くなれば投資は減る。これは第11章に出てきた。公共投資は勝手に政府が決める。

  これで金利とGDPの関係が決まってくる。これがIS曲線だ。でもそこで決まるGDPは、その経済のリソース(たとえば労働者)をすべて使った完全雇用の水準ではないかもしれない。金利がものすごく高ければ、GDPは低くなり、労働者全員が働けないかもしれないのだ。

IS curve

  じゃあその金利はどう決まるんだろうか? そこで出てくるのが、金利の理論、13章の話だ。金利は、人が手元に置きたい現金と、実際に世の中にある現金の量で決まる(13章section II)。お金を人が必要とするのは、取引に使うためと、各種変動に備えた予備のため、投機のためだ。取引にいるお金は、実際の取引による所得 (GDP) にだいたい比例する。予備のお金も同じ。金利が高いと人は利息のつく形で財産を保管して、現金を減らすようにする。

  でも、世の中の現金の量は、中央銀行が決めるので、上のお金の需要は、その枠内でやりくりするしかない。取引に使う現金(GDPに比例) を増やそうとしたら、予備の現金 (金利に反比例) を減らすしかないし、その逆も真だ。すると、それが釣り合うGDPと金利の組み合わせが生じる。これをグラフにしたのがLM曲線だ。

  LM curve

  そしてこのISとLMを重ねて描くと、その交点がその経済の金利とGDPだ。そのGDPの水準次第で、雇用の水準も決まる。それは、完全雇用ではないかもしれない。そのずれた分が失業だ。その失業は、労働市場がどんなにがんばっても、改善されない。

  IS-LM curve

  これは、ここに書いた程度の話を漫然と読むだけでは、たぶん絶対にわからない。ケインズ経済学に興味があるなら、ホント、これだけはどんな教科書でもいいから読んで理解してほしい。本書解説を書いてくれた飯田泰之『コンパクトマクロ経済学』(新世社)はこれを実に簡潔に説明している。クルーグマンやロバート・ゴードンの教科書でもいい。ちゃんと図と式の両方で理解してほしい。ここでは単に、それが一般理論のどこと対応しているかを説明したかっただけだ。

  さらにこのモデル、すばらしい利点がある。これは実際の政策分析に使える、ということだ。

  国が公共投資したらどうなる? 中央銀行がお金の供給を変えたらどうなるだろう。技術革新で投資機会が増えたら? 完全雇用を実現するためにはどんな政策オプションがあり得るだろう? 金利の影響は? 人々の嗜好が変わったら?

  すべてこれで分析できる。分析、といっても、各種の変数がどの方向に動くか、という程度の話だったりする。でも、どうせマクロ経済なんておおざっぱなんだから、方向が見えるだけでも政策立案にはきわめて有益だ。IS-LMが編み出されたことで、ケインズ経済学は、経済政策立案の現場でばりばり使える理論となった。自由放任、市場に任せろという古典派の煮え切らない政策提案から、まったくちがう能動的な政策をたてられるようになった。

  現実をまがりなりにも説明できる理論、そしてそれに基づく政策ツール、さらにはその効果を統合的に分析するためのツールが加わり、ケインズ経済学は理論的にも経済政策的にも文句なしの布陣となった。そして、その成果は第二次大戦後の世界で見事に華開いたのだが……

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4. ケインズ経済学の興亡

4.1. ケインズ経済学黄金時代とその崩壊

 ケインズ経済学はもともと、1930年代の大恐慌を背景に生まれ、アメリカのTVAなど大規模インフラ投資の裏付けに使われたものの、大恐慌をひっくり返すほどの規模にはならなかった。が、議論のあるところだけれど、第二次大戦という大規模公共支出が大恐慌からの脱出につながったとされる。そしてその復興のための大規模な公共投資に伴い、世界はケインズ経済学のものとなった。

  そしてそれは見事な成功をおさめた。20世紀初頭の自動車や飛行機、電気製品の普及に伴う電力網など、新技術に対応する投資、医療や公共サービスなどが、当時の民間では対処できないものだったせいもある。世界は大規模な公共投資を必要としていたし、それを正当化する理論は実に好都合で、しかもそれは実際に生活水準の向上と安定に文句なしに寄与した。経済はかなり完全雇用に近い水準でまわり続けた。

  でも、60年代頃からそれがだんだんおかしくなっていった。

  最大の問題はインフレだった。世界各国が、激しいインフレに悩まされるようになった。各国とも、完全雇用実現のためにお金をたくさん刷っていたので、これは当然ではある。それにインフレなんて、数パーセントなら大した問題じゃない。でも十パーセントを超えるようになると、いろんな歪みが出てくる。

  またケインズ経済学によれば、インフレと失業の間にはトレードオフがある。でもそのトレードオフがだんだん効かなくなり、やがて失業があるのにインフレも高いという、いわゆるスタグフレーションがあちこちで見られるようになった。

  また、大きな政府の非効率性もあらわになってきた。横柄でグズで画一的で官僚的な政府サービスに対する不満は高まった。一方で、民間も力をつけてきた。かつては公共でなければできなかった各種大規模事業も、民間でかなり実施できるようになってきた。

  こうして、ケインズ経済学の主な処方箋にあちこちで破綻が生じてきた。一九七〇年代のオイルショックを契機に、それが総崩れとなった。そうなると、その理論的な基礎となっているケインズ経済学が変ではないか、と思われるようになるのも当然だった。

  そして古典派の逆襲がはじまった。

4.2. 古典派経済学の逆襲

  どうしてインフレになっても失業が下がらないのか? そこには人々の期待や予想の役割があるのだ、と鋭く指摘したのがミルトン・フリードマンだった。インフレが続くと人々はそれを期待に織り込み、失業引き下げの効果がなくなる、というわけ。期待のせいでトレードオフが効かないんだ!

  さて、ケインズ自身は期待の役割を十分に承知していた。それは本書の19章を見ればわかる。景気が回復するのに、賃金や価格が下がればいい、という議論に対し、物価や賃金が下がったら、みんなもっと下がるかも、と期待してさらに様子見が続いてしまう、と指摘している。その他の部分でも期待はしょっちゅう出てくる。

  が、これはIS-LMにはうまく反映されていない。そしてこの「期待」が当時のケインズ経済学の大きな盲点となった。政府が何かしても国民はそれを合理的に将来の予測に組み込んで行動するはずだ。これが「合理的期待形成」という発想だ。もし人々がそういう合理的な期待に基づいて行動したら、政府の政策介入はまったく効かなくなる!

  ロバート・ルーカスがこの発想をマクロ経済学に適用し、ケインズ経済学をぼろくそに批判した。合理的な個人というミクロモデルを基礎に、マクロ経済学を再構築しなくてはならない!

  さらに経済学の分野では、多くの市場の同時均衡を扱った、数理体系としては見事な一般均衡理論が完成していた。その一般均衡モデルを基礎に、ミクロ的な基礎のあるマクロ経済学を構築しよう——これを実際に進めたのが、ニュークラシカル派だ。ケインズ経済学は、市場が必ずしも均衡しない、という理論だ。でも、ものすごい(あり得ないほど)厳しい条件をおけば、あらゆる市場は均衡することが示された。だったら、あとはそこからずれる条件を考えるだけでいいはずじゃないか、というわけだ。

  人々が政策の結果を完璧に予想できて、それを完全に打ち消すように動くというのは、かなり極端な話だ。だが、理論的にはおもしろい可能性をもたらす。一般均衡も市場について非現実的な仮定を必要とする。でも理論的には美しい。それにおりしも金融の世界では、人々が市場の情報をすべて活用して予測を行うという効率的市場仮説が、かなりの成果を挙げていた。マクロ経済でもそれが可能では?

  そしてこうした理論的な進展に伴い、大きな政府批判が進んだ。政府肥大の犯人がケインズ経済学だとされ、国営企業の民営化、インフラ事業の民間導入があちこちで進んで一定の成果を上げているようにも見えた。

  経済政策そのものの有効性が否定され、さらに公共事業も否定され、理論的にも時代遅れ。ケインズ経済学はもはや完全に失墜したかのようだった。

4.3. ニューケインジアン

 実はケインズ派の経済学者たちもIS-LMが十分に厳密でない、と思って嫌っていた。静的だし、期待が明示的に含まれていないし、仮定も乱暴だし。ニュークラシカル派が、数学的に高度なモデルを駆使しはじめると、自分たちももっと洗練されたミクロ的基礎を持つケインズ経済学を構築しようという動きが出てきた。たとえばケインズ理論が成り立つためには、価格や賃金がなかなか変わらないことが理論的に重要だが、なぜそうなるかわからない。それをミクロ的に基礎づけられないものか? これがニューケインジアンだ。それで言えることは、もとのケインズ経済学と大差ない。でもそれをかっこよく言えることが、学問の世界では重要だったのだ。そしてケインズ理論のキモは、市場が時に均衡しないということなのに、かっこいい一般均衡理論を取り入れようとする中で、それはうやむやになっていった。

  結局あれこれニュークラシカルに張り合おうとするうちに、両者はだんだん似てきた。やがて、一般均衡モデルをベースにして、合理的期待の要素も入れ、ニューケインジアン的な要素も取り入れ、ミクロ的な基礎を持つ精緻な動学モデルを作ろうとする試みが進み、動学的確率的一般均衡モデル、通称DSGEモデルなるものが登場するに至って、両者は同じモデルの風味の差程度になってしまったという。(山形レベルの実務エコノミストは、これを直接いじることはないので、ここらの話は伝聞となる)。

  だが人によっては、それはいいことだった。ミクロ的に基礎づけられ、一般均衡に基づく、理論的に精緻なモデルが完成した。もはや、ケインズの変な理論や鈍くさいIS-LMなんか使わなくてもいいのだ、すべての政策はDSGEモデルで分析すればいいのだ——そんな議論さえあちこちで見られるようになった。

  だが、そのすべてが崩壊した。そして世界は、古くさいケインズ経済学の復活を目の当たりにすることになる。それが2008年から今なお(2011年)続く、リーマンショックとその後遺症だ。

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5. リーマンショックとケインズの復活

  アメリカのサブプライム住宅ローン破綻にはじまり、それを元にした派生商品がいっせいに大コケして、リーマンブラザースを倒産においやり、その後世界を大混乱に陥れた世界金融恐慌は、前節で説明した1970年代以後の経済学の「進歩」がほとんど無意味だったことを実証してしまったとされる。

  厳密なはずのそうした理論やモデルはこんな世界的金融恐慌を予想することはおろか、その可能性があることすら指摘できなかった。そして、それがいったん起きたあとも、それに対する政策対応を何一つ提示することができなかった。厳密にする(=数式で扱えるようにする)ために、えらく非現実的な仮定をたくさんおかざるを得ず、その結果としてものすごく狭い範囲のものしか扱えなくなっていたからだ。

  たとえばそうした理論はほとんどが、一般均衡理論を元にしていた。一般均衡理論は、あらゆる市場が完璧な形で機能していることを前提としている。市場が破綻するなどというのはそもそも想定外だ。大マクロ経済学者(ニューケインジアン)ブランシャールの揶揄によれば、一般均衡を元にした理論や研究のほとんどは、一般均衡からいろんな変数がちょっとずれたらどんな影響が出るかを検討するだけで、定形化された「俳句」のようなものになっている。モデルの前提が壊れるような話は、そもそも考慮されないのだ。

  一般均衡以外にも問題はある。ベースとなる多くの理論は、かの大恐慌をまともに説明できない。効率的市場仮説は、大恐慌のデータをはずすことが多い。またニュークラシカルは、大恐慌を説明できない。

  そして、それですんでしまったのは、ある意味で皮肉にもケインズ的な経済政策の成功のおかげだった。70年代までそれが完全雇用に近い経済を実現し、そしてそれは古典派の理論があてはまる経済になっていたのだ。そしてもはや中央銀行が経済を上手にコントロールできるから、あんな世界的な恐慌は二度と起きないと言われて、みんなそれを信じ、恐慌を考えない理論を構築してしまった。

  だがいざ、そうした危機が起き、完全雇用や一般均衡の枠組みが崩れてしまうと……新しい理論は何もできない。ニューケインジアンの重鎮たるローレンス・サマーズも、こうした理論が政策的にまったく無力だったと語っているという。

  でも、それができる理論的枠組みがあった。古くさく、どんくさいケインズ経済学、そしてその粗雑なIS-LMモデルだった。

  そして実際、リーマンショック以後の銀行救済や景気停滞に対する各種対策は、すべて初歩のケインズ経済学の枠組みにおさまるものばかりだった。景気停滞に対しては、大量の公共投資と金融緩和。その後も、その投資の乗数効果が検討され、民間投資のクラウディングアウトが云々され、低金利に伴う流動性の罠が論じられ——すべて、この『一般理論』に登場する。IS-LMモデルで説明できる。グレゴリー・クラークは「大学の入門マクロ経済の講義でAをとったヤツなら、この危機への対応ではサマーズやガイトナーとまったく同等に張り合える」と皮肉った。ブラッドフォード・デ=ロングも、現在の事態を考えるには、最新の経済学教科書を読むよりも、一九三六年の教科書(つまりこの『一般理論』)を読んだほうがマシだ、と本気で主張している

  なぜケインズ経済学が力を持てたのか? それはケインズ経済学が、まさに大恐慌に対応するために考案された理論体系だったからだ。そのときも古典派経済学は無力だった。そして新しい経済学は、大恐慌を例外扱いすることで成立していた。だから新旧問わず古典派系の理論が小さな恐慌に対処できなかったのは当然のことではあった。だが前にも述べたとおり、経済学が必要とされるのは、まさにそうした危機への対応のためでもある。その任に堪えたのはケインズ経済学だけだった。

  こうして経済学は、ぐるっとまわって元のところに戻ってきた。古典派が理論的には充実したところで大恐慌が起き、その無力が明らかになった。それに対してケインズが『一般理論』を提唱し、それに基づく経済政策が、第二次大戦後の完全雇用と安定をもたらし、そしてそれが古典派理論の復活に手を貸した。だがそれが小さな世界恐慌により再び無力さを露呈し、そして再びケインズ経済学の有効性が曲がりなりにも示され——これがぼくたちの状況だ。

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6. 『一般理論』と経済学の未来

6.1. ケインズのご利益とは

  たぶん本書を手に取る人は、上に書いたような事情を多少は知っているんだと思う。そしていま蒸し返されているケインズ『一般理論』にはホントは何が書いてあるのか、一度読んでみよう(でも実物や全訳を読むのは面倒すぎ)と思っているんだろう、と思う。

  さてぼくは、教祖様や教典におすがりするようなものは、学問のあるべき姿じゃないと思っている。フロイトに戻れとかマルクスに還れとか、宗教がかった疑似学問は、そうした教祖教典にすがろうとする。でもニュートン『プリンキピア』に物理学の未知の知恵がこもっているとは、だれも思わないだろう。ニュートン力学だけでは説明のつかない水星の近日点移動が見つかったとき、「コペルニクスに還れ」なんてことを言い出すバカはいなかった(たぶん)。

  いま、ケインズの元々の理論と処方箋が脚光を浴び、かれが何を書いたのかに多少は注目がある。それ自体はよいことだ。でも、それが変な教祖様主義に陥るのは避ける必要がある。たとえばジョージ・アカロフとロバート・シラーは、『一般理論』の「アニマルスピリット」に注目した本を書いている。でも中身は、実はケインズの言うアニマルスピリットとはかなりちがう話だ。特に必然性もなく無意識のうちにケインズのご威光にすがろうとしたようにすら思える。できればそういうことはしないほうがいいように思う。

  とはいえ『一般理論』の議論は、すべての古典と同じく、未踏の地を切り開いた古典が持つ自由闊達さがあり、きちんとまとまってはいないけれどヒントになりそうな話がたくさん詰まっているのは事実だ。

  そして確かに意外なものが突然復活してくる。地域通貨が一時はやった頃には、シルビオ・ゲゼルがしばしばもてはやされたが、かれが多少なりとも知られているのは、ケインズが『一般理論』でほめたことが大きい。

  また日本の現在の二十年近く続く不景気(そして近年のアメリカなどの不景気)について、いまやそれが流動性の罠にはまった状態だというのは有力な説で、それをもとに、インフレ期待を醸成しろというリフレ派がじわじわと勢力を増しつつある。この流動性の罠も、本書15章でケインズが指摘したものだ。

  この理論は長いこと、ほぼ忘れられていた。多くの論者は、現在はそんなものは起こらないだろうと思っていた。いまやリフレ派の旗手たるポール・クルーグマンですら、当初は流動性の罠が起こらないことを証明しようとして論文を書き始め……そして、結局はケインズの言う通り、どんな理論的枠組みでも流動性の罠が起こりえること、そしてその対処法としてインフレ期待が有効だという正反対の結論にたどりついてしまった。IS-LMモデルから得られる流動性の罠脱出法(金融拡大と財政拡大の合わせ技)はいまも有効だ。それはいまのアメリカの不景気脱出でも重要となるし、もちろん今の日本にも大いに意味がある。

  ケインズはこの『一般理論』で、本当にそこまで考えていた。大したもんだ。いつか、ケインズに人々が戻らずにすむようになればと思う。『プリンキピア』に物理学の将来方向を求めようとする物理学者がいないように、ケインズ『一般理論』にも人々が考古学的な興味以外のものを抱かない日がくればよいとは思う。でも、これまでの実績から見て、まだまだ隠し球はありそうだし、だからこそ本書の主張をざっと読み直す価値もあろうというもの。

  でも今後の経済学はどうなるんだろう。ケインズのえらさはわかったが、今後の経済学がこの『一般理論』をひたすらつつきまわしていれば用が足りるというものではないのも当然。今後、どんな発展があり得るんだろうか。

6.2. 経済学の未来?

  ケインズ以後の経済学、特にここ数十年のマクロ経済学が、リーマンショックといまの世界金融危機にあまり現実的な力を持ち得なかった、というのは多くの人が指摘している。その反省がどういう形を取るかは、興味深いところではある。

  ニューケインズ派マクロのえらい人であるオリヴィエ・ブランシャールは、一般均衡にこだわる最近の研究をくさし、もっと部分均衡(つまり一部は均衡しないというケインズ的な発想)を重視し、理論の中で閉じずに実証的な検証にも目を向けようと述べている。

  一方、今のままでいいのだ、何も問題はないと言い張る人も(当然ながら)いる。多くの研究者はすぐに宗旨替えするわけにもいかないし、今後もこれまで通りの話が当分続く、とは言われる。かの大恐慌でさえ数十年したら「あれは例外」で片付けられるようになった。今回の教訓もすぐ風化するよ、というシニカルな声もある。一方で、どん臭くても役にたったケインズ経済学をもとにした、新しいアプローチ(流動性選好を重視したものでもなんでもいいが)が出てくるかもしれない。経済学に個人の不合理性を導入することで、新しい基盤が出てくるという人もいる。

  また全然別の方向から展開があるかもしれない。ハーバート・ギンタスは、ゲーム理論を使って社会科学をすべて統合しようという大胆な提案をしている。意外とそれがモノになるかもしれない。その中で、ミクロで多様な個人がゲーム理論的に相互作用するのを完全にシミュレーションするような手法が実現し、ケインズ経済学を含めあらゆる経済学がそこに還元されてしまうかもしれない。

  でも、理論的な方向性は預かりしらぬことながら、外野としては過去数十年の経済学とその無力を見るに、理論的な整合性と美しさよりは、泥臭くても現実のできごとを説明し、きちんと政策提案ができるようなものになってほしいとは思う。これは多くの人が述べていることでもある。

  ケインズもまさにそうした。そして、それこそが本書のアプローチから、経済学者もそうでない人もいちばん学ぶべきポイントでもある。

  ケインズは現実に起こっていることを真摯に観察し、そしてそこで見た人々の不遇に対して手をこまねいていることを良しとしなかった。現実世界の実情よりも自分たちの狭い理論的枠組みを優先する古典派を、ケインズは本書で批判した。「長期的には、われわれみんな死んでいる」。いまできることがあるんだから、死ぬ前にそれをやろう。

  そしてそのために、ケインズは自分の古巣をほぼ全否定することさえためらわなかった。実際にあわない理論は捨てるという、学者としての誠意があった。そしてものごとにまったく違った取り組みを行い、それを提示するだけの勇気を持っていた。

  すごいことだと。

  いまこれを書いている時点(2011年夏)では、東北大震災の復興が未だにあまり進んでいない。また急激な円高で、多くの輸出系企業が苦しんでいる。ついでに二十年近く前からのデフレと不景気もいっこうに改善する気配がない。その状況で、メディアに登場する日本の多くの経済学者は、なんだか知らないがやたらに増税を推進してみたり、円高阻止やデフレ阻止における中央銀行の役割を矮小化してみたり、現実をどうにかするよりも自分の理論的立場を守ることにしか奉仕しない発言や、それどころか本当に学問的に肯定できるのか怪しい議論ばかり述べているように見える。ぼくには、それが現実の人々の苦労をまともに見て、それを何とかしようと真摯に考えた結果には見えない。

  経済学がどっちに進むにしても、そしてそれがケインズの成果をどこまで取り入れたものになるにしても、ぼくはこの『一般理論』の中身もさることながら、それを書いたケインズの志と誠意には是非とも学んでほしいとは思う。そして、自分の古巣をひっくり返すような革命的な本を書きながら、そこに茶目っ気たっぷりな第V巻みたいなもの入れてしまえるしゃれっ気も、きまじめ一辺倒な人々には大いに学んでほしいな、とも思うのだ。まじめに、真摯に、でも楽しく——こんな要約がその一助となれば……まあ無理か。

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7. 謝辞

  本書はもちろん、素人向けの概説書だ。専門家は横着せず、原典を読むべきだとは思うけれど、でも概要を把握するためには十分参考にはなると思う。また、どう見ても『一般理論』を読んだとは思えない通俗経済評論家がよく引き合いに出す、美人コンテストやアニマルスピリット、穴掘ってお金を埋める公共事業といった有名な小話も、チェックしやすいようになっている。すでにあちこちの輪講や勉強会のアンチョコになっているそうで、編訳者としては嬉しい限りだ。

  翻訳・要約にあたって『一般理論』の邦訳は一切参照していない……と書いた後で目を通したが、塩野谷親子による訳は、およそ人間によめる水準ではなく、間宮陽介による新訳は多少ましながら、やはり読みづらい上、明らかな誤訳や無理解に基づく原文の改ざんなどが多く、参照する意味はないと思う (その既存の邦訳を見て、あまりにできの悪さに激怒して、その後全訳も完成させた。興味のある向きは http://genpaku.org/generaltheory/を参照)。

  このため訳語は、題名さえ慣例にはしたがっていない。ぼくはmoneyを貨幣と訳すのが嫌いだからだ。題名ですらそんな具合だから、内部でも業界の専門用語には特に従っていない。この点はご留意いただきたい。


  さて本書のもととなるウェブページ (\url{https://cruel.org/econ/generaltheory/) の成立にあたっては、主に三方面の人々からまったく意図せざる後押しをいただいた。

  そもそも本書誕生のきっかけを作ってくれたのは、経済学者の松原隆一郎氏だった。詳しい事情は、ぼくのウェブページを見てほしい。決して嬉しいものではなかったとはいえ、この専門外の素人に、『一般理論』要約にとりかかるきっかけを与えてくれたことだけは感謝している。ありがとう。

  また、途中で特に本論部分の第2巻の変な単位談義に嫌気がさしていたときに、そうした部分も含めて本書の意義を改めて解説してくれた、ポール・クルーグマンの『一般理論』序文にも感謝。本当は、この序文そのものを本書に使いたかったところだ。全訳はhttps://cruel.org/krugman/generaltheoryintro.html にある。そのエッセンスはこれまでの解説にかなり活用させていただいた。

  そして最後に、あと二歩くらいのところで放置してあったこの作業の最後の尻を叩いてくれた、2ちゃんねるの能登麻美子(というアニメ声優)スレッドに巣くうキモヲタファンたちに感謝。何が起きたかはググっていただければ幸甚。社会性も教養もないと思っていた声優ヲタどもから「ケインズを仕上げろ」というハイレベルな恫喝が出たのに驚愕のあまり、見事完成の運びとは相成った。能登ファン諸氏の知的水準をめぐる不当な偏見をここにお詫びするとともに、その叱咤激励に深く感謝するものである。そして、ご当人は何のことやら知るよしもなかろうが、その旗印たる能登麻美子氏にも。

  誤字や解釈の誤りも含め、もしお気づきの点が何かあれば、是非ともご教示いただければ幸甚。即座にウェブと、本書のサポートページで公開する。

  ウェブ上のこの試みを本にしようと提案してくださったのは、ポット出版の沢辺均氏だった。延々待たせてごめんなさい。また、変な素人くさい本の解説を引き受けてくれた飯田泰之氏にも感謝する。

2011年8月 ビエンチャンにて
山形浩生 (hiyori13@alum.mit.edu)

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山形浩生 作『要約ケインズ「一般理論」解説』は
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2014.03.06 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)