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30.

ハースト来訪。彼は私には理解できない形で悩んでいる。しばしば、陳腐な言説の中途で急にやめ、不意に沈黙して凝視し、まるでその動きによってあらゆるものがその瞬間に結晶に変容してしまったかのようなのだ。

何にとりつかれたのか? 罪の意識? いや、そんな観念はいまなおHHには手の届かぬものだ。むしろ、胃の調子でもおかしいのだろう。

(アイヒマンがいったとされていることばが思い出される――「一生涯、私は不安をおぼえていたが、何に対してなのかはわからなかった」)

冗談で訊いてみた、おたくもパリジンに志願したのかと.彼もジョークで打ち消そうとはしたものの、そんなことをいわれて気を悪くしたのは目にみえていた。しばらくして彼はたずねた――「なぜだね? 以前よりも利口に見えるかね?」

「ちょっぴりね」と私は認めた。「もっと利口になりたくないんですか?」

「ないね」と彼はいった。「きっぱりお断りだよ」



T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日