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六月二十二日

夜半に目覚め、ねむけまなこの速記で私をめざめさせた悪夢を記録して、思案の末の無感覚を恋いもとめて寝床に倒れこみ、そこに虚ろに個れて横たわって悲情な闇に見入った。そうしたメモから推敲したこれは私の夢である。

最初に、腐りかけの果物のもののような、飽満するような甘い匂いがあった。私はそれが部屋の中央にある大きな穴から発していることに気づいた。とても太った男がこの穴の底に、角礫岩の山に囲まれて立っていた。剃髪している、修道僧だ。彼の頭巾と衣は白。ドミニコ会士だ。

彼は腰に巻いている紐をはずしてその一端を私に投げた。彼をひっぱり出すことはほとんど不可能なわざだった。しかし遂に私たち二人は喘ぎながら穴の縁に坐った。

「平素なら、無論」と彼はいった、「浮揚できるのだがね。屡々、一腕尺の高さにまで」

大層ふとっている割には奇妙に実体性が希薄なようだった。ガス状、といえそうなくらい、丸々とした手は、膨れ上って破裂しそうな手袋のよう。私は自分自身にいった。ルイス、気をつけないともうじきおまえもこんなふうになるぞ――

「そしてこれのみが奇蹟ではない。他にもあまた言及しうる。 Quantam sufficit にな、アウグスティヌスが所見の如くに。坐れるような場所はないかね?」

「うちの椅子は、どうも……いささか簡素すぎるようですので。ベッドではいかがでしょう?」

「それと何か食べるものを。パンを少々、鰊を些か」彼はこぶしの風船でスプリングを突ついた。「儂はメッセージを伝えに参った。従って、長くはとどまらぬ」

私は扉のわきのボタンを押した。「私にメッセージを?」

「神よりのメッセージであるぞよ」彼はぐしゃくしゃのシーツの上に身を沈めた。頭巾が、口のあるはずの顔の下半分まで殆ど影で蔽っていた。

「さてそれはいかがなものでしょうか」と私は能うかぎり丁寧にいった。

「神を疑う? 在し給うことを疑闘視する? なんたるたわごと! 無論そこもとは神の存在を信ずる! 万人が信じておる。この身みずからが三通りの相異る方式で彼の存在を証明したのだ。先づ、若し彼が存在し給わずば、万事は全く異るであろう。上が下となり、右が左となるはずである。ところがさにあらざることは我等が知るところなり。エルゴ、神は存在せざるを得ず。第二に、神が在し給わずば我等いずれも今ここに、食すべきものを待ちてあるはずもなかろう。第三に、我等は ただ時計を見さえすれば彼の存在を知ること ができる。いま何時かね?」

「三時ちょっと過ぎです」

「おやまあ、おやまあ。なんとも遅いものだ な。きみは謎々は得意かね? 何故ヒュペルノ・ドゥリアは脳柔膜に祈ったか?」

「なにゆえに大鴉は書きもの机に似ているか?」と私はこの客に迷惑しはじめながらぼそぼそと言った。彼はそれを聞かなかったのだと思う。聞こえたのだとしたら、あてこすりを捉えそこなったのだろう。

「わからない! ではもうひとつ。わたしの師匠がいいました、『そなたは彼を愚図な牛と呼ぶ。だが言っておこう、いずれこののろまな牛は高らかに咆え、その砲曜が世に満つるであろう』わたしは誰でしょう?」

「トマス・アクィナス?」

「聖トマス・アクィナスだよ。すぐさまわかっていて然るべきだね。きみは鈍いかね?」

「大部分の者と較べれば、違いますね」

「大部分の者と較べれば――しかし儂と較べたならどうかね? はは! そして神は儂よりもなおいっそう鋭くあらせられるのだよ。 彼は存在の連鎖の頂点にある、彼は第一にして非物質的な存在であって、知性は非物質性の帰結であるからして、夜が昼に従う如く理の当然として、彼は第一の知的存在ということになるわけだ。ディオニシウスを読んだことがあるかね?」

「残念ながら」

「読むべきだね、読むべきだよ。彼なのだよ、天界の存在の各階梯は至高の精神によって神の学を教えられる、と書いたのは。たとえば、儂がそなたに教えるようにな。修道院長シュジェルはことにディオニシウスに熱中していた。いま儂は何というたか?」

「え?」

「いま儂がいうたことを復唱せよ。できぬ。 そなたが簡単なことにも耳を傾けんで、どうして儂がそなたにメッセージを授けられようぞ?」

ドアにノックの音がした。コーヒー・カートだったが、艶消しのクロムから燦然たる黄金に変容しており、宝石がびっしりと銀められていた。幼稚園児ほどしかない三人の小さな天使がそれを扉の彼方からもたらしへ二人が前からひっぱり、一人がうしろから押していた。私は、なぜ彼らは飛ばないのだろう、ことによると彼らの小さな翼は空気力学的に不安定なのだろうかと、ポピュラー・サイエンス雑誌で読んだことを思い出して思案した。

ケルビムの一人がカートの底から小さな腐りかけの魚の盛り皿をはずした、それを立派なスポード製の鉢にあしらうと聖者のもとへ持っていき、聖者は両手をおわん状にして至福のしぐさでそれを受けとった。ケルブが私のわきを通る際に翼の端が顔を擦った、それは羽毛ではなくきめ細かな白い柔毛でできていた。

「奇蹟なり! あらゆる食事はささやかなる奇蹟なり、それは存じておろう。鰊とあればなおのこと。儂は奇蹟の錬くらいて死せり」彼は膨んだ指で魚を三尾とると頭巾の影に押し込んだ。「行商人が鰯を運んで修道院の傍を通りかかってな。儂は鰯は大好物だが、鰊は――ああ、鰊となれば話は別だ――そして何が起こったと思うかね? 彼は最後の桶を覗きこんだ」――またひど掴み腐った魚が押し込まれ、逸話はわずかに中断される――「するとそれは鰊でいっぱいだったのだ! 奇蹟だよ、奇蹟なるものがあるとすれば、ただ、生憎とそれはいたんでおって、儂はおよそ想像しうる限り最も激烈な腹痛の末に三日後に死んだのだ。奇想天外ではないかね? 儂の生涯の物語は一冊の本になるであろう。そこもとは事の幾つかは信ずるまい。なれど、まずあるまいな」――彼は咳ばらいすると空の鉢を天使に返した――「官能的な方面の事柄は。二十の歳よりこのかた肉の衝動はおぼえぬことゆえ。一度たりともな。お蔭でわが学究は計りしれぬほど容易になった」

別なケルプが黄金の皿にパイ類を盛って近づいてきて、そこからアクィナスはチョコレート・エクレアを選んだ。ここでようやく私は、智天使のちっぽけな陰糞を膨れあがらせ、哀れにも奇妙な大股ぴらきの歩き方をさ せる原因になっている、痛々しい炎症に気がついた。客は私の視線をとらえた。

「orchitis だよ、知っているだろう」といいながら彼はがぶりとエクレアに食らいついたので、もう一方の端からホイップクリームが奔り出た。「睾丸の炎症だ。ギリシャ語の つまり睾丸から来ていて、そこからはまた、塊茎の形状が似ているために orchid 蘭という語も由来している。すべては同じところに帰着する、セックス、S-E-Xにな。これは見事なパイだな」エクレアはたいらげられて、彼は盛り皿からチーズケーキをとった。

「もとより読んでおろうな、いかにしてわが兄レイナルドが母の命によりて儂を誘拐させ、わが召命を成就することなからしめんとしてロッカセッカの塔に連れ行きてそこに幽囚たらしめたかについては。レイナルドは誘惑者の任を果さんと決意してわが房に若き婦人を送りこんできた。注目すべき魅力ある金髪の娘だったよ、というのも儂は炎上げる燃え木もて彼女を逐い払いながらも、そのことに注目することを禁じ得なかったのでな。 儂は彼女の再来を妨げんがため、十字のしるしを扉の木材に焼きつけた、そしてその時のことなのだ、神のお慈悲がすでに語ったあの幸いなる免除を下されたのは。これは常々 ものがたられてきた話だが、これにはあまり一般には知られていない続きがある。レイナルドはひとかたならぬ方策をめぐらせて儂の志操堅固さを切崩そうと努めた。当時わしは容姿不快ならずとみられておった。儂はほっそりしておった、なれとても、サケッティ、かつてはほそやかであったように、まこと骸骨の如くにして、儂の身のこなしは豹の優雅さであった。とこみがあの窮屈な牢獄では身を動かすこともかなわなんだ、儂は読んだ――聖書を、また文章の大家を――そして書いた――一、二のとるにたらぬもの、小品を――そして祈った。だが、また、避けがたくも、食らいもした。飢えは色欲にも劣らず強力な肉の衝動にして、なおいっそう我等の獣性の基本をなすものである。儂は日に四たび、時には五たび、食事をした。風味ある肉、美味なるソース、これをはるかに凌ぐまこと絶妙なる小ケーキが、専ら儂の食事を作ることにのみ従事する厨房で拵えられた。一度、二度、儂は食を拒み、窓から擲げ棄てたり床に踏みにじったりもしたが、そうするとレイナルドは儂を餓えさせた。あらゆる食物を儂から三日、四日、五日と遠ざけておいて、金曜日、すなわち精進日に至ると、ああ、この上もなく身もうちふるえんばかりの食べ物があ り余るほどに供される。儂偉抵抗できなかった、できはしなかったのだ、あの時は、あるいは――そののちも。ロッカセッカから脱出したのち、儂は暦におけるすべての精進日に自分が貪婪な、責め苛む空腹に再訪されることに気づいた。そのひもじさを宥めてしまうまでは、祈ることもできず、読むこともできず、考えることもできないのだ。かくして恰も年経るうちには非物質的な知性がなにやら神々しい、湿っぽいカボチャのように膨らんでいったのと同様に、儂の物質的で肉体的な側面、儂のからだも暴飲によって脹れあがりふくれ上っていって……こうなったのだ!」彼は頭巾をはねあげて、かつては顔だったに違いないものを明示した。大食にすっかり圧倒されて、造作はすべて消え去り、ただ重くたるんだ頬と顎の肉垂があるばかりで、それが口にあたるしみだらけの穴をとりかこんでいる。顔よりもむしろ、このパテ状の肉は巨大な腎に似ていて、眼はほんのえくぼにすぎなかった。

「そして今、儂はそこもともまた多少ケーキを好むのではないかと思う。いや、そこもとがあのパイ皿に向けた貧るような眼差しを見たのだよ。モプシイ、時は真近いぞ――サケッティさんにメッセージをお渡ししろ」

二人の仲間が私の両腕をとらえて両膝をつかせると、三人目の兎に似た頭をしたケルブが、ちっぽけなピンクの鼻を喜びの期待にひくつかせ、毛皮の翼を欠陥心臓の鼓動のように痙攣的にはためかしながら、私に近寄ってきた。丸ぽちゃの指をそいつは陰嚢の花のような化膿している傷口に伸ばすと、そこから判読しがたい手書き文字で蔽われた薄っぺらな白い聖餅を引き出した。

「どうも……私には……理解できないんですが」

「無論それを食べなくてはならないのだよ」 とトマス・アクィナスは説明した。「そうすれば汝の理解は神のものの如くになるであろう」

ケルブはパンを(それは先程、窖からたち昇っていたのと同じ匂いがした)私の口に押し込んだ。私を解放すると、天使たちは急に歌いだした――

"O esca viatorum,

    O panis angelorum,

        O manna cáelitum..."

 

Esurientes ciba

    Dulcédine non priva,

        Corda quaerentium."

むかつくような甘さが口の中いっぱいに広がるにつれて、メッセージが、奇蹟の油を燃やすランプのように、私をその支持し難い真相で眩惑した。

「どうして今までわからなかったのか!」

私はわれわれの名がへいかなる書物に於るのにも劣らず明瞭に、紺と黄金の壮大な文字で示されているのを見ることができた。ジョージ・ワグナーの名が最初。次いでモルデカイの名、そして残りすべての囚人の名が単調に並んでいる、そして頁の末尾に、私自身の名が。

だが苦渋はそのことにではなく、それを私が知っていたのが確実だという点にあった。キャンプ・アルキメデスに来た、殆どその時からわかっていたことなのだった。

アクィナスは床を転げまわって笑い、肢なし塩漬けあばら肉状の胃から巨大なつののあるカボチャ頭へと血を送り込んでいた。彼の咆哮は部屋を満たし、天使たちの穏かな祝歌を消し去り、そして私はめざめたのだった。





T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日