こんなに早く大詰を迎えようとは予想していなかった。芝居はほとんど終りかけている、それなのに私はわれわれが第二幕の中程のどこかにいると思っていたのだ。今では、舞台から肉体を運び出すよりほかになされるべきことは何ひとつ残っていない。
いつもながら、私が席についたのは幕あきのかなり前、といってもハーストに先んじてではなくて、彼は私が入っていったときには急に自閉症にかかった通風装置のことで保繕班にがみがみいっていた.午後の白い無精ひげは顔から剃りおとし、黒のダブルのスーツに着がえていた。最新の型のものなのにスーツは時代遅れのように見えた。シュトゥットガルトを六十年代初めに訪れた際に、私はいかに多くのビジネスマンが青春期のスタイルの服装をしているかに気づいた。彼らにとって――そしてハーストにとって――それは常に一九四三年というごとになるのだろう。
儀式で積極的な役を演じない数少ない囚人が次に到着し、何人かはフォーマルな装い、あとの者たちはエレクトリックではあるが劣らず地味ないでたちだった。彼らは en bloc にではなく小さな会堂に散らばって席に着き、こうして腰をおちつけてみると、劇場はそれまでと殆ど変りなく閑散としているように思えた。
バスクもまた、まるで喪に服しているかのような身なりを選んでいた。私のうしろの席につくと、すぐにキャメルのチェーンスモーキングを始めた。しばらくすると通気装置の故障に支援されてわれわれ二人の周囲に小さな煙の繭を織り上げてしまっていた。
モルデカイと僧正、ちょっとした群勢をなすうるさ方、守門、etc. (アマート・オペラでの『トスカ』の序幕のような感じ)が最後に到着、というよりはむしろ物腰柔かくも仰々しく登場。僧正はマチスばりの表象め巨た祭服で麗々しくめかしこんで、しかし彼さ えもひとつ葬儀の特色を保っていた。司教冠が真黒なのだ。モルデカイは舞踏会用の衣裳を選ぷ上で些かぞっとするような経済性を発揮していた。ジョージ・ワグナーがファウストとして着たのと同じ、黄金のレースの襟のついた黒のベルベットのスーツなのである。
ドライクリーニングが必要なのはあまりにも明らかだったが、たとえ真新しくてもモルデカイにはそぐわなかったはずで、これではほとんどべったり黒一色に見えてしまっていた。さらにまずいことに、その裁断は、彼の胸幅の狭さやねこ背、がにまたの脚、休んでいるときの品のなさにも匹敵する歩く際のぷかっこうさを強調していた。彼はベラスケスの哀しい侏儒の一人に、その拡大版とでもいったように似ていて、豪勢な衣裳はグロテスタな体格を際だたせることにしかなっていない。これは疑いなく、狙った効果だった。プライドというものはその醜さを、まったくそれが美点であるかのようにみせびらかすものだ。
ハーストがこのモンキー・ハムレットにかけよって、細心にではあるが手を掴んだ。「これは歴史的な行事だよ、ねえきみ」彼の声は奥底でおぼえている自惚れによって嗅れていた。
モルデカイは手をのけながらうなずいた。眼が、彼にとってすら異例な、凄じいまでの精神集中に輝いていた。私は「Pの肖像」でのファン・デル・グースの「悲痛な眼」を想い起した。「光に渇いて、彼の凝視は太陽へと回帰し続けるのであった」
憎正が、然るべく威儀を正し、燦欄たる大外衣をささえ持つ二人の補助雇員を従えて、ハーストに四歩さきんじて舞台に向った。モルデカイは通路に長居して客席の顔を眺め渡した。私と眼が合ったとき、不意にきらりと、面自がっているようなものが窺えた。彼は最、前列に沿って私の席まで来ると上体を屈めて囁いた――
「いま我に欲し
決行すべき気魄、心うばうべきわざ
そしてわが行く末は絶望
われ祈りによりて救われなくば」
起きあがりながら腕をしみのついたベルベットの上できどって組んだ。「誰がこれをいったか知ってるかい? わかってるさ、知らんのは――だが知らずにはいられんぜ」
「誰なんだい?」
彼は階段まで行き、一段目を上ってふりかえった。「ずっと昔にこう言ったのと同じやつさ
我はわが杖を折り
地中幾ファゾムにか埋めん――」
私は彼を遮って、魔術へのプロスペロの訣別の辞を締めくくった
「そしておよそ測鉛の及びしよりもなお深くわが書を沈めん」
「だがそうじゃないぜ、わかってるだろうが」とモルデカイはウインクしながらつけ加えて、「今すぐにはな」
書見台のところでモルデカイが舞台に上つてくるのを待っているハーストが、ひと掴みのぱりぱりした紙をわれわれに向けてもどかしげにがさごそさせた。「何をきみたち二人はぺちゃくちゃやっているんだ? われわれは今、おしゃべりなどしているような場合じゃない――心の準備をして、大いなる霊的な体験のために空しくしているべきなのだ。きみは、われわれが瀬戸際に立っているということを認識しておらんようだな」
「ところがしてるんだな、してるんだとも!」 モルデカイはあぶなっかしいひと跨ぎで三段あがり、威勢のいい肢あるきで舞台を横切っていくと、メデューサじみたドライヤ」のひとつの下の席に着いた。すぐさまサンドマンが彼のひたいに電線を絆創膏で貼りつけはじめた。
「おれは低能だ」と彼はいった。「開始しろ」
ハーストが大喜びで笑った。「いや、まあそんなことを仄めかすつもりなどはなかったんだが。しかし、そうはいっても……」乏しい観客のほうに向きなおった。「あい始めます前に、紳士淑女の皆様、ひとつふたつ申し述べたいことがございます、これより明らかになりまする偉大なる事業に関しまして」そして手にしたタイプ原稿から読みはじめた。
バスクが前に身をのりだして芝居めかして囁いた。「きっとあの恐老じいさん、半時間は続けるわよ。験すのが怖いわけ。自分のばかげた瀬戸際を恐れているのよ」
彼はこの見積りを十五分ばかり超過した。私はこの記録の詳細さを自慢するものではあるけれども、ここでは演説の最も簡潔な要約を示すにとどめよう。ハーストはまず、人類に益する者たることが与えてくれる充足について語り、これまでの恩人たちの生涯と功績のあらましを解説したキリスト、アレキサンダー大王、ヘンリー・フォード、そして偉大なる現代の占星術師力ール・ユング(これをジュと、軟音で発音した)。老化の悲哀と恐怖とを切々と語り、そして近視眼的な強制的な引退プログラムと死とによって最も経験ゆたかで有用な成員がたえず切りとられていくことで、いかに多大な損害を社会組織が蒙っているかを例示した。彼は、それによって〈魂〉が永遠に若々しいままでいることのできる原理を披露した(「心を開いて、〈フレッシュなアプローチ〉を受けいれる」)が、肉体がそれによって不老を保てるような、これと相補うような原理をみつけだせないのが自分の積年の絶望のもとであったことを告白した。ところが、ここ僅か数か月の間に、自分は若き同僚たちの支援を得て(とモルデカイのほうへごく短く会釈して)何世紀も前には遍くとはいかないまでも少数ながら信じて託しうべき特権ある階層に、ついでそれによって益をなすことのできるだけの責任ある社会のメンバー全員に知られていた、ある秘密を再発見したのであります。永遠の生の秘密を。
彼が語りおえる頃には私は周囲の濃い煙と昂まる熱気どで多少めまいがするようになっていた。舞台の上はライトのもとでなおのこと熱かったに違いなく、ハーストも僧正も汗ですっかり光輝いていた。
ハーストが今度はドライヤーの下で貼りつけられ装備を整えられている間に占僧正が演台に進み出て、この催しのために特別に調製した短い祈祷に唱和してもらえないかとわれわれに求めた。
バスクが立ちあがった。「真夜中まででもお祈りなさい、それはあなたの作品ですもの。でも、時間はたっぷりあるようですし、こういったさまざまな意匠の目的をきかせていただけないかしら? 古典時代の錬金術師たちはみんな、きっともっと慎しい用具でやりくりしていたはずでしょう。わたくしがきょうの午後、同じ質問を二人の技師にしたところ、彼らはわたくしの、或は彼ら自身の蒙を啓くことができなかったので、それであなたならと望みをかけていたんだけど……?」
「あなたのおたずねの件は容易ならざることです」と僧正は気どった滑稽な荘重さで答えた。「あなたは人類が把握するのに数知れぬ幾世紀をも要した事柄を瞬時にして理解することを求めておられる。エレクトロニクスのアナクロニズムですかな、あなたを当惑させているのは? しかし科学の方便すべてを利用しないというのは、これぞまさしく近視眼と いうものですぞ! われわれが古えびとの知恵を敬うというのはわれら自らの時代の技術の至芸を蔑むの謂ではないのですからな」
「ええ、ええ、ええでもそれは何をするんですの?」
「本質的には……」彼はひたいに激を寄せた。「本質的には、それは拡大するのです。またある意昧では、促進するといってもいいでしょうが。その伝統的なかたち、パラケルススに知られている様態では、エリキサは効きめののろいものです。ひとたび血流の中に吸収されると、それは三つの脳髄膜を貫通しはじめる――硬膜と蜘蛛膜、柔膜です。これらがエリキサによって完全に変形させられた時はじめて――この期間は年齢や不健康に正比例して増大するわけですが――そのときはじめて肉体の若返りのプロセスが開始する。だが明らかにわれわれには哲人的な忍耐強さを示すような余裕などなかった。エリキサの作用を急がせる必要があったわけで、それがここにご覧いただいている設備の目的なのですよ」
「どうやってそれはその目的を達成しますの?」
「はてさて、そのご質問はわれわれをさらに深い淵へと入りこませるものですな。まず、アルファ・ピックアップが――つまり、いま ハースト氏のために準備されている最中の装置ですが――脳波のパターンを記録し分析します。この記録が次に処理され――」
「やくたいもないおしゃべりは、もう沢山だ!」とハーストが叫んで、彼の汗ばむひたいに電線の宝冠をとりつけているサンドマンをわきに押しのけた。「彼女はもう、払戻しを受ける以上のことを聞いている。いやはやまったく、きみたちには〈安全保障〉の認識というものがまるでない! 今度彼女が大口を叩いたなら、衛守たちに会堂から排除させなくてはならん。わかったかね? さあ、仕事に戻ろう」
再ぴサンドマンがハーストに電線をテープで貼りつけはじめ、じっとしていない客のひげを剃る床屋のような、神経質な、ぴりぴりするような几帳面さで作業した。モルデカイは、眼がドライヤーの下に隠れていて、爪で歯をほじくっていた。退屈? 強がり? 緊張? 眼をちらりとも見ることのできない私には解釈がつきかねた。
僧正は多少ビブラートを加えて、十四世紀の錬金術師ニコラス・フラメルの祈祷から翻案した(と本人の指摘する)祈りを開始した――
「全能なる神よ、光波の父、鼓動うつ心臓よ り血の流るる如くすべてのさらなる祝福の湧き出づる源なるお方よ、われらおんみの限りなき慈悲を乞い奉る。認め給えかし、なべてのものを創り完成させし、それらのものを成就に或はまた消滅に導く、おんみの玉座を囲むかの永遠なる叡智に、われらの与からんことを。おんみの叡智は天なると秘められたる・とのわざおぎを統べるものなり。認め給え、父よ、かの叡智がわれらの業に輝きを注がんことを、われら過誤なくかの高貴なるわざを進めんことを、それがためわれらおのが霊魂を捧げ、かの奇蹟の石を求め――」
ここで舞台の脇に脆いていた待者の一人が銀の鈴を鳴らした。
「かの賢者の石を――」
二つの鈴、コーラスで。
「かの貴重このうえなき石、そをおんみはおんみの叡智の中に地上界より匿し給いたれど、おんみの選ばれたる者に顕わすことはなからざらん」
三つ――そしてこれが厳かに鳴りわたる中、扉がさっと開いて、これまでにもまして大きな調理なべのように見える賢者の卵が、小さな電動トロッコに載せられて部屋に入ってきた。四人の補助傭員がそれを舞台に持ち上げた。
バスクが前に身をのりだして小さな嘲笑を敢行した。「儀式ってものは! わたしはいまに正真正銘の強迫神経症にかかってよ」しかしこの発言と彼女の態度にはおおげさすぎるところがあって、僧正のごったまぜ的なところが彼女にまで――ことによると、それどころか彼女には殊のほか、影響を及ぼしているらしい様子が窺えた。
強烈なキャメルで目がくらみ、おまけに腹の虫までさわぎだして、気がついてみると私の注意は祈祷からそれてしまって、ほぼ私の真上で行なわれている卵の開封という荒々しい作業に向けられていた。これが完了してはじめて僧正のねばっこい呪文は、ちようど時おリスーパーマーケットやエレベーターの中でミューザックで演奏されている曲に気がつくのと同じような具合に、ラテン語ばりのむにゃむにゃとうなるような幽冥界から脱け出して並のこけおどしの領域に入った。
「……そして恰もおんみのもうけられたる唯一人の御子が神にしてまた同時に人である如く、恰も罪なくして生まれ死の支配に服さぬそのお方が、われらをして罪を免かれしめ彼の面前にとこしえに生かしめんがために死を選ばれたるが如く、恰も彼が三日目に輝かしく蘇えられし如く、その如くに賢者の黄金 カーモットもまた罪なく、常に渝らず光輝き、すべての試練に耐えるを得ながら、患いて無欠ならざる兄弟のために死することをも辞さざるなり。誉むべくも再生せられたるカーモットはそれらのものを解き放ち、それらに永遠の生命を吹き込み、純粋黄金状態の同質なる無欠性を授け与う、さればわれら今、かの同じきクリスト・イエスの名に於ておんみに請い求むらくは、、この天使の糧、この天国の奇蹟の礎石、永劫に其処に据えられてあるをして、おんみと共に統べ治めせしめ給え、王国は、また権勢は、また栄光は未来久遠におんみのものなれば」
バスクまでが答唱に唱和したげ「アーメン」
僧正は笏杖を待者に手渡しながら傾瀉された卵に近寄ると、その中で四十の昼と夜のあいだ焼かれてきた土器の瓶をとりだした。合図で照明は落され、ただひとつのスポットライトだけが、この日の午後みかけた望遠鏡じみたもので焦点を合されていた。(この光は、と私はあとで知らされたのだが、恒星シリウスから――明示されないプロセスを経て―― 誘導されたものだという)僧正はえたいの知れぬその中味を聖杯に注ぎ、ふちまで満たすと、純粋なシリウスの光のビームの中へと奉挙した。今、参集した囚人たちは舞台の上で もまた外でも、揃って大胆きわまりない瓢窃をやってのけた。アクィナスの聖体拝領賛歌、O esca viatorum を歌いはじめたのだ。
"O esca viatorum,
O panis angelorum,
O manna cáelitum..."
盗作の儀式のクライマックスで僧正は向きなおると聖杯をまずハーストの、次いでモルデカイの唇に捧げた、二人とも電気的な装具で包みこまれてしまっていて、そこから飲むために聖杯を傾けることも殆どできかねるような状態だった。それぞれが飲む際に、僧正はアクィナスの歯切れのいいラテン語からの自前のおぞましい翻訳を朗唱した――
「おお旅人たちの糧よ! 天使たちのパンよ! 天のすべての糧なるマナよ! 近寄りて汝が美味もて常に汝に餓うる心を満たせ」
最後のスポットライトが薄らいで消え、われわれはそんな煮えきらない無感動な空気の中で、全員が、最も多血質で自己欺瞞的な楽天家さえもが恐れているものを待ちうけた。
静寂を破ったのは、奇妙に変化してはいたものの、ハーストの声だった。「すこし光をくれ! 照明だ! これはうまぐいくぞ、私に はそれが感じられる――私には変化が感じられるんだ!」
すべてのスポットライトが点き、網膜のおだやかな桿状体を眩ませた。ハーストはセンター・ステージに立ち、電線の王冠を頭皮から引剥してしまっていた。顳額から血が滴り、つたい落ちていく汗ばんだ日焼けした顔はスポットライトのもとでバターを塗ったトーストのように光っていた。全身を震わせながら彼は両腕を振りひろげ、葦笛のような声で歓喜した――「見やがれ、野郎ども! 私を見るがいい――私は若返ったのだ。全身が生きいきしているぞ! 見ろ!」
だがわれわれの眼はハーストには向けられていなかった。それまでずっと身じろぎもせずにいたモルデカイが今、苦痛に満ちた緩慢さで右手を眼の前に上げたのだ。彼は、すべての希望を悼むような、悲惨さを断末魔の激烈ざにまで昇格させるような音を発し、そして強直した体躯がもはやこの奔りを支えきれなくなると、声をあげて叫んだ――「黒い! 真っ黒だ! なにもかもみんな真黒だ!」
それは推移なく終った。肉体は椅子の中でがくっと落ちこんだ。ただ、もつれた電線のせいで、床に倒れるのは妨げられた。診療所の医師が一人、廊下に待機していた。彼の診 断はモルデカイの死とほとんど同じくらい素気ないものだった。
「だがどうして?」とハーストが彼にどなった。「どうして彼が死んだりなどできるんだ?」
「栓塞、と申し上げておきましょうか。意外なことではありませんよ。この段階ではどんなに些細な昂奮でも事足りたかもしれませんな」医師は、今では床に、死後も生前と変りなく不作法に横たわっているモルデカイのほうへ向ぎなおると、大きく見ひらいている彼の眼を閉じさせてやった。
ハーストがひきつった微笑を滝べた。「まさか! また嘘をついているんだな。彼は死んじゃいない、そんなことはない、そんなはずはない。彼もエリキサを飲んだのだ。彼は復活したんだ、再生したんだ、漂白されたのだ! 生命は永遠なのだ!」
バスクが痛罵するように笑いながら立ちあがった。「若さ!」と彼女は嘲った。「そして永遠の生、でしたかしら? それはこんなふうに作用しますの、あなたの回春の霊薬とやらは?」そして魔法のお護りを前に立てて、傾聴して追随する者があることに自信を持って大股に劇場から出ていった。
ハーストは医師を遺体から押しのけると静 止した心臓の上に手をのせた。彼の呻きは、彼の足元の肉体を打砕いたそれの兄弟だった。
彼は眼を閉じて立ちあがると、最初は殆ど夢遊病者のように、そして次第にかん高さをつのらせながら話した。「こいつを持っていけ。この部屋から運び去れ。火葬しろ! 即刻、炉まで運んでいって焼却しろ。灰だけしかなくなるまで燃してしまえ。ああ、黒い裏切者め! 私はもう死ぬ、そして責められるのは奴なのだ。私はちっとも若返ってなどいない――あれはトリックだったのだ。ずっとトリックだったのだ。くたばれ! くたばれ黒んぼ奴! くたばれ、くたばれ、くたばってしまえ永遠に!」そして「くたばれ」の度にハーストは屍体の頭や胸を蹴った。
「おしずまりなさい! ご自分の健康のことを考えて!」
ハーストは医師の制止するような一触れに、恐れをなしたかのように身をひいた。よろよろと後ずさりし、支えを求めて演台に手をついた。静かに、だが規則正しく、ハーストは書物から頁を破りとって床に投げつけた。「嘘だ」と厚い紙をくしゃくしゃにまるめながらいった。「またまた嘘だ。背信だ。欺瞞だ。嘘だ」
囚人たちは不思議なことにモルデカイの死体を無視している様子で、死体はいま着いたばかりの衛守たちの手で、賢者の卵を運び込んできたトロッコの上に拠り上げられていた。卵は、結局のところ、ごくありふれたオランダ式のオーヴンにほかならないことが判明していた。私は彼の顔から血を拭ってやろうとポケットからハンカチをとりだしたが、あっさりと衛守たちに両腕をとられてしまった。私が外へ連れ出されていく時、ハーストはまだ、沈められた、沈められた書を引裂いていた。