ファンタスティックだ、そして完成!
校訂すべき点はもちろん多々あるが、とにかく出来たのだ、これもひとえに……
誰に感謝すればいいのか? アウグスティヌスが「告白録」(一の一)でこういっている、「これは哀願者が、自分の目指したのとは別なものを代りに――しかもそのことを知らずに――呼び出してしまったということなのかもしれぬ」芸術にも、魔術におけるのと等しく危険はある。ならば、〈アウシュヴィッツ〉の礼を悪魔にいわねばならぬのであらば、私が彼に感謝し借りを返すと記録しておいてもらおう。
これを書いている今は午後遅い時刻だ。夕食までは幾らか時間があることでもあり、夕方が見込みの半分も出来事があるようなら物 語る上で大変な負担になるかもしれない事柄を明らかにしておくために、予め二、三の点についてあらましを述べておこうと思った。 〈アウシュヴィッツ〉の最後の科白を書いたあとの最初の目の眩むような数瞬のこと、突然私はもうこんな、どのロールシャッハよりもおぞましい連想を呼ぶ力に富む、裸の壁に耐えられなくなって(なぜならこれは、私が暗鬱な喜劇の連続的なイメージを投射してき たスクリーンではなかったか?)よろよろと、千変万化の地下の通路に出たところ、偶然にも、そこの隠れた心臓、少なくともミノタウ ロスではあるハーストに出くわした。彼もまたありそうもない期待に目も眩まんばかりになっていて、私に四層下の小聖堂、最近 『フォースタス』の現場となったところで今夜の厳粛な秘蹟のためのカタコンベとなるほずのそこへついてくるようにと誘った。
「昂奮しているのでは?」と彼は問うたが、 むしろそれは事実の言明だった。
「そちらこそどうなんです?」
「軍では昂奮と共存することを学ばねばならない。その上、私のように結果に信を置いていれば……」彼は弱々しく微笑して信頼を表現すると手を振って私をエレベーターへ招い た。
「いや、真の昂奮は、私が何をなしとげたかについてペンタゴンのさるオフィスにいるさる将校連が聞き及ぶまでは始まりはせんよ。 名を挙げる必要はあるまい。二十年間、ワシントンのある小さいが強力な派閥が何百万、何十億ドルもの納税者の金を、われわれを〈アウター・スペース〉へ送り出すために景気よく使ってきたというのは周知の事実だ。〈イナー・スペース〉のすべてがまだ探査されねばならぬというのに」
そして、私が餌にかからないでいると、「きっときみは訝しんでいるんだな、私がこの表現〈イナー・スペース〉で何をいおうとしているのか?」
「それは実に……思考を喚起するものですね……」
「これは私自身の考えでね、先日きみに唯物論と今日の科学に関して説明していたことに関連するものなんだよ。きみも知ってのように、科学は物質的な事実だけを容認する、ところが実際には〈白然〉には常に二つの側面がある、物質面と精神.画だ。ちょうど、あらゆる人間に二つの側面、〈肉体〉と〈霊魂〉があるように。肉体は、暗い、影のような大地の産物で、錬金術においてはこれは漂白、つ まり抜き身のきらめく剣のように自くされなくてはならないものなのだ」この剣の柄を手さぐりするかのように、彼の両手は雄弁に振りまわされていた。
「今、唯物論的科学者にはこの根本的な洞察が欠けていて、そのため彼の全注目は〈アウター・スペース〉に向けられている、それにひきかえ錬金術師は常に〈肉体〉と〈霊魂〉のチームワークの重要性を知っていて、そのため当然〈イナー・スペース〉のほうにより関心があるわけだ。私はこれについて一冊の本を書くこともできるよ……もし私にことばに対するきみの才能がありさえすればね」
「おや、本ねえ!」と私は急いでこの情熱に水をかけようとしていった。「本なんかよりも重要なものはいっぱいありますよ。聖書にもいうように、『多くの書を作らば際限なし』行動の生活のほうがもっと社会に貢献でき――」
「きみにそんなことをいってもらう必要はないよ、サケッティ。私は自分の人生をどごぞの象牙の塔で浪費したりはしなかった。だがそれでも、私が心に期している書物はありきたりのごみ屑などではない。それは現代の考え深い人々の心をかきみだしている疑問の多くに答えうるものだ。私がつけているノートの幾つかを見てみる気があるのなら……?」
おしとどめられそうもない様子なので、観念してしぶしぶながら附合うことにした。「それは面白そうですね」
「たぶんきみなら、どうすれば私がそれを改良できるかを助言できるかもしれん。つまり、平均的な読者にもっとわかりやすいものにするわけだよ」
私は憂欝な気持で頷いた。
「また、たぶん――」
この最後の親指ねじ絞めの一回転からは、われわれが聖域の入口にドクター・エイミー・バスクと同時に到着したことで救われた。
「ちょっと早いよ」とハーストは彼女にいった。彼のふりまくよき仲間ぷりは、バスクの姿をみるや、蝸牛の角のようにひっこんだ――いかなる扁虫にも劣らず灰色で小ざっぱりしたスーツ姿、まじろぎもせず、厳然と鉄踵に騎乗して出陣の構え怠りない。
「降霊術に用いられる備品を点検に参りましたの。お許し願えまして?」
「すでに二名のエレクトロニクスの専門家があらゆる回路を調べているところだ。しかし彼らにきみのアドバイスが必要だと思うのなら……」彼がこわばった会釈をすると、彼女 は先にたって、きちんと敬礼して劇場に入った。
『フォースタス』の第一幕と最終幕のための書割りはとりはずされていなくて、高く聳える書棚と影になった階段は今では新しいドラマの背景として役立っていた。鷲か天使の形に彫られた書見台があり、それが支えている分厚い革装の書物はほんものの本で、単に色を塗ったカンバスではない。ひろげられたぺージには私がモルデカイの机の上にみとめたようなカバラめいた走り書きがあったが、これが芝居っ気の延長なのか、それとも何か実用的で秘蹟的な意義のあるものなのかはわからなかった。
ここまでは『フォースタス』の伝統的な演出によく合っていた。あとからつけ加えられた要素は、むしろモダン・ホラー・ムービーと』いうか、寄せ集めの、まあ日本版『フランケンンシュタイン』にでも似つかわしいものに思えた。巨大なクリスマス・ツリーの飾りのような、色を取揃えた飲用噴水装置や、内省的に大きいほうの端が焦点の合った余剰軍需品かもしれない望遠鏡がフロアボード上にあった。ダイアルやウインカー、テープの回転リールがずらりと並んでいるのは〈サイバネティック神〉宗へのオマージュ。だが舞台 監督の最も愉快なインスピレーションは一対の修正されたヘアドライヤーで、そこから、まるで豊穣の角からのように彩しい電気被覆スパゲッティが芽を出していた。二名のNSAの技師はこれらの申し分ない小さなオレンジ色のプラスチッタとクロムの電気椅子のもつれたはらわたを調べており、僧正が、回路を涜聖行為から護るためにそれを見張っている。彼らはバスクに気がつくと会釈した。
「どう?」と彼女は訊いた。「うちのブラッタボックスはどんな具合? 触れるものを何でも金に変えそう?」
技師の一人がぎごちなく笑った。「われわれにいえる限りでは、ドクター、うなる以外にはこれっぽっちもしやしませんよ」
「どうもわたしには」とバスクは私に話しかけ、ハーストのことは忘れてしまっているふりをして、「魔術のトリックを演じるためにお膳立てするのには、チョークでの円と死んだ若鶏以上の大したものはいらないと思えるんだけど。まあ、せいぜいオルゴン・ボックスどまりよ」
「きたならしくなる必要はない」とハーストがむっつりと言った.「それで何ができるかは、時が来ればわかることだ。アイザック・ニュートンも同じように世間にからかわれた ものだ、占星術を研究したおかげでね。その連中に彼が何といったか知っているかね? 彼はこういったのだよ、『私はそれを研究し、貴兄はなさらなかった』とね」
「ニュートンは、大小を問わず大半の天才と同様に、奇人でしたわ。狂気は天才には似つかわしいものですわね、けれどもわたくしには意外なことなんですの、あなたのようなお方、世俗の人が、彼の神経症の要素のためにそこまではるばる遠く行かなくてはならないなんて。ことに、古い諺『羮に懲りて膾を吹く』を思いあわせれば」彼女が願っているのは議論ではなく、闘牛の馬上の勢子と同様にただただ傷つけることだった。
「アウアウイのことをいっているのかね? あの作戦に関して誰もが忘れているらしいのは、私が勝利を収めたということだ。疾病にもかかわらず、幕僚の反逆にもかかわらず、私は勝ったのだ、私をとりまく虚偽にもかかわらず、また、つけ加えさせてもらおう、私がこれまでに対処しなくてはならなかった最も不利な星の巡りにもかかわらず、私は勝ったのだよ!」
血の匂いへの嬉しさに鼻に繊を寄せながら彼女は態勢をととのえると、どこに次の槍を突きたてるかを決めた。「わたくしは不公正で したわ」と彼女は慎重にいった。「わたくしには確かなことなんですものね、あそこで起ったすべてのことにはあなたよりもベリガンのほうにずっと責任があったってことは、このごろ責任が判断されるところによれば。ごめんあそばせ」
彼女も、私と同様に、これで彼が完全に追い詰められてしまい、バンデリリエロの出番になると思ったに違いない、ところがそうはならなかった。彼は書見台まで歩いていくと、書物の神聖文字から読みとるかのようにこういったのだ、「汝の欲するところをいえ」
バスクはささやかな眉をもの問いたげに上げた。
「汝の欲するところをいえ――そこにも一理はある」彼は書見台にこぶしを激しく打ちつけた。それから、比類のない教理口伝の感覚で、ベリガンの本のエピグラフを引用した――「天と地にはな、ホレーショ、そなたの哲学で夢みられるよりももっと多くのものがあるのだ」
この男がすべての戦いに勝利を収めたとしても不思議はない。彼は敗北を認めないのだ!
バスクは唇の手綱を引くとギャロップで去った。彼女が行ってしまうと、ハーストは微笑みながら私のほうへと向いた。「さて、これで確かにわれわれは老獪ジークフリートに目にものみせてやったのではないかな? 私の忠告を受けいれたまえ、ルイ――女と議論しようなどとは決してするもんじゃない」
伝統的に、こうしたコミカルなエピソードはもっと恐しい出来事へのプレリュードとなるものだ。ハムレットがポローニアスをからかい、道化が謎々を出し、酔いどれの門番が門を叩く音に答えようとよたよたと舞台を横切っていく。