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六月十九日

〈日常世界の構成要素〉(承前)

映画、火曜と木曜の夜。セレクションは誰でも(だが私は不可!)提案できるノミネーションのリストにもとづく多数決による。実際には各週に新作一本と再上映一本になる。 今週の番組。遂に最高裁を勝ち抜いたフェリー二の「コメディア」の畏れおおい断章。 グリフィス製作のイプセンの「幽霊」。同じ役者が恋愛遊戯に耽る父親と病気の息子の二役 を演じていた。最後の巻の終りのところで、黄色いフィルターが映写機に挾まれたのか、あるいはことによるとフィルムに色がついていたのか、そこで主人公は、大仰すぎるがまったくぎくりとさせるような運動失調の発病に見舞われる。「幽霊」には、とりあわせとして四〇年代からかなりの数のテリートゥーンと、理解に苦しむ退屈な紀行譚 (スコットランド高地での鱒釣り)。なぜか? キャンプの感覚によるものではまったくない(誰も笑ってはいなかった)。たぶんこれもまた、より広い外部の空気頭の世界との連帯をめざす無為な努力なのだろう。

その他の娯楽。ジョージの死以降、演劇に対する関心の復興はみられないが(私が〈アウシュヴィッツ〉を完成した暁には上演されるかもしれないけれども)、時おり囚人の誰かが最新作の公開朗読会を行なう――あるいは展示会か、まあ何とでも呼ぷのはご随意〈ハプニング〉の類。そうしたものには一度しか行っていないが、〈スコットランドの休日〉と同じくらい、あるいはそれ以上に退屈なものだった。年下の天才の一人による英雄対連休での錬金術もの。ふむふむ。

団体競技。そう、たしかに私はそういった。モルデカイが数か月前にクローケーのよく出 来た改訂版を考案した(ある程度はルイス・キャロルのゲームにもとづいて)これは一チーム三名から七名までのプレーヤーで行なわれる。毎金曜の夜にコロンビアンズとユニテリアンズの試合がある。(チームの名は決して見かけほどお上品な体裁ぶったものではない。これは梅毒の本質と起源をめぐる問題での対立する思想流派に関係があるにちがいなくて、コロンビア派はスピロヘータはコロンブスの船員たちによって新世界からヨーロッパヘ輸入されたのだと主張し――これなら一四九五年の大流行の説明がつく――一方、一体派の信ずるところでは、見た目には多種多様な性病は実はひとつのものであり、これを彼らはトレポネーマ病と呼ぶわけだが、そのプロテウスの如き多彩さは社会状況と個人の気質と風土のヴァリエーションによるものだというごとになる)

アノミー。驚くにはあたらない、というのも重大な社会的ないしは家庭的な係累の欠如というのが囚人の選抜の条件のひとつだったのだから。今、なるほど一種の団結心が、コミま一ティがある――だがそれははずれ者のコミュニティであり、心さむい慰めだ。愛の高揚、より穏かだがより長続きする予孫繁栄の喜び、年々、自分自身の生活のフォームを 築き上げていき」そのフォームをともかくも意味のあるものにしていくという通常の、標準的な幸福、そういったようなすべてのもの根本をなす人間的な経験が、彼らには可能性においてすらも認められていないのだ。ミードがきのう無念そうにいったように、「ああ、おれがあとに残してこなかったあのすべての女たち! 惜しいなあ!」彼らの非凡な才能は、他の点で埋めあわせてくれるのかもしれないけれども、彼らと一般の凡人たちとの間に開いた距離を増大させることにしかならない、なぜならたとえ彼らが治療され、キャンプ・アルキメデスを去ることを許されたとしても、その世界に安住することにはならぬだろうから。この地中深い穴の中で、彼らは太陽を見ることを学んだ。外の光の世界では、人々はいまも洞窟の壁に映った影を眺めているのだ。





T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日