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六月十七日

大いなる歓び、そしてそれに呼応して大いなる苦痛が(唯一おもい浮かぶ隠喩は、なさけないことに肛門をめぐるもの)、新たなウーヴルを(隠喩はおずおずと顔を覗かせる)出すことにはある。素晴しい単語だ、oeuvre というのは。

ルイ二世の近頃のこの頁への侵入は、あるへ点では有益なことなのかもしれない。それは私に、過去の作品をより明確に見ること、そのすべてがいかに全く俗悪なものであったか……あるかを認識することを許してくれた(強いた、というべきか)。私はこの否認に、と言い添えるべきだろう、最近のあの大ぼら吹きまくり The Hierodule を含める.

また、現実の〈進行中の作品〉のほかに、私はもっと大きなもの、ことによると私自身のマグナム・オパスの閃きを得ていて、これはひとつにはきのうのモルデカイの冒涜的言辞にインスピレーションを得たもので……「ポンパニアヌスの肖像」を読んだ。予想以上にいい、それでいて妙に当てはずれ。それは実にコントロールされた物語で、プロットは実に細心に練り上げられ、用語が実に見事に配列されているために、私が不機嫌になっているからだと思う。私は、cri de coeur、非具象的なアクション・ライティング、真実のモデルカイ・ワシントンを内々に垣間見させるようなものを、期待していたのだった。さしずめR・L・スティーヴンソンなら「肖像」を「夜の泊り」と対をなすものとして書いたかもしれないように(ただ、そちらは四万語、ほぼ長篇に近い長さだが)。

論旨は詳述に値する。ことに私はきょう、〈変更中の索引〉(語呂合せ、ジェイムズ・ジョイスに敬意を表して)からの抜粋以外に日誌を埋めるものが何もないのだから、これほ、したがって事こまかに――

「肖像」は、ルージ・クルワートル修道院で狂えるファン・デル・グースがブラザーたちから「才智の炎症」の治療を受けている、型通りのてんやわんやではじまる。治療は優しいのと身の毛もよだつようなのとを交互に繰返し、一様に効果がない。ファン・デル・グースは自分の破滅の避け難さへの恐怖の発作の中で死ぬ。

埋葬後(その前に見事な葬儀の説教がある)夜中に見知らぬ人が来て、枢を掘り出して開き、遺体に生命を吹き込む.ヒューゴーは、ここでわれわれは覚るのだが、魂を売渡していたのであり、その代償は (1) フランドルでは風評や版画を通してしか知られていない偉大 な絵画――マサッチョやウッチェロ、デラ・フランチェスカらの作品――のすべてを見るためのイタリア半島総巡りの旅と、(2) 画家としての三年間の至上の技量。北と南の巨匠たちを凌駕するのみならず、全能者の創造物とすらも競いあうことが彼の野望なのである。

ストーリーの主体はファン・デル・グースの、ミラノ(ここで若きダ・ヴィンチとの短くも信じ得べき一景がある)、シエナ、フローレンス訪問をめぐるもの。ヒューゴーと、その魔性の連れ、そして当時の画家たちとの間で芸術砕本質と目的をめぐって長い議論が重ねられる。ファン・デル・グースの最初のテーゼは一般的に唱えられているもの。芸術は現実の鏡となるべし。彼はこれがいかにすれば最もよくなしうるのか、解明することができないフランドル派の顕微鏡的な描法と宝石のようなトーンによるべきか、それともイタリア式の空間支配と造形的なフォルムによればいいのか。しかし、約束された技量を得てこの二つの流儀の統合を達成していくにつれて、次第に彼の関心のまとは現実を映し出すことではなく(悪魔のそそのかしのもとに)屈服させることになっていく。芸術が魔術へと変容していくのである。

至高のウーヴル(三年目が終りに近づく 頃)、標題にあげられている肖像画においてのみ、彼は超自然的な目的を達成するのだが、それでもなお、悪魔が彼を地獄へ連れ去るとき、読者は物語の破局がはたしてヒューゴーの魔術の結果なのか、それとも悪魔の好計によるものにすぎないのかという疑念へと導かれていく。

筋立てにはかなり煮えきらないファウストーマルガリート風のロマンスが織りこまれている。私はヒロインの描写にくすくす笑ってしまった。彼女は、少なくとも外見上はドタター・エイミー・バスクをモデルにしているのだ。これがロマンスとして説得力を持たないのも不思議はない!

要約すると。私はこの本が気にいった、そして画家と悪魔についての本が好きな人なら誰でも気にいるだろうと思う。





T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日