「Morituri te salutamus (死に赴く者ども、ご挨拶つかまつる)」といいながらモルデカイはドアを開けてにやりと笑い、これに対して私は、まったく冴えず、親指を立てて承認の合 図とする以上にましな応答をすることができなかった。
「Quid nunc? (このたびは何ぞ)」と問いながら彼はドアを締めた――この問いにはなお一層、答えようがないと思った。まったくのところ、私が訪ねていった目的は、ひとえに、私自身がこの〈今度は何〉の問題に直面させられるのを回避することだったのだ。
「慈悲だよ」と私は返答した。「ほかのどんな理由でぼくがきみの暗欝な房に光を入れるはずがある?」物憑きの浮かれたタッチ、それは効なく、なおいっそうの暗みの上に降り重なるばかりだった。
「慈悲の塩基は」とモルデカイはいった。「自己不信の酸を中和する」
「きみもぼくの日誌の写しを手に入れるのかい?」と私はきいた。
「いいや、けどハーストのを見てる、それでおれたちはあんたのことを心配してるわけだ。あんた、日誌に書こうとしないことがあるよな、ほれ、ほんとに秘密にしときたかったようなことはさ、だからやな顔をする理由なんてありゃしないぜ。あんたの問題はな、サケッティ、知の傲りってやつだ。あんたは、魂がうずうずしたりぞくぞくしたりすると、そいつにかたっぱしからくそったれなおため ごかしの辻褄を合せてしまいたがる。そこでだ、おれにいわせてもらえれば、信仰とおさらばしようというんなら、そんなものは歯医者に行って抜いちまってもらうのがお利口さんってもんだ。いじくりまわしてりゃ、痛いだけだぜ」
「でもぼくがここへ来たのは、きみの問題に与ろうとしてのことなんだよ、モルデカイ。 自分の問題は忘れてしまいたいんだ」
「そうかい、そうかい。だったら楽にするこった。問題なら二人分たっぷりあるぜ」彼は鋭く口笛を鳴らし、そして呼んだ、「オプシー・モプシー・コットンテイル! 出てきておまえらの新しい弟と握手しな」そして向きなおって私に、「おれの親友三人を紹介させてくれないか? 使い魔の、火吹き竜なんだがな?」
部屋の中のうだるような暗闇(灯りとなるのは奥の壁際のテーブルの上の二つの蝋燭、そしてMが手に持っている三本目だけだった)から兎が三羽、用心深くぴょんと出てきた。一羽はしみひとつない純白で、あとの二匹は斑らだった。
「オプシ」とモルデカイはいった。「おれの親友ドノヴァンと握手しな」
私が身を低くかがめると白兎がさらに二跳ね近寄ってきて、賢く様子を窺うように鼻をくんくんさせ、後肢で立ちあがって右の前肢を差伸べてきたので、私はそれを親指と人差指で受けて振った。
「はじめまして、オプシ」私はいった。
オプシは毛のふかふかした前肢を私の手からひっこめると、後戻りしていった。
「オプシって?」と私はモルデカイに訊いた。
「オプシマスの略さ。人生のあとのほうになって勉強を始める奴のこったよ。おれたちはみんな、ここじゃオプシマスさね、さあモプシ、おまえの番だぞ」
茶と黒の斑入りの元気そうな兎が進み出た。そいつが後肢で立ちあがったのを見ると、下腹部に、実に不釣合な大きさではあるけれど乳房のようなものが見えた。私はそれをMに指摘した。
「そいつは睾丸炎さ、知ってるだろう――キンタマの炎症だな。こんなに利口でいるためにこいつらが支払う代償ってわけだ」
私はモプシの前肢を急に放したので、兎は三匹ともみんなびっくりして暗い室内のそれぞれの隠れ処へと引込んでしまった。
「おや、バイキンの心配はいらないんだぜ。ただ、その指を口ん中へ入れるようなことになったら……スピロヘータが繁殖するのには温い、湿っぽい場所が必要でね。そこんところが性病の性病たるゆえんというわけさ。ここの便所で消毒すりゃいい、けどその前にコットンテイルを呼戻しちゃいけないかな? あいつ、きっとひどく心細い思いをしてるだろうぜ、あんたにあんなつれない仕打ちをされたんだからな」
しぷしぷ私はコットンテイルと握手した、そのあと石鹸と冷水で手を洗った。
「ピーターはどこだ?」と私は二度目のあぶくを立てながら訊いた。
「ファーマー・マクレガーが奴んとこへおいでなすってね」とモルデカイは薄くらがりから答えた。「兎たちはおれたちほど長くもたないんだ。二、三週間ってとこかな、そのあとは、ばーん!」
螢光灯の点るバスルームから広い部屋へ戻って、私は一時的に盲の状態になった。「ガス燈を試してみるべきじゃないかな、モルデカイ。このモダン・エージの驚異的な発明だよ」
「じつはガス燈を使ってるんだ、眼がイカレちまってない日にはな。けど、きょうみたいな日にゃ、明るい光はおれの繊細なゼリーの中を針の電みたいに突抜けていきやがるのさ。おれのこのほかの病気の話を聞かせてや ろうか? お憐みいただけますかね?」
「それで少しでもきみの慰めになるのなら」
「ほう、エジプト流の慰めだな。最初の二カ月は、今、特に記憶に残ってるようなことはなんにもなかった。二つ三つ歯槽潰瘍ができて、吹出物がでて、腫れがあって――年季の入った心気症の患者なら自分でどうにかできないようなものはひとつもなかったな。それから三カ月めに入って、おれは喉頭炎と、数学に滅茶苦茶に熱中したのとが重なって倒れた。低能にはうってつけの道楽だろう、え? そのあとまもなく肝臓にガタがきはじめ、眼の白いところが黄いろくなった。それ以来ずっと、マッシュポテトに茄でた果物、結構なデザートだろ、そんな反吐みたいなものばっかし食ってる。肉なし、魚なし、酒なしさ。まあ、酒なんてそんなに欲しいわけじゃないがね。つまりだ、いま抱えこんでる以上におつむを刺激するものは要らないってわけさ、そうだろう? 肝炎の期間中におれは一発目のどでかい文学キックをくらってフランス語とドイツ語を勉強したそのときのことだよ、まだあんたに見せてないあの小説を書いたのは。あの作品を持たずにこの部屋を去ったりすんなよ――いいな、サケッティ?」
「こっちはまえまえから、そうさせてくれというつもりでいたんだよ」
「四カ月めになる頃には、おれは病気の塊りになっちまってた。こいつを述べたてていく上で厄介なのは、思い出話をしてるとついつい病気をひとつずつすっきりまとまったものみたいにいっちまうことでね。実際には、どの局面もはっきりしないで重なり合ってたんだ。歯槽潰瘍も吹出物も、ほかの何かが始まったからって止まりゃしなかったし、とらえどころのないひきつけだの、いきなり瘡が来てのたうちまわったりだのといったことが、襲ってきては一日続いたり、一時間で済んだりした。おれがこれまで示した症状をぜんぶ引いたら、『ヘイスティング病理百科』はあらかた引きつぷしちまったぜ」
「『宗教と倫理』じゃないのかい?」
「そいつもこなしちまったよ」
「でも、いつ? いつそんな教養を身につけたんだい? それがぼくの理解できないところなんだよ。七カ月のうちの、どこでそんな時間をみつけたんだい、そんなに……何もかも掘起すような時間を?」
「坐んなよ、サケッティ、そいつについてとっくり聞かせてやるからさ。けどその前にご足労ねがってあの机の上のポットを取ってきてくれないか。気付薬さ」
眼はもう部屋の薄あかりになじんでいたので、よたよたせずにテープルのところまで行けた。水滴を汗のようにふいた魔法瓶が、ハーストが私に寄越したのと同しような〈極秘〉の書類挾の上に載っていた。底が濡れているために、台紙に輪の形のしみがついていた。
「すまんな」といいながらモルデカイはポットを受けとってコルク栓を抜いた。彼はストライプのシルク地の低い寝椅子の上に、小さなやわらかいクッションを重ねてかさ上げしたものに、半ば椅りかかっていた。まだらの兎の一匹が彼の股の間に来て、まるくなって寝ていた。
彼はポットからごくごくと音を立てて飲んだ。「一口どうだとすすめたいところなんだのが……」
「気持だけ有難くいただいとくよ。のどはかわいていないんでね」
「問題は、わかってるだろうが、そいつをおれがどうやるかってことじゃなくて、それをやるのをどうやってやめるかということだ。 おれはそれをやるのをやめない、このことがおれの不幸の半ばをなすものなのさ。最悪の状態で、おれが便器に頭を突込んで嘔いてるときも、脳みそゼリー大先生は下層の体細胞のことなんかは忘れ果てて、ただもうわきか えり続けてる。いや、忘れてるわけじゃないな。まるで無関心で、よそよそしくて、傍観者なんだ。おれは、自分のはらわたのその場所かぎりでしかない受難よりも、嘔いた物の野獣派的な色調だとか胃酸の化学といったもののほうに気を惹かれちまう。おれはいつも思考し、思索し、考察している.こいつは決して止まらないんだ、あの脳みそは、心臓や肺が止まらないのとおんなじようにな。ここに坐って話してても、心はどんどんそれて渦の中へ翔び去っていって、宇宙にあるかたづいていないものを全部むすび合わせて一個の意識の結び目にまとめ上げようとする。こいつは、くそったれめ、止まらねえんだよ。夜は、眠れるようになるまで注射をしなきゃならないし、眠れば眠ったで、テクニカラーの悪夢をみる、これはどうだといわんばかりの、おれの知る限りでは全くオリジナルな恐怖もののな。まったく、反覆的な反芻広告みたいなもんさ。いまのはちょいと入れ違ったかな」
「うん、気がついたよ」
「けど、ひとつ――ひとつだけ、そいつをちょっとの間とめちまうものがある。発作に襲われた時だ。そうなると、そのあと一時間、幸せなことに空っぽでいられる」
「きみは、癩燗の発作まであるのか」
「間合いが縮まってきてるよ。こいつは陣痛なんだよ、こいつと一緒におれは自分の霊を虚空に送り出しちまう覚悟をきめてるんだ。大動脈炎でな――これは最新の内幕話だぜ。おれの大動脈は弾力を失くしちまってて、おまけにどうやら今じゃ弁がいかれかけている。脈を搏つ時いつも血が漏れて左心室へ戻るんで、ドキドキおやじは(とおれたちは愛称で呼んでるんだが)それを埋め合せるためにスピードアップする。けど、そのうち――ばーん! いままた一羽の小さき兎、科学の闘技場に艶れたり」彼は重く黒い両手をくるまっている兎の上に置くと眼を閉じた。「感動的じゃないかい?」
台椅子から起き上がることもせず、私はこの時間(は、一発の瞬間的なプシュッ! で空気を失ってしまうジェミニ宇宙カプセルがパンクしたように、不意に空白になっていた)を、モルデカイの部屋を無言で検分することで埋めた。大きさは私のところと変りがないのに、包み込まれた闇が無限の広がりの錯覚を生み、そこから間歇的に調度の仮説が生じてきた。ファウスト的な書棚が、寝椅子の置かれているところ以外のすべての壁に天井まで立並び、寝椅子の上にはゲントの聖堂の祭壇の背面装飾の模造品が架けられていて、元 のものとの相違は優しい薄闇によって隠蔽されている。
荷を負わされすぎている作業台(私の部屋の間取りではL字形の寝間に当る箇所のほぼ全域を占めている)の近くに、機械装置なのか固定的な彫刻なのか、高さ四フィートばかり、何本かの突立った棒で構成されているものがあり、棒の先についている小さなメタリックな球が蝋燭の灯りに燦めき、それらに囲まれて中央にある大きめの球が黄金いろに輝いているーこうしたエレメントのすべてが、外接する二つの厚い鉄の帯で境界を定められた想像上の球体の中に納まっている。
「あれかい?」とモルデカイがいった。「あれはおれの太陽系儀さ。おれの仕様どおりに造られている。小さな月や惑星の各個の運行は、それぞれの内部にある超超超々小型化されたラジオ・エレメントによって規制される。〈ポピュラー・エレクトロニクス〉の頁からぬけでてきたみたいだろ?」
「でも、何のために?」
「自然に向けて鏡をかざすんだよ――それだけで充分じゃないのかい? おれは、その昔、占星術を囓ったことがあるけど、その頃だってシンポリックな意義しかなかったぜ。実際的な作業のためには、上の階に天文台がある。 おや、あんたの眼、思惑で輝かなかったか? 〈大脱出〉の微かな期待に? 忘れちまいな、サケッティ。おれたちは望遠鏡の似姿がクローズド・サーキットTVで投射される小さなプラネタリウムの彼方へは行けやしないんだ」
「きみは今『その昔』といったね.それは、占星術はやめたということなのか?」
モルデカイは嘆息した。「人生は短いんだ。そんなに何もかもやる余裕なんてあるもんか。考えてもみろよ、おれがもう寝ることもないスケどものこと、それに合わせて踊らずに終ってしまう歌のことを。そりゃあおれだってチャンスがあればヨーロッパヘも行って、本で読んできたものがどんな姿をしてるのかを、せめて一目なりとも見てみたいさ。 文化ってやつをな。けど、おれはそんな星のもとにはなかった。おれはいつまでもあんたのあのヨーロッパ旅行を羨み続けるだろうぜ。行ってみたいすべての土地。ローマ、フローレンス、ヴェニス。イギリスの大聖堂。 モン・サン・ミシェル。エスコリアル宮。ブルジェに」――と金泥の額縁の中の血を流している仔羊の絵をふり示して――「ゲント。 つまり、あらゆるところへだ、おまえさんが行った場所以外のな、とんちき野郎め。スイ スにドイツ! いやはやまったく、あっちで何をうろちょろしてやがったんだ? つまりだ、山が何だというんだ? そんなもの、地球のつらの皮のでこぼこじゃねえか。アルプスの北方がどうかといやあ……ま南、おれは四年間ハイデルベルクのはずれに配属されていて、おれに関する限りヨーロッパはライン止りなのさ。それが何より証拠には、おれは実際、休暇のたんびにビールがぶ飲み、肉団子浸りで嬉々としてたよ。ただ、土地のやつらが連中にとっちゃ吃驚するようなおれの膚色をあんまりじろじろ見た時は別で、そんなときにはブッヒェンヴァルトからの残り滓の気分を味わされたもんだ。ドイッチェラントとはな!」モルデカイはこの呪いの告白を激越きわまる調子で結んだので、兎が恐れをなして彼の膝から退散していった。「休暇なら、ミシシッピあたりで沢山だ」
話はこのあと、私のフルブライト留学生時代の幾つかの思い出話に移り、それを詳述するのは楽しいがここでの趣旨を外れているので、私がドイツのためにヨーロッパを捨てた(この恒分を、私は戦術的に受け容れた)理由(文学的、音楽的な)の疾しい概略とともに割愛する。
「リルケ、ぐじゃルケ!」とモルデカイは、私が語り終えると言った。「あのな、本ならここでだって読めるんだぜ。いいか今世紀のドイツの魅力はな、厭わしさの魅力なんだ。行けば今でも空中に漂っている煙の香が嗅げる。ひとつだけ聞かせてくれ――おまえさん、ダッハウヘ立寄ってみたか、どうなんだ?」
行ったことがあったので、それを話した。彼が町と収容所について語れというので、仰せに従った。彼のデテール嗜好は私の記憶力では満足させられないほど旺盛なものだったが、私自身はあれほどまで詳細に思い起こせたことに驚きをおぼえた。あそこへ行ったのはもうずいぶん前のことなのだ。
「おれがこれを訊いたのは」とモルデカイは、記憶の井戸が個れ果てたのを確認すると言った。「ほかでもない、最近、死の収容所の夢をみるからなんだ。先入主としちゃ理解しやすいものといえるんじゃないのかい? もっとも、そいつはこの西にあるおれたちの小さなホームと似かよったものにすぎないがね。おれが囚人だということ、駆除されるのが運命づけられてるってことを別にすれば、文句をいえた筋合いじゃないな、おれとしちゃあ。結局は、誰だってそうなんじゃないのかい?」
「囚人だということ? よくそんな気がするよ――うん」
「いいや。おれがいったのは、虐殺される定めにあるってことのほうだ。ただ違うのは、おれは運悪く執行令状を盗み見しちまっていて、大半の連中はシャワーを浴びに行くと信じてオーブンの中へ進んでいくということさ」彼は耳障りな笑い声を上げながら寝椅子の上で横に向きを変え、部屋の反対側の端、時計じかけの太陽系儀のわきに立っている私をもっとよく見ようとした。
「ドイツだけじゃない」と彼はいった。「キャンプ・アルキメデスだけのことじゃない。宇宙全体がそうなんだ。こんちくしょうな全宇宙がくそったれな収容キャンプなのさ」
モルデカイは、咳こむのと笑うのとを同時にしながら、ごろんと仰向けにひっくりかえるようにしてふさ飾りクッションの山に戻ったので、半分中味の残っている魔法瓶が、タイル張の床をおおうペルシャ絨織の上にはじき落されてしまった。彼はそれを掴み上げ、空になっているのに気がつくと、罵りめ言葉もろとも部屋の奥へと投げとばしたから、部屋の一隅を仕切っている絵のかかれた衝立ての生地が裂けてしまった。
「ドアのわきのボタンを押してくれないか、サケッティ? ここでコーヒーと呼ばれてるむかつく砂糖水がもうちょい欲しいんでな。気付薬だ」
私がベルを鳴らすか鳴らさないかの間に、黒い制服の衛守が(屁こきだった)御入来、パイ類を満載したコーヒー・ワゴンを押していて、そこからモルデカイが幾つか選んだ、私には、もう一人の介護人がフレッシュなニンジンのスライスがいっぱい入ったスポード作の磁器のボウルを三つ手渡してぐれた。
モルデカイは本や紙の堆積屑を作業テーブルの縁から押し戻して、われわれのカップ皿やパイ類の盛り皿のための場所を作った、彼は大きなチョコレート・エクレアにがぶりと食らいついたので、もう一方の端からホイップクリームが、数字がタイプで打たれている紙の上にほとばしり落ちた。
「いつも思うんだが」と彼は口を一杯にしたままでいった、「こいつが肉だったらなあ」
この間に兎たちが机の上まで登ってきていて、慎重に自分たちのニンジンを蓄っていた。蝋燭の灯りのもとでさえ、私は彼らが開いたままの書物や〈秘〉書類挾みの上に残した明瞭な蹄冠瘻の跡を見ることができた。
「ほれ、遠慮なく遠慮なく」とモルデカイがチーズケーキを取りながらいった。
「ありがとう、でもほんとにおなかが空いていないんだ」
「だったちおれのことは気にかけんでくれ。おれは腹が減ってるんだ」
私は彼のことを気にかけまいと精一杯のことをしたが、そのためには注意をよそにふりむけることが必要で、さてそうなると、二つのコーヒーカップと四つの大きなパイ皿のある場所でできることといえば、モルデカイの「作業テーブル上の最上層の堆積物の無作為抽出検査だった。左記の在庫品目録に於ては、遺憾ながら、三つの蝋燭の光の輪の外にあったすべてのものは、下に埋れているいっさいの思想的トロイ遺跡とともに省略せざるをえない。
私は見た――
錬金術に関する書物数冊――Tabula smargaina、ベネディクトゥス・フィグルスの A Golden and blessed casket of Nature's marvels, ジャービル〈全集〉、ポアソンの Nicolas Flamel、等々――美観上の最終段階にあるものがかなり。
乱数表
電子工学のテキストが三、四冊――そのうち最大のもの DNA Engineering カリフォルニア工大の神童カート・ヴリーデン著、タイプ稿本で、誘惑的な〈秘〉ラベルが厚紙製バインダーに糊づけされている。
スキラ版美術書から破りとられたカラー図版数葉、主としてフランドル派の巨匠たちの作品だが、ラファエロの〈アテネの学園〉の部分図と、デューラーの木版画〈メランコリア〉のぼろぼろになったのが一枚あリ
プラスチック製の頭蓋骨、実に装飾的で、眼は鉛ガラス製の模造ルビー
イーニッド・スターキーのランボー伝、およびプレヤード版のランボー詩集
〈ヘイスティング百科〉第IV巻、開かれていた頁にモルデカイが(或は兎の一匹が?)インク壜をひっくり返した痕
ウィトゲンシュタインの対訳版 Tractatus Logico-Philosophicus、革装に同様のインクが少々(今、この目録を作りながら思い起すのは、ルターのインク壷の利用法)
ノコギリ草
書類挾数通、色はさまざま、オレンジ色、鞣革いろ、グレイ、黒、タイプ打ちされたラベルはとぼしい光のもとでは殆ど読みとれなかったが、例外はいちばん近くにあったG・ワグナーの〈歳出簿〉。これの頁から(その一部だったのがはずれたのか、それともただの栞なのかはわからないが)かりかりになった仔羊皮紙が突き出していて、そこに、並の入間のいたずらがきよりさほど上等とも思えな い下手な絵が色インクで画かれていた。私が見ることのできた部分には、冠を被って顎ひげを生した男が長い笏を持っており、この上に順々に重なって更に六つの王冠がある。王様は蔓草から花のように開いた奇妙な台座に立っていて、蔓の枝が王様の頭の上方に拡がって一種の格子文様になっている。この格子の隙間にまた六人の男の首、身分が低そうでぱっとしない顔があり、それぞれの脇にDからーまでひとつずつアルファベットの文字がある。この首を実らせている蔓の左側の部分はジョージの閉じた本の中へ巻きねじれながら伸びていて、見えなかった。
そして、これらすべてに蔽いかぶさっているのがモルデカイのなぐり書きの草稿の山で、その中には幾つか、私がいま記述したばかりのものよりももっと粗雑な絵もあった。
目録おわり。
時おり兎たち(は自分たちの分は食べ終えて、パイの皿を嗅いでいた)に放心状態で愛撫する以外には、モルデカイは黙りこくってパイをむさぼっていた。最後の苺パイを食べ終えると、しかし彼、はまた、躁狂的とはいわないまでも饒舌になって――
「あんたには結構な暑さかな? ほんとは、お客がある時にゃオーブンを弱めるべきなん だが、そうなるとこっちは震えがくるんでね。本物の賢者の卵を見てみないか? 錬金術士なら、こいつなしじゃいられないってもんだ。 もちろんその気はあるよな。来いよ――きょうはあんたにありったけの秘法を披露してやるぜ」
私は彼に従って部屋の奥の、衝立てで仕切られた隅へと進み、近寄ってみると、どんなふうに熱が加えられているのかがわかった。衝立てで隠されていた、ずんぐりした陶板製の炉で空気が熱せられ、サウナの温度になっていたのだ。
「御覧ぜよ!」モルデカイは唱った。「温浸炉なり!」
壁の棚から彼は二つの重い防面具を降ろし、一つを私に手わたした。「こいつは婚礼の奥の間が開かれちまった時のためだ」と彼はポーカーフェイスで説明した。「おれの温浸炉は大目にみてもらわなきゃならん。電熱式というのは、あんまり comme il faut なもんじゃない」(礼にかなったフランス語も、モルデカイが発音すると comme-il-phut いかれてぺしゃんになってしまう)「そいつは認めるが、けどこの方式のほうがずっと楽に火を、浸漬的で蒸解的、連続的、非暴力的、潜行的、包み込まれ、空気的、遮閉的、腐蝕的なまま に保っておけるのさ。おれたちはここで錬金術の伝統的な目的に向っているんだが、おれたちが使う手段のうちの幾つかのものについちゃあ、おれはちょいとばかし勝手にやってるわけだ。
さて、そのマスクをつけたら、おっかさんの腹ん中を覗かせてやるぜ、こいつは仲間内の愛称でね」
マスクの眼の部分の切れこみには色ガラスで蔽いがつけられていた。暗い室内でこれを装けると、私は実質的に盲になった。
「Ecce (そうれ)」とモルデカイがいうと、耐熱陶板製の炉の蓋がメカニカルなぶーんという音とともにずれ開いて、白熱する凹面が姿を見せ、その中にぼうっと輝く、高さ二フィートほどの偏球形のものがあった――賢者の卵だ(散文的にいえば、レトルトである)。オランダ式のオーヴンに幾分似ていて、同じくらいに興味深いものだった。
蓋が唸って閉じると、私は汗みずくになったマスクを顔からはずした。
「丸太の火のほうがもっとぞっとしただろうな」私はいった。
「目的は手段を正当化するのさ。こいつはしっかり働いてくれる」
「ふむ」といいながら私は部屋の反対側にある私の台椅子に戻った。ここは程よい九〇度だった。
「働いてくれるんだ」と言張りながら彼はついてきた。
「厳密なところ、あの大きな鍋で何を料理しているんだい? 卑金属を黄金に変える? 詩的な連想はともあれ、何の役に立つんだい? 近頃では金よりも珍重される元素もかなりある。ケインズ以後の今の時代には、それはいささかドン・キホーテ的な志になってしまっているんじゃないのかい?」
「ちょうどそいつとおんなじことをおれはハーストに、何カ月か前、実験の案を練ってたときに言いきかせたよ。よって、〈メタリック・オパス〉はわれらの行程上のほんの一歩にすぎず、窮極のゴールはわれらの共同利益となる錬金薬液の蒸留精製である、というわけでね」モルデカイは微笑した。「長生の霊液だよ」
「回春の、と呼ばれていたと思ってたけど」
「そこんとこが、もちろんハーストにゃ魅力なわけだな」
「それで、その妙薬はどうやって醸成されているんだい? 調合の処方は門外不出の秘伝だろうと思うけど」
「幾つかの項目はそうさ、けどそれはジャービルやパラケルススを掘起しゃ済むこった。 しかし、サケッティ、おまえさんほんとに知りたいのか? 探りあてるために、救済を賭ける気があるか? おれにも、救済を賭けさせたいか? レイムンドゥス・ルルスはこういってる、『わが魂にかけて汝に断言す、汝これを暴かば呪わるべし』もちろん、あんたがざっと一通りの説明で充分だというんなら……」
「イシスがすすんで披露したもうものなら何であれ」
「賢者の卵には――あんたが温浸炉の中に見たでっかい鍋のことだな――水に溶けた嘗め薬が入ってて、こいつはこれまで九十四日間、昼は大地の火、夜はシリウスの星の光に代わりばんこに曝されてきてる。正しくいうなら、金は金属じゃない、光だ。シリウスは昔からずっと、この種の操作には特に効力があると考えられてきたんだが、これまでの時代にはシリウスの光を純粋な状態でとらえこむのは難しかった、とかく近くの星からの光が混って特殊な性質を弱めちまったもんでな。ここじゃ電波望遠鏡を使って、必要な等質性を確保している。卵のてっぺんに嵌めこまれてたレンズを見たか? あれが焦点を合せて純粋な光線を中にいる花嫁と花婿、硫黄と水銀に当てるって寸法さ」
「ぼくはきみがシリウスの光を求めてたと思っていたよ。きみは電波を得ているわけか」
「そのほうがずっといいんでね。電波と光波の間に線を引くのは人間のあさはかさにすぎないのさ。おれたちがそうできるほど霊的になりさえすれば、電波も目にみえるようになるはずだ。しかし話をもとに戻すと――九と九十日後、夏至祭の前夜に聖物安置所が開かれ、霊薬は移し変えられることになっている。けど、笑うんじゃないぞ、いいな。そんなことしたら、効果がすっかりだめになっちまう」
「失敬。そうしないようしてみるけれど、きみは本当にこういうことが得意なんだな。ぼくはいつもベン・ジョンソンのことを考えているんだ」
「おれが真剣じゃないと思ってるのか」
「おそろしく真剣だとね。それに舞台効果も、ジョージが『フォースタス博士』のために考案したどんなものよりも上だよ。つまり本箱の中に並ぶあの胎児の壺、あの聖杯……あれは聖別されているんだろう、もちろん?」
モルデカイは頷いた。
「わかってたよ。それに、きみがきょうしている指輪――それはみんな、フリーメーソンのリングだろう?」
「ひどく古めかしいやつでね」彼は誇らしげに指をうごめかした。
「きみは大向う受けする演技をするけど、モルデカイ、アンコールには何をやるんだい?」
「こいつが今度うまくいかなかったら、おれはもうアンコールのことなんか心配することもないんだぜ、そうだろうが。最終期限は迫ってるさ。けどこいつは絶対にうまくいくんだ、どえらくな! 心配なんざこれっぽっちもしてないったら」
私は途方にくれて首をふった。モルデカイが自分自身の見事な大ぺてんに乗せられてしまっているのか、それともこうした使徒信条はただ単に、もっと大きな欺瞞のために必要な添えもの、いわば前座にすぎないものなのか、判断がつかなかった。私はまた、こうも考え込みはじめていた、充分な時間を与えられたなら、彼は私をその愚行に改宗させることができるのではないか――理をわけた議論によってでなければ、あの無表情でたゆむことなき真摯さの、この上なきお手本を示すだけで。
「なんでこれがあんたにはそんなにばからしく見えるんだね?」とモルデカイは問うた、無表情に、たゆむことなく、真摯に。
「それは、空想と事実の、狂気と分析の結合なんだよ。きみの机の上のああいった書物だよ、たとえば――ウィトゲンシュタインにヴリーデン。きみは実際にあれを読むんだろう?」彼は頷いた。「ぼくも、きみがそうすると信じるよ。そういったものがあって、それと並んで、こじつけそのもののバイロン流悪魔学、愚劣な料理なべや壕詰めの胎児」
「なるほど、おれば錬金術の手続きを現代化するためにできるだけのことはやってるが、ピュア〈サイエンス〉、大文字のSで始まるやつに対するおれの態度は、一世紀前に仲間の錬金術士、アルチュール・ランボーが表明してるぜ―― Science est trop lente. のろすぎる、ってな。彼以上におれにとって、どれだけそうであることか」おれにどれだけの時間が残されているか? ひと月、ふた月。それで、月でなくて年だったとして、どんな違いがある? 科学は、宿命的に熱力学第二法則に黙従する。――魔法は自由に良心的拒否者になれるんだ。実のところ、おれは自分が死ななきゃならん宇宙に興味はないのさ」
「それはつまり、きみが自己欺瞞を選んだということになる」
「いいや、とんでもない! おれは脱出を選ぶ。おれは自由を選ぷんだ」
「きみはそれをみつけるのに絶好の場所へ来た」
モルデカイはますます落着きを失くして、それまでも寝椅子に覚れかかっているだけだったのが寝返りを打つようにして離れ、身ぶりをしながら部屋の中を歩きまわりはじめた。「いかにも、ここはまさしくおれの自由が最大になる場所だな.有限で不完全な世界でおれたちが望める何よりのものは、心が自由になることで、このキャンプ・アルキメデスには、おれにまったくそんな自由だけを認めてあとは一切みとめないというふたつとない態勢が整っている。まあ、プリンストンの〈先進研究機関〉も例外にしていいだろうな、あそこもおれの理解するところだと全く同じような方針で組織されてるんでね。ここじゃ、ほら、おれは何もかも無視していられる。よそではどこでも、戦術的に自分の環境を受けいれはじめ、戦うのを、それぞれの新たな不正や非行と取っくみ合うのをやめ、絶望的に妥協していく」
「たわごとと訪弁。きみは理論を試着しているだけだよ」
「ほう、あんたはおれの胸の裡までお見とおしだな、サケッティ。けど、結局のところ、おれのたわごとと詭弁には意味があるのさ.あんたのカソリックのゴードをこの監獄宇宙の所長にするがいい、そしてあんたは厳密にアクィナス流の論法、たわけたこじつけを守ってるがいい。つまり、おれたちが自由になれるというのは〈彼〉の意志に従ってるにすぎない、ってやつさ。ところが実際には、ルシファーがよく知っていたように、おれが知ってるように、あんたもそれとなく示したように、自由になるには〈彼〉に向って鼻先に親指をつけてみせるほかないんだぜ」
「そしてきみは、どんな代償の上にそれがなされるのかを知っている」
「罪の報いは死なり、さ、ところが死はまた同様に徳の報償でもある。となりゃもっと上等なこわがらせのネタが必要になる。地獄かね、ひょっとしたら? なあに、こここそ地獄なれば、われもここより外にはあらじ、さ! ダンテはブッヒェンヴァルトの収容者におびえたりはしないぜ。なんでおたぐの聖なるピウス法王はナチのオーブン焼きに抗議しなかったか? 慎重さや臆病さからじゃない、職務への忠誠の本能からだ。ピウスは死のキャンプが、死すべき運命にある人間が〈全能者〉のプランに向ってこれまでになした最も近い接近だと、感じとったんだな。神は、アイヒマンの特筆大書版なり、ってわけさ」
「いかにも!」と私はいった。これはと思えることがあるからだ。
「いかにも」とモルデカイは言張った。部屋の中をさらに速く歩きまわった。「考えてもみなよ、キャンプのあの根本組織原則を――囚人の行為とその報償または処罰との間にはいっさい関連なかるべし、ってやつをさ。アウシュヴィッツじゃ間違ったことをしたら罰をくらう、けど言われたとおりにしてもやっぱり、いや、全然なんにもしなくたって処罰されかねないんだぜ。ゴードがおんみずからのキャンプをおんなじ方式で組織あそばしてるのはもう明らかだろう。伝道の書から一件りだけ引用すると(おふくろはこのくだりが自分の人生に特別な関係があると信じてたものさ)――『義人がその義によりて滅ぷことあり、悪しき者その悪によりていのち永らうこともあり』而して知恵も正義より有用なるものにはあらず、賢者も愚者と変ることなく死すものなれば。
おれたちは焼却炉の外で、黒焦げになった子供たちの骨かち目をそらせるが、おさなごを――しばしば全くおんなじやつを――永劫の火ん中へ堕とすゴードはどうなんだ? しかもどの場合にも全たく同じ弱み――生れという偶然の出来事を咎めだてするんだぜ。ほんとの話、いつかヒムラーは聖者に列せられるだろうよ。なにせピウスはもう列せられて るんだからな。出ていくのか、サケッティ?」
「きみとは議論したくないよ、きみはぼくにほとんど選択の余地を残してくれないし。きみのいうことは……」
「言語に絶する。あんたにはそうだろうが、おれにとっちゃそうじゃない。もうちょっと長くとどまってくれるなら、しかしおれももっと手加減すると約束するけどね。お返しもしよう――キャンプ・アルキメデスがどこにあるのか教えてやるよ。全能の神の設計図の上でじゃなくて、地図の上で、さ」
「どうやって知ったんだい?」
「星でさ、航海者なら誰だってやるようにな。ほれ、天文台というものにゃ、リモコンの観測所だって、もっと散文的な利用法もあるわけでね。おれたちはコロラドにいるのさ、そいつを見せてやろう」
彼は棚からフォリオ版の書物をおろし、机の上にひろげた。二頁にわたって州の地勢図があった。「おれたちがいるのはここ」と彼は指さしながらいった。「テリュライドだ。世紀の変りめの頃にはでっかい鉱山町だった。おれの仮説だと、キャンプヘの入口は昔の鉱道の立坑のひとつを通ってるにちがいない」
「しかしきみたちの観測がすべてテレビを使ってなされてるんなら、望遠鏡が頭の真上 にあって百マイル、いや千マイル離れているわけではないと確信はできないんじゃないのかな」
「どんなことだって確信なんてできるものじゃないさ、まあそんなこといくら思いわずらってみたって無駄な努力というもんだと思えるがね。それにここには、おれがおとといカタコンベの床から拾ってきた角礫岩がある。こいつにはシルヴァナイトの筋が入ってる、含金テリュライト鉱のひとつだ。となると、おれたちはどこかの金鉱にいることになる」
私は、自分でジョークをいう前に笑ってしまった。「ここで〈マグナム・オパス〉の大事業を営むのは、間違いなく、ニューキャッスルヘ石炭を運び込む類にあたるよ」
モルデカイは笑わずに(そんなに圧倒的なジョークではなかったと今ではわかる)いった――「静かにしろ! なにか聞こえるぞ」
長い沈黙ののち、私は囁いた。「何なんだい?」
モルデカイは顔を大きすぎる両手で隠していて、返事をしなかった。私はジョージ・ワグナーをはじめてみた時、暗く連なる通廊で幻影に耳を澄ましていた姿を想い起した。懐えがモルデカイの身体を貫いてゆき、やがて彼は力をぬいた。
「地球の身ぶるい?」と彼は微笑みながら一案を示した。「いや――そうじゃない、想像力がほんのちょっと炎症を起しただけ、だと思うな、ブラザー・ヒューゴーの場合みたいに。けど今度はあんたが話してくれなきゃならんぜ、正直にほんとのところ、おれの実験室をどう思う? 適切なものかい?」
「いやあ、とても素敵だよ」
「これ以上素敵な独房に収監されるのを望めるもんかな?」彼は迫るように問うた。
「ぼくが錬金術師だったら、望みようがないね」
「足りないものはないか、何ひとつないか?」
「ぼくが読んだところでは」と私は探りを入れるようにしていった(こんなに熱烈に問う彼の意図がわからなかったので)、「何人かの錬金術士は、十六世紀と十七世紀に、実験室に七管のパイプ・オルガンを置いていたそうだ。音楽で牛にもっと乳を出させようというわけなんだけど。きみの研究に何か役立たないかな?」
「音楽? おれは音楽は大嫌いだ」とモルデカイはいった。「親父はジャズ・ミュージシャンだった、それに兄貴ふたりもな。場末のそのまたいちばんはずれのやつだが、それが奴らの生きがいだった。練習してないときにゃ レコードをかけるかラジオを鳴らしてた。おれは口を開くこともほんの小さな音を立てることもできなかった、こっぴどく叱られちまうもんでな。おれに音楽の話をするんじゃないぜ! 黒んぼには天性のリズム感覚があるってことになってて、それでおれは三歳になるとタップダンスのレッスンを受けはじめなきゃならなかった。おれはそいつが下手っぴいで、だいっきれえだったんだが、ほれ、こんな天性のリズム感があったもんだから、レッスンは続けられた。教師はおれたちに昔のシャーリー・テンプルの映画の抜粋をみせて、おれたちはあの子の型を最後の微笑とウインクまできっちり身につけなきゃならなかった。六つの時にマミーがおれをローカル劇場でやる木曜の夜のタレント・ショーに連れてった。こんな糞エレガントなリトル・エンジェルのコスチューム、金ラメと派手はでのプリント地で盛装させてさ、おれの曲目は I'll Build a Starway to Paradise だった。 あんた、こいつを知ってるか?」
私は首をふった。
「こんなふうにいくんだ……」彼はきしるようなオウムめいた裏声で歌うと同時にカーペットの上で足をシャッフルさせはじめた。 「えい、こん畜生め!」とどなって中止した。 「いったいこんなくそったれな絨椴の上でどうすりゃ何かができるってんだ?」彼はかがみこみ、文様入りのカーペットのふちのふさ飾りを掴むと、タイル張りの床からそれを引剥がし、その過程で調度をひきずってずらしたりひっくり返してしまったりした。
それから、いちだんと大声でグロテスクな歌と踊りを再開した――
「わたしは築きます天国への階段を
日毎新たなステップで……」
彼の両腕は調子っぱずれのメロディと同調せずに殼竿のように打ちはじめた。フットワークは混乱した足踏みにすぎないものになっていった。「なんとしてでも参ります」と彼は金切声をあげた。両腕を前方に振り出して、仰向けに倒れた。歌は痛ましい絶叫に変質していき、腕と脚はなおも殼竿をふりまわし続けていた。彼は頭を激しく床のタイルに打ちつけた。
発作が去ったのは衛守たちが看護入を伴って到着する寸前だった。モルデカイは制止ざれ、鎮静剤を与えられた、
「今はしばらく彼のもとを離れていただかなくてはなりません」と衛守の班長がいった。
「持っていくことになっていたものがあるんだ。ほんの一秒待ってもらえば……」
私はモルデカイの作業テーブルのところへ行って、モルデカイが地図を拡げた際に目にとめておいた〈極秘〉の書類挾みをみつけた。班長はそれを疑わしげに見た。
「それを取扱う権限をお持ちですか?」と彼は問うた。
「彼が書いた小説なんだよ」と私は説明しながら書類挾みからタイプ打ちされたぺージを抜き出して彼に表題を見せた――『ポンパニアヌスの肖像』「これを読んでくれと頼まれてね」
彼はタイプ打ちのぺージから眼をそむけた。「オーケイ、オーケイ。でも後生ですから私にそれを見せんで下さい!」
私はそこで彼を看護人や衛守たちと一緒に残して去った。モルデカイと一緒にいると、いつもその直後に、まるで大事な試験にしくじってしまったような気分になるのはなぜなのか?