ジョージ・ワグナーが死んだ。診療室には無用の肉、その残り屑を納めて封印された枢が、ここの本来の岩盤に粗雑に掘られた溝、ほかならぬわれわれの霊廟に嵌めこまれた。私と、他の囚人たちと、三名の看守が参列したが、ハーストもバスクも、教戒師さえも来なかった。レイヴンスプルックに教戒師がいたか、そう思うか? 自分でも、またみんなも途惑ったことに、私は何ごとか空虚な祈濤の文句を唱え、それは鉛のように重く沈みこんでいた。昇華することもなく、いまも霊安堂の粗い床に横たわっているのではないかと思う。
二十余りの窪みが空いている、薄あかりの地下埋葬所、あそこには囚人たちにとって(カルトゥジオ修道院に幾列も並ぶ枢の褥にも似て)抜き去り難いメメント・モリの魅力があった。そんな病的な衝動こそが、思いみる に、死者へのいかなる敬度な感情にもまして、彼らを埋葬へと誘なったのではあるまいか。
みんなが列をなして扉を抜け、われらの回廊世界の幾何学的な静けさの中へと去っていくなかで、モルデカイが、石の壁(石ということで予想されるような冷えびえとしたものではなく、生ける肉のように温い)に手を当てて、「角礫岩よ」といった。私は彼が、「さらば」というものと思っていた。
「さあ行くぞ」と衛守の一人がいった。私はもうかなり長くここにいるので、衛守の顔や人となりを見分けることができる、こいつは〈岩眼〉だった。あとの二人は〈屁こき〉と〈忠僕〉。
モルデカイは身を屈めて床かちこぶし大の石の塊を拾い上げようとした。忠僕がホルスターから武器を抜いた。モルデカイは笑った。
「暴動を引起こそうなんてしちゃいませんよ、おまわりさん、ほんとでさ。ただこの可愛い角礫石のかけらをあっしの石のコレクションに入れたいだけでね」彼はそれをポケットに納めた。
「モルデカイ」と私はいった、「リハーサルのあとできみが話してくれたことについてなんだけど……どれくらい経てばきみたちは……きみはあとどれくらい……?」
モルデカイはすでに門口に立っていて、そこでふりかえった。通路の螢光を受けてシルエットになっていた。「おれは今、七カ月めだ」
平静に彼はいった。「七カ月と十日になる。ということは、あと五十日あるわけだな――おれが早熟でなければ」そして扉の敷居から降りると左に曲り、見えなくなった。
「モルデカイ」といいながら私はあとを追いかけた。
岩眼が行手を遮った。「今はお控え願えませんか、サケッティさん、お差支えなければ。バスク先生と会う約束がおありでしょう」屁こきと忠僕が、さっと私の両側の所定の位置についた。「ご同行ねがえませんか?」
「あんなことをなさるなんて、実に愚かな、実に無分別な、実にあさはかなことでしたわね」とドクター・エイミー・バスクは、厳粛な、ガイダンス・カウンセラーの口調で繰返した。「いいえ、気の毒なジョージ青年の安否を問う云々の問題じゃなくて――だってあなたもご指摘のように、どのみち状況のそうした側面を、いつまでも隠しておくことはできなかったでしょうからね。わたしたちだって願っていたんですのよ、おわかりでしょうけど、その…… 解毒剤を発見できないものかと。けれど今では、あのプロセスは一旦はじまってしまえば取消しができないと認められている。あああ。 いいえ、そんなことじゃないのよ、わたくしが話していたのは、だってあなたが、好んでわたしたちの非人間的所業どお呼びになるようなことについて、たとえどんなに抗議なさろうと、わたしたちが取組んでいることにはあまた先例があるんですもの。その歴史を通じて医学研究は、進歩の代償として殉難者の血を支払ってきたんですのよ」
彼女はここでことばを切り、その残響を楽しんだ。
「そのことでないとしたら、いったい何のお叱りを頂戴するために小生はここへ召し出されたのかな?」
「図書館でのあの実に愚かな、実に無分別な、実にあさはかな小探索行の件でよ」
「なんとも油断のないことで」
「ええ、そりゃもう。煙草、喫っていいかしら? じゃあ失礼して」彼女はくしゃくしゃのキャメルを、かつては透明だったのが今では中指や人差指と変りのない濃い褐色に染まっている、寸詰りのプラスチック製シガレットホルダーにさしこんだ。
「しかし、今であれ放免されたあとであれ、 ぼくが人名録を調べたなら、情報は簡単に手に入るってことは認めざるをえないんじゃないかな」
私が人名録で発見したのは(今、それに言及してはならない理由はない)実はいかなる組織がハーストを傭い、担当の副局長としてリサーチ&
〔ここで二行、ルイス・サケッティの日誌の稿本から汚損。――編者〕
「背信? 欺瞞?」とドクター・バスクは、穏やかに諌めるようにいった。「欺瞞があったのなら、きっとあなたもわたくしと同じくらいにその当事者だったはずよ。でも実のところそれはむしろ志気の問題じゃないかしら? わたしたちはただ、あなたの気分を沈みこませないようにして、無用な心の負担で仕事に枷がかかることがないようにしようとしているだけですのよ」
「というのはつまり、最初っからきみたちには、ぼくをキャンプ・アルキメデスから放免する気など毛頭なかったということか?」
「毛頭? あらあら、これは大仰なせりふだこと。もちろん出してさしあげますとも。いずれはね。思想情勢が適正化すれば。実験によってわたしたちPR局の正当性が実証されたなら。そうなれば、あなたをスプリングフィールドヘ帰してさしあげることもできる。それに、ほぼ間違いなくわたしたちはその局面に、あと五年以内に――というよりは五カ月以内にといったほうが近いかしら――到達できるでしょうから、あなたとしてもどうせ時間を過すのなら、あんなにうんざりしてらしたあそこにいるよりは、ここで進歩の最先端をいく機会を得られるほうが、有難いはずでしよう」
「なるほど、いかにもきみたちの人殺しのすべてを目撃するチャンスを与えられて感謝すべきだな。いや、まったく」
「まあ、そういうことになるわね……あくまでもそんなふうに見ようというんなら、でも今はもう心得ているはずよね、サケッティくん、世間は物事をあなたとは違ったふうに見ているのよ、キャンプ・アルキメデスのことでスキャンダルを呼ぼうとしてみたって、あなたはおそらく、あなたの裁判の時にそうだったのと同じくらいに僅かな注目しか浴びないでしょうね。そりゃあ何人かはお仲間の偏執狂があなたの勇ましい演説を聞きにくるでしょうけど、大方の人々は忌避者のいうことなんかまともに受けとりゃしないわよ、そうでしょう」
「大方の人々は自分の良心をまともに受けとめないな」
「また異った仮説ね、だけどそれも同じ一群の事実にあてはまるんじゃない?」ドクター・バスクは、目立たない、皮肉な眉を上げると、(あたかもそれが欠かせない靴の抓み皮であるかのように)自分自身を、低い革の席から引上げた。ぱりっとした灰色のドレスが神経質な両手でなでつけられて、電気の曝きをもらした。「ほかに何かありますか、サケッティくん?」
「この話題が最初に出たときにおたくは、いずれはあの薬の、パリジンの効能をもっと詳しく説明するといいましたね」
「いかにも左様、説明いたしましょう」彼女は黒いレザーの蜘蛛の巣にまた坐りこむと、青白い唇を整備して教師然とした微笑に仕立てあげ、解説した―― 「この病気の症因となるのは――だけど、あんなにためになるものを病気なんて呼ぷのは、はたして正当なことかしら?――小さな虫、スピロヘータで、トレポネーマ・パリダムにとても近いものよ。あなたはそれがここで"パリジン"と呼ばれてるのを聞いたわけ だけど、その名称はむしろ、宿主に感染する病原体が、大半の薬剤とは違って生きていて自己増殖するものだという事実を、覆いかくしてしまっているわ。要するに虫ね。
トレポネーマ・パリダムについて、耳にしたことくらいはあるんじゃない? スピロヘータ・パリダと呼ばれることもあるんだけど? ない? まあ、その成果のほうは、とくとご存じのはずよ。トレポネーマ・パリダムは梅毒の病原体なの。あらら、なつかしくも身におぼえあるショックのようね、そうじゃないこと? わたしたちがここで扱わなくてはならない、その虫というのは、一種の変わりだねで、一九一二年にある梅毒患者の男性の感染した脳からとりだされてそれ以来ウサちゃんの体内に流れる血の中で生かし続けられていた、ニコルス変種として知られる亜種から、最近枝分れしたものなのよ。数知れぬ世代を重ねてニコルス・トレポネーマはそんな実験用の兎の体内で繁殖し、そして常に、最大級の集中的な研究の対象となっていた――畏敬の対象、といってもいいくらいのものよ。特に一九四九年以降はね.四九年にネルソンとメイヤーどいう二人のアメリカ人が共同で、TPIを、この病気の唯一最上の診断検査法を開発したわけ。といったようなことはみんな余談。ジョージ青年を打滅ぼしたトレポネーマとニコルス・トレポネーマのちがいは、少なくともニコルス種とそこらの培養トレポネーマ・パリダムとの差には相当するはずよ。
スピロヘータの小さな世界への、群を抜いて最も積極的な探究者が軍であったと知っても、驚くにはあたらないでしょう。幾多の優秀なる兵士が、こんな顕微鏡的な敵に打負かされてきたんですものね、もちろん第二次世界大戦と、ペニシリンの登場までのことだけど。そのあとも、研究が打ち切られたわけじゃない。五年ほど前、陸軍のある研究班が――兎でよ、もちろん――通常のペニシリン療法が使えないような場合、あるいは(三パーセントほどの比率であることなんだけど)それが効かないときに、放射線を治療の道具として利用できないものかと調べていた。そこで、ある興味深い現象がみられた実験によって兎の新しい血統が生みだされたのではないかと思われるようなことがあったのよ。血のつながりといっても、子孫が殖えるという意味ではなくて、兎がお互いから血を――そしてトレポネーマを――とりこんで継承していくわけ。そんなある血筋の兎が、この病気の典型的な症状である睾丸炎にかかっただけ じゃなくて、病気で酷く蝕まれているにもかかわらず実に悪知恵が働くように思われたのね。何度か、濫から脱出したのよ。スキナー学習ボックスでの成績は、それまでに記録されたどんなものをも凌いでいた。わたしはそうしたテストを担当していたんで、それがまったく驚異的な偉業だったことは請合ってもいいわ。ええ、もちろんそれでパリジンが発見されることになったわけ。この発見に何らかでも有用性がみられるようになるまでには、それからまた三年経たなくてはならなかった。三年よ!
顕微鏡でみるとパリジンは、他のスピロヘータと大同小異。スピロヘータという名からもわかるように、スパイラル、螺旋形をしていて、そのねじれが七重になっている。標準的なトレポネーマ・パリダムはもっと大きいわね、ねじれが六重にしかなっていないことも稀にはあるけど。ごらんになりたければ、そのように……結構? ほんとに、ずいぷん可愛いものなんだけど――からだを手風琴みたいな具合に一杯に拡げたり縮めたりして進むの。じつに優美なものよ。"シルフの如し"と教本ではいってるわ。わたしはただただ、あれが血漿の中を泳ぎまわるのを眺めて時を過したものよ。
そうねえ、トレポネーマ・パリダムとパリジンとではずいぷん異なる点があるけれど、後者にあの特異な力を与えているものが厳密にいって何なのかは、わたしたちにも判定できずにいるの。梅毒はその後期に、中枢神経系を冒すことで悪名を轟かせているわよね。 たとえば、スピロヘータが脊髄に入りこんでしまうと――これは最初に感染してから実に二十年後という場合もあるんだけど――脊髄癆に罹る――最もありふれた症状で、実に不快なものよ。癆、知らない? なるほど、たしかに近頃はあまり見かけなくなっているわね。最初はただ脚がぐらぐらするだけなんだけど、やがて関節が脹れ、溶けてきて、支えとしての役目をまるっきり果せなくなってしまって、しまいには患者の約十パーセントが失明する。というのが癆なんだけど、スピロヘータが脳に入った場合には――脊髄の中を滲透的に、いわば樹液が木の中を上昇するような具合に進んでいくわけなんだけど――この場合には進行性の麻痺に罹って、はるかにもっと興味深い病理を示すようになる。芸術家としてのあなたの関心を惹くような、名高い患者も何人かいるわよ。ドニゼッティ、ゴーギャン、まだまだいるけど中でも哲学者のニイチェなんかは収容所からの最後の頃の手紙 に"ディオニシウス"と署名しているわ」
「著名な詩人はいないのかい?」と私はきいた。
「実をいうと、梅毒、シフィルスという病名は、ある詩人に由来するものなのよ。フランカストリウスが一五三〇年にラテン語で、羊飼いのシフィルスという恋わずらいの色男にまつわる田園詩を書いているわ。わたしは読んだことないけれど、その気があるなら……? まあ、ほかにもゴンタール兄弟や、ガリヤー二神父、ヒューゴー・ヴォルフ……でも、トレポネーマ・パリダムがいかなるものを成就しうるかということの至高にして不朽の範例は、やはリアドルフ・ヒトラーね。
それで、スピロヘータが脳の中で成就するものがそんな荒廃――錯乱と崩壊でしかなかったなら――キャンプ・アルキメデスは存在することもなかったでしょうね。ところが、こんな意見が出されたのよ――論者の中には何人か、とても立派な人たちもいて(といっても大概は医学方面ではない人たちだったけれど)――神経梅毒は有害なものとなるのと同じくらいの割合で恩恵も施してくれているのではないか、わたしがいま挙げたような天才たちは(まだまだ大勢追加したっていいけれど)この病気の犠牲者であったのと同じくらいに受益者でもあったのではないか、というわけ。
これはまったくのところ、最終的には天才の本質の問題になるでしょう。天才の解釈としてわたしの知っている最上のものは、つまり、わたしたちの得ている事実を最も幅広く包摂しているのは、ケストラーのもので、天才のなせるわざは、要するに、それまで別個のものであった二つの関連領域あるいはマトリックスを引合せること――併置の能力にほかならない、というものよ。アルキメデスの風呂が、ささやかな例となるわ。彼以前には誰も、物の量の測定と、水が押しのけられるというごく日常的に見かけられる出来事とを、関連づけてみなかったわけね。現代の研究者にとっての問題は、アルキメデスが『エウレカ!』と言う、その瞬間に、脳の中で実際にどんなことが起こるのかということなの。といえばもう明らかになったと思うんだけれど、それは一種の解体――文字どおり精神が解けほぐれて、古い、画然としていたカテゴリーがしばし流動的になり、再編成が可能になるということなのよ」
「でもそれだと」と私は異議を唱えた。「ばらばらになったカテゴリーが再編成される、そこに天オの営為が存する、ということにしか ならないよ。重要なのは解体じゃなくて、そのあとに来る新たな併置だろう。狂人だって天才に劣らず見事に解体してしまえるよ」
ドクター・バスクはシガレットの煙のヴェールの中で謎めかしくも微笑した。「天才を狂気から分つといわれるあの細い糸は、たぷん偶然のものでしかないんでしょうね。たぶん狂人は、ただ不運にも誤っているというだけのことなんでしょう。でも、あなたのいわんとするところはわかるし、それに答えることもできるわよ。あなたはこういおうとしている、とわたしは受けとるわけなんだけど、天才というのは一パーセントの霊感にすぎないんだ、『エウレカ!』が到来するその瞬間のために準備を整えていくプロセス、それこそが天才の成立における決定的な要因なのだ。要するに、教養だ、それによって物事の真の姿を識るのだ、というわけでしょう。
でもそれは、前提に問題を秘めてはいないかしら? 教養は、記憶というものはそれ自体、そうした修養の場における天才のあらゆる瞬間をなぞりかえしていくことにほかならないでしょう、教育とは、常に古いカテゴリーを解体し、それをよりよい方式で組立て直していくことでしょう。だとしたら、厳密なことをいうなら、過去のある一部をすべて完壁な姿で蘇らせ、現在という瞬間をすっかり消滅させてしまう緊張症患者より優れた記憶力を持つ人がいるかしら? 敢えていってしまうなら、思考というものそれ自体が、脳の病い、退化的な事態だとさえいえるんじゃないかしら。
だってそうでしょう、天才が、その実体――万に一つのまぐれ当り――でなくて継続的なプロセスだったら、そんなもの、わたしたちにとって貴重でも何でもなくなってしまうじゃない! 数学のような分野における天才は、ふつう、どんなに遅くても三十までには費い果されてしまう。心が、創造という自壊的なプロセスに対して自衛するのよ。身を固めはじめるわけ。観念が凝固して不可変の体系となっていき、これはもう、解体されて再編成されることを拒むようになってしまう。 ヴィクトリア朝の大解剖学者オーエンが、まるでダーウィンを理解しようとしなかったことを考えてみるといいわ。自己保存なのよ、純然たる。
そして、天才が自己制御せず、あくまでも自由連想の極みのカオスヘとまっしぐちに突き進んでいこうとすればどんなことになるか、考えてみて。わたしが考えているのは、あなたがた文学者のあの英雄、ジェイムズ・ジョィスのことよ。大真面目で Finnegan Wakes (ママ)をまさしく狂気の表白と受けとって、それだけを根拠乏して作者を入院させかねないような、そんな分析医をわたしは何人も知っていてよ。天才? それはそうよね。でもわたしたち一般の常人にはみんな、天才というのが淋病と同様に交わりによって伝染する病気なのだと認識する、一般常識というものがあって、それに従って対処するものなのよ。わたしたちはそんなわたしたちの天才をみんな何らかの種類の隔離病棟に収容して、感染させられないようにしているのよ。
わたしのいっていることにこれ以上の証拠が必要だというのなら、周囲を見渡してみることね。わたしたちはここに天才をどっさり抱えこんでいるわけだけど、彼らの主要な関心事は何かしら? どんな崇高な目的に、彼らが自分たちの集団知性の彪大な集積をふりむけているというの? キメラの研究よ! 錬金術じゃないの!
そりゃあ、たしかに誰ひとり、フォースタス博士ぞの人だって、これほど鋭敏な知性や精妙な弁別力、奥深い学識を、ヘルメス学にふりむけたことはなかったわよ。モルデカイがいつも用意怠りなく指摘するように、何世紀にも亘って最も巧妙な判じ物つくりや最も 策をこらした反啓蒙家たちが、そんな知的なアラベスクの意匠を凝すことに勤しんできたわよ。まったく、どんな高い精神だって溺れこんでしまえるほど深いものだわよ。でも、それでもやはりあんなものは痴癡の沙汰なのよ、あなたもわたしもモルデカイ・ワシントンも存分によく弁えているように」
「ハーストはそう思っていないようだけど」 と私は穏かにいった。
「これもまたわたしたちみんなが承知していることだけど、ハーストは度し難いばかなのよ」とバスクは、プラスチック製ホルダーの先まで喫ったキャメルをもみ消しながらいった。
「へえ、ぼくはそんなこといわないよ」と私はいった。
「彼があなたの日誌を読むんですものね――わたしもそうだけど。すでに書いてしまったことは、そうそううまく打消せるものじゃない。あなたはモルデカイの思想や、彼がハーストをたらしこんでいる手口について、自分がどう思っているのかを、いってしまっているわよ」
「たぶんぼくは、おたくのご認証をたまわれそうなほどよりも、もっと寛い心の持ちぬしだよ。モルデカイの仮説についての判断は留保させていただきましょう、どっちみちきみにとっては同じことなら」
「あなたはわたしが思ってた以上に偽善者ね、サケッティ。お望みとあらばどんなナンセンスだって信じるがいいわ、そして、そうしたければどんな嘘でもつくことね。どうだろうとわたしには何の違いもないことよ。いずれ近いうちにわたしは山師と対決することになるんですもの」
「どうしてそういうことになるんだい?」と私は訊いた。
「すべてはスケジュールに組込まれているのよ。わたしはあなたがメーンエベントのリングサイドの切符を手にするのを見ることになるでしょうね」
「それはいつのこと?」
「きまってるじゃない、夏至の前夜よ。ほかにあって?」