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: 追記―― : 一冊目 : 六月九日   目次

六月十日

ずっとよくなった、おかげさまで。うん、かなりいいよ。さて、もう一度、敗北の陽あたりのいい側を向くことにしよう。

事実を――

またHHに会う。囚人や衛守たちの一様に石膏を塗ったような白さに慣れてしまうと、彼の顔の太陽ランプで焼いた(トーストした〈テイスティ・ホワイト・ブレッド〉みたいな)ふかふかした感じは今まで以上に自然の秩序に対する違背に思えた。これが健康というものなら、病気で私を衰弱させるがいい!

このこと、あのこと、また別なことについて話をした。彼は私の日誌の全般的な事実的性(ママ)をおほめくださったが、きのうの分は例外で、主観的すぎるという。今度また主観的になりそうになったら、一言いえば衛守が精神安定剤を持ってきてくれるとのこと。貴重な日々が脱け落ちていくのを放置しておくような余裕は、われわれにはないのではありませんかな?

こうして、またああして、彼の凡庸さのグリスの行き届いたカムやタペットが、上へ下へ、前へうしろへ、ひょっこりぽっこり、予測可能な循環軌道をたどっていく――そして彼はこう尋ねた。「それでジークフリートにお会いになったでしょう?」

「ジークフリート?」と私は問い返しながら、モルデカイの渾名かなと思った。

彼はウィンクした。「ご存知でしょう……ドクター・バスクを?」

「ジークフリート?」私はもう一度きき返した。ますます面くらってしまっていた。「どういうことです?」

「ご存じでしょう――ジークフリートの要塞線のようなものですよ。難攻不落。そんな冷淡な人物だと確信したからこそ、このプロジェクトに彼女を引き抜いたのですよ。ふつ うなら、こんな状況に女性を置くなどとんでもない。さかりのついたGIの群を相手に仕事をせねばならず――しかもその中に黒人が一人どころではないんですからな。しかし、ジークフリートなら、そんなことは一向に変わりがない」

「どうも、経験からいっているように聞こえるんだけど」と私はそれとなくいってみた。

「WACの隊員はね」とハーストは首をふりながらいった。「中にはそこまでいかない者もあれば、また……」と内緒話でもするように身をのりだして、「これは日誌に書かないでおいて欲しいんだがね、サケッティ、実をいうと彼女、まだ蕾を散らしていないんだよ」

「まさか!」と私は反論した。

「誤解しないでくれたまえよ――ジークフリートは仕事の面では第一級だ。誰よりも自分の職務をよくわきまえていて、感情で職務が妨げられるようなことは決してしない。心理学者というのは、一般に、センチメンタルになりがちだというのは知っているだろう――他人を助けたがるものだ。バスクはそうじゃない。彼女に欠点があるとしたら、想像力が足りないということだろうな。時どき彼女は、考えの幅がちょっと狭くなる。あまりにも……わかるだろう……型どおりなんだ な。勘ちがいしてもらっちゃ困るよ私も人並みに科学に敬意を払っている――」

私はうなずいた。ええ、ええ、勘ちがいなど致しませんよ。

「科学がなければ放射能もコンピュータもクレビオゼンも得られなかったし、人間が月に行くこともなかったろう。しかし科学というのはものの見方の一つにすぎない。もちろん私はジークフリートが若い衆に……」(とハーストはモルモットたちのことを呼ぶ)「……直接に話をするようなことはさせないが、それでも連中が彼女の敵意を感じとることはできると思う。さいわい、そのために彼らの熱情が落ちこんだりはしていないようだ。重要なのは、バスクすら気づいているように、彼らに自分で自分の進路の舵取りをさせることなのだ。彼らは古い思考のパターンを脱却し、その足跡を残し、探検せねばならないのだよ」

「しかしいったい何なんです」と私は訊いた。

「バスクが認めないというのは?」

またも彼は内緒話ふうに身をのりだし、眼のまわりの日焼けした雛がデルタ状になった。「私が話していけないという理由はないな、サケッティ。いずれ若い衆の誰かから聞くことになるのだから。モルデカイは〈大事業〉をやらかそうとしているのだよ――」

「彼が?」といいながら私はハーストの人のよさを賞味した。

彼はびくっとした。日の光に対する羊歯と同じくらい、懐疑の最初のかすかな徴候に敏感だった。

「そうとも、彼がね! きみが何を考えているのかはわかるよ、サケッティ。老ジークフリートと同じことを考えているのだろう――モルデカイが私をたぶらかしたのだと。私が、世にいうところの、かつがれているのだと」

「まあ、そういう可能性もありますね」私は認めた。それから、傷日口に軟骨をすりこむように、「ぼくに、不誠実になってほしいというわけじゃないんでしょう?」

「いや、いや――とんでもない」彼はためいきをついて椅子に坐りなおし、きつく寄せた皺を顔いちめんに拡散させる。さざなみが、彼の愚昧さの浅いプールの表面にひろがっていった。

「驚きはせんよ」と彼は続けた。「そんな態度を示されても。モルデカイとの会話の描写を読んでいるのだから、それには当然気がついている……最初は、たいていみんな同じような反応を示すものでね。錬金術なんて黒魔術のたぐいだろうと考えるわけだ。認識しないのだよ、これも、ほかのどれとも同じように科学だとは。最初の科学なのだよ、実のところ、そして唯一の科学というべきだろうな、いまも、すべての事実を見ることを恐れないという点では。きみは唯物論者かね、サケッティ?」

「ううーん……そうはいえないんじゃないかな」

「ところが昨今の科学はまさにそうなってしまっとるんだよ――まったくの唯物論で、ほかには何もない。誰かに、超自然的な事実について話そうとすればーつまり、自然科学における事実よりも上位にある事実、ということだがね1相手は眼を閉じ、耳をふさいでしまう。彼らには知るべくもないのだよ、彪大な量の〈研究〉のことや何百巻もの〈文献〉、何世紀にもわたる〈リサーチ〉……」

この最後のフレーズには当然〈アンド・デベロップメント〉とついて完結するはずだったと思うのだが、ここで彼はわれにかえった。

「そういえば」とことばを続けたが方向転換していた。「日誌の中で一度ならずトマス・アクィナスに言及していたね。で、どうかね、彼が錬金術士だったと考えてみたことはあるかね?実際にそうだったのだよ、そして彼の師、アルベルトゥス・マグヌスはそれ以上に偉大な錬金術士だったのだ! 幾世紀もの 昔から、ヨーロッパのまさに最高の知性の主たちが錬金科学を研究してきたというのに、当節ではきみやバスクのような手合いが、それについて何ひとつ学ぼうともせずに、彼らの業績すべてを迷信のたぐいにすぎないと既めてはばからない。しかし、迷信的なのはいったいどちらなのかね、え? 証拠もなしに判定を下しているのはどっちなのかね? え? え? きみは錬金術に関する本を読んだことがあるのかね――一冊でも?」

私は錬金術に関する書物を一冊も読んだことがないと認めざるをえなかった。

ハーストは勝ち誇った。「それでいてきみは、云々する資格があると思うのかね、幾世紀もの間の古典学者やしいんがくしゃたちのことを?」この単語の発音には、また実のところこの講演の調子や内容全体に、モルデカイの残響があった。

「ひとつ忠告を聞いてもらえんかな、サケッティ」

「ルイと呼んで下さっていいんですよ」

「うん、それをいうつもりだったんだよ……ルイ。心を開いて、フレッシュなアプローチを受けいれることだ。人類史上の偉大な進歩はすべて、ガリレオから」――またも壮大華麗にしておぞましいモルデカイぶし――「われらの時代のエジソンまで、敢えて異分子たることを恐れなかった人々によってなされたのだよ」

私は開いて受けいれることを約束したが、調子のでてきたHHは舌鋒をおさめようとはしなかった。案山子の大軍をなぎ倒し、ここ三年間のマレーシアでの意気阻喪するような出来事はすべて、ワシントンにいる一部の中心人物たちが、名指しこそしなかったが、フレッシュなアプローチを受けいれようとしないせいで起こったのだと、夢幻的な論理を展開してみせた。

ところが、少しでも突っこんだ質間をすると、口数が少なくなって用心深くなる。私はまだ、奥儀を伝授されるだけの心がまえができていないのだと彼はそんな態度で示していた。軍隊時代からハーストは秘密というものの効能に不動の信仰を保っていた。知識というものは、一般に知られてしまうと価値が減じるのだ、というわけである。

私はもはや、「マルスの合」でベリガンの描いた"アーリック将軍" 像の正確さを寸毫も疑わないし(この本がここの図書館では手に入らないことも判明している)、なぜハーストが、非難中傷のかぎりを尽し、ベリガンを破滅に追いやることに全力を傾けながら「裁判 にだけは持ちこまなかったのかも理解できる。この御幣かつぎの耄碌じいさんは、アウアウイでのあの一年がかりの悲惨きわまりない作戦を、占星術にもとづいて遂行したのだ! 願わくば、歴史が逐条的に繰り返されて、モルデカイが、あまりにも巧妙に、ベリガンの悲運の役割を再演したりしないことを。





T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日